第八十二部 近すぎるものは、地図に書けない話 Another Side:レオン/ニーナ ② 暖炉のそばの長椅子と、気のせいという一言
レオンは、暖炉の近くへ置いた古い長椅子へ腰を下ろした。
椅子というより。
厚い板を、石の台へ載せただけのものだった。
ニーナは、その正面へ膝をつく。
「上着」
「自分で脱げる」
「どうぞ」
レオンは右袖を抜いた。
左へ腕を回したところで、肩に痛みが走る。
動きが止まる。
「痛い?」
「少し」
「少しじゃなくて」
「中より上」
「手伝う」
「お願いします」
「最初から言えばいいのに」
「男には、難しい時がある」
「王子にも?」
「特に王子には」
「面倒」
ニーナは、レオンの上着を肩から抜いた。
中の薄いシャツも。
脇腹を診るため、胸元まで開かせる。
肩。
肋骨。
脇腹。
前の傷へ重なるように、新しい打撲と擦過傷が増えている。縄で擦れた手首も赤く腫れ、麻痺矢が掠めた脚には、不自然な硬さが残っていた。
ニーナの表情から。
先ほどまでの軽さが消える。
「何が少しなの」
「全部を合わせれば、それなりに」
「別々に答えて」
「肩は中くらい」
「脇腹」
「かなり」
「脚」
「痺れが少し」
「頭」
「正常」
「それは怪しい」
「ひどい」
「王子なのに、こんなに怪我して」
「王子だから怪我をしないわけではない」
「王子だからじゃない」
ニーナの指が、脇腹の腫れへ触れる。
レオンの身体が僅かに強張った。
「痛いでしょう」
「ああ」
「何で言わないの」
「言っている」
「言わせてるの」
「結果は同じでは」
「違う」
ニーナは顔を上げた。
「私が訊かない時も、ちゃんと言って」
「努力する」
「実行」
「はい」
その言葉を返すだけで。
レオンの胸の奥へ、妙な安心が戻ってくる。
王子だと知られた。
賞金首だと知られた。
カミラを追っていたことも話した。
それでも。
ニーナは以前と同じように、痛い場所を押し、嘘を見抜き、言うことを聞けと叱っている。
何も変わらないわけではない。
彼女の中には、まだ怒りも疑問もある。
だが。
触れる指は変わらない。
「何を考えてるの」
ニーナが尋ねる。
「王子と知っても、お前は変わらないと思って」
「変わってる」
「そうか?」
「かなり怒ってる」
「知っている」
「聞きたいこともある」
「それも」
「でも、いまは治療」
「やはり変わらない」
「褒めてる?」
「かなり」
ニーナの耳が、少しだけ赤くなる。
「動かないで」
「動いていない」
「顔が動いてる」
「顔は止められない」
「目を閉じて」
「診察中に?」
「変なところ見ないように」
「何も見ていない」
「これから見る顔だった」
「俺の顔は未来まで読まれるのか」
「黙って」
ニーナは新しい包帯を取り、レオンの背中側へ回した。
肩から胸へ。
脇腹を避け。
身体を一周させる。
正面へ戻ろうとした時。
小屋の外で、馬が大きく嘶いた。
同時に。
つないでいた馬車が僅かに動いた。
左車輪が、窪地の石を一つ押し出す。
転がった石が、小屋の外壁へ当たった。
低い衝撃。
屋根から土が落ちる。
「何?」
ニーナが振り返る。
その足元で。
古い床板が割れた。
「ニーナ!」
レオンが腕を伸ばす。
ニーナの膝が沈み。
身体が前へ倒れる。
頭から石床へ落ちるのを避けるため、レオンは反射的に彼女の腰を抱いた。
勢いのまま。
ニーナは、レオンの上へ倒れ込んだ。
片膝は長椅子の端。
もう片方の脚は、レオンの膝の間。
両手は、裸の胸へ。
顔は。
息が触れるほど近い。
二人とも。
すぐには動かなかった。
「……大丈夫か」
レオンが小さく尋ねる。
「たぶん」
「頭は」
「打ってない」
「よかった」
それだけ言って。
レオンは、自分の右腕がニーナの腰へ回ったままだと気付いた。
細い。
以前、肩車をした時にも知っていたはずなのに。
改めて抱き止めると。
思っていたより近い。
ニーナも、レオンの手へ気付いた。
顔が赤くなる。
「手」
「怪我を防いだ」
「もう離して」
「離したいが」
「何」
ニーナが起き上がろうとする。
しかし。
彼女の上着の胸元を留めていた細い紐が、レオンの手首に残る鉄輪へ引っ掛かっていた。
身体を起こした分だけ、紐が引かれる。
「あ」
結び目が解けた。
上着の片側が肩からずれ、下に着ている薄い肌着の襟元が見える。
ニーナが動きを止める。
レオンも止まる。
視線を。
上げようとした。
だが。
一瞬だけ遅かった。
「見た?」
「事故だ」
「見たの?」
「見えてしまった」
「同じ!」
ニーナが慌てて胸元を押さえようとする。
さらに身体が傾き。
今度は顔からレオンの胸へ倒れ込んだ。
「ちょっと!」
「俺は動いていない」
「引っ掛かってる!」
「分かっている」
「外して!」
「片手では難しい」
「もう片方は?」
「お前の腰を支えている」
「離して!」
「離すと、また落ちる」
「じゃあ落ちないようにして!」
「いま、そうしている」
壁際で眠っていたガレスが。
ゆっくり目を開けた。
熱のある顔で。
二人を見る。
半裸のレオン。
その上へ覆いかぶさるニーナ。
ずれた上着。
腰へ回された腕。
絡まった紐。
長い沈黙。
「続けるなら」
ガレスが言った。
「俺は外へ行くぞ」
「違う!」
ニーナが叫ぶ。
「事故だ」
レオンも言う。
「王子は、治療される度にこうなるのか」
「今回は、かなり偶発的だ」
「今回は?」
ニーナが顔を上げた。
「以前にも何かあったのか」
ガレスが尋ねる。
「肩車から落ちた」
レオンが答える。
「言わなくていい!」
「診療所の床で」
「黙って!」
「洗濯場でも」
「レオン!」
「事実を整理しただけだ」
ニーナは。
ようやく紐を鉄輪から外した。
身体を起こす。
上着を押さえ。
顔を真っ赤にしたまま、レオンを睨む。
レオンは。
ここで黙っていればよかった。
分かっていた。
本当に。
分かっていた。
それでも。
「以前より」
口が動いた。
「受け止め方は上達したと思う」
拳が飛んだ。
胸の中央。
傷のない場所を。
正確に殴る。
「痛い!」
「生きてる!」
「医療者が、新しい傷を作るな!」
「今できたのは反省の印!」
「王子を殴ったぞ」
「患者二号!」
「身分が下がりすぎている!」
ガレスが横になったまま、額へ手を置いた。
「金貨千枚を運んでいるはずだった」
低い声。
「なぜ、痴話喧嘩まで運ぶことになった」
「痴話喧嘩じゃない!」
ニーナが答える。
「では、患者教育か」
「そう!」
「拳で?」
「必要だったから!」
レオンが胸を押さえる。
「私情が入っている」
「入ってない!」
「包帯も、少しきつい」
「まだ巻いてない!」
「これから入る可能性を言った」
「黙って!」
ガレスの肩が。
小さく揺れた。
レオンが、すぐに顔を向ける。
「笑ったな」
「熱だ」
「便利な言い訳だ」
「お前を見ていると、娘へ会いたくなる」
「なぜ」
「十一歳でも、お前よりは落ち着いている」
「比較対象が厳しい」
「レオン」
ニーナが包帯を持ち上げる。
「何だ」
「腕を上げて」
「殴らない?」
「治療」
「信じていい?」
「早く」
「はい」
レオンは両腕を上げた。
ニーナは、顔を赤くしたまま包帯を巻く。
手つきは。
怒っていても正確だった。
脇腹へ負担を掛けず。
肩を固定し。
呼吸を妨げない強さで結ぶ。
最後の結び目だけ。
少し強かった。
「きつい」
「気のせい」
「私情が」
「気のせい!」




