第八十二部 近すぎるものは、地図に書けない話 Another Side:レオン/ニーナ ① 王子は、治療中に余計なことを言う話
道標へ残されていた紙を見つけたあと、ガレスは馬車を正規の街道から外した。
次の橋にも。
予定していた炭焼き小屋にも向かわない。
林の中へ伸びる、古い伐採道を選んだ。
道と呼べるのは、最初の半刻だけだった。
その先は、倒木を避け、藪の薄い場所を拾いながら進むしかない。車輪は何度も木の根へ取られ、応急処置をした左車輪が、そのたびに低く軋んだ。
ガレスは手綱を緩めない。
だが。
馬の息が、次第に荒くなっている。
「もう止めて」
ニーナが言った。
「まだだ」
「馬がもたない」
「追手も止まらない」
「馬が倒れたら、私たちも動けない」
「倒れる前に場所を探している」
「ガレスも倒れそう」
「俺は馬ではない」
「知ってる。馬の方が素直」
御者台の背中が僅かに動いた。
怒ったのか。
笑ったのか。
後ろからは分からない。
レオンは荷台の幌から外を見た。
足首と腰の鎖は残っている。
両手は自由になったが、武器はない。
逃げることだけを考えれば、不可能ではない。
しかし。
林へ入れば、ニーナも付いてくる。
負傷したガレスを残せば、ニーナは戻ろうとする。
馬車と薬を失い。
追手がいる森へ、三人がばらばらに散る。
最悪に近い。
「左へ」
レオンが言った。
「何だ」
「少し先に石積みが見える」
ガレスも目を凝らした。
林の斜面。
蔦に覆われた低い石壁がある。
伐採人か、国境の測量人が使った小屋らしい。屋根は一部崩れているが、壁の半分以上は残っている。
裏手には、細い沢。
馬車を木々の間へ隠せる窪地もあった。
「入れる」
ガレスが言った。
「追手は」
「道からは見えない」
「なら止めて」
ニーナが言う。
「今度こそ」
ガレスは、ようやく手綱を引いた。
◇
石小屋の内部は、長い間使われていなかった。
床には枯れ葉。
壁際には壊れた椅子。
煤で黒くなった暖炉。
屋根の穴からは、夕方の光が細く差し込んでいる。
ガレスとレオンは、まず馬車を窪地へ入れた。
枝を切り。
車輪の跡へ枯れ葉を戻し。
馬の蹄跡を沢の水で消す。
「王子は、こういうこともするのか」
ガレスが尋ねた。
「王子をしていた期間より、逃げていた期間の方が長い」
「便利な王子だな」
「高く売れるぞ」
「知っている」
「本人へ言うな」
「お前が言った」
ニーナは二人の後ろを歩きながら、ガレスの足跡へ落ちる血を見ていた。
枯れ葉へ、赤い点が続いている。
「ガレス」
「あと少しだ」
「いま止まって」
「馬をつなぐ」
「レオン」
ニーナが呼ぶ。
「何だ」
「馬、お願い」
「俺が?」
「ガレスを座らせる」
「本人が嫌がると思う」
「嫌がっても座らせる」
「分かった」
レオンが手綱を取る。
ガレスは何か言おうとしたが。
ニーナが正面へ立った。
「座って」
「まだ」
「ガレス」
「……分かった」
返事が早くなっている。
馬車を出た頃なら、三度は拒んだ。
レオンが馬を木陰へつなぎながら言う。
「かなり教育されたな」
「黙れ」
「今の返事は遅い」
「お前も患者二号だ」
「なぜガレスが言う」
「見ていれば分かる」
ニーナが振り返る。
「患者二号も、上着を脱いで」
「もう?」
「肩を動かしたでしょう」
「馬をつないだだけだ」
「枝も切った」
「見ていたのか」
「見てる」
「安心したような、怖いような」
「早く」
「はい」
レオンは小屋の中へ入った。
◇
最初に診られたのは、ガレスだった。
脇腹の包帯には新しい血が滲んでいる。
熱も、リンデンを出た時より上がっていた。
ニーナは壊れた椅子の脚を外し、その上へ布を重ねて簡単な寝台を作る。水を沸かし、傷を洗い、開きかけた縫合を確認した。
「動きすぎ」
「追われていた」
「追われてても、血は止まらない」
「知っている」
「知ってる人の傷じゃない」
「それは、どういう傷だ」
「言うことを聞かない人の傷」
「なら、合っている」
「自慢しないで」
ガレスは反論をやめた。
ニーナが新しい布を巻き終える頃には、額の汗も少し減っていた。
「横になって」
「見張りが」
「レオンがする」
「賞金首に?」
「両足はまだ縛ってるでしょう」
「それでも信用できない」
「俺が逃げれば」
レオンが壁際から言った。
「ニーナは、お前を置いてこない」
「それは分かっている」
「理解が早い」
「だから腹が立つ」
「寝て」
ニーナが言った。
「二人とも話さない」
ガレスは外套を頭の下へ入れ、壁際へ横になった。
目を閉じる前に、レオンを見る。
「逃げるな」
「ニーナを置いては逃げない」
「それ以外なら?」
「考える」
「正直だな」
「お互いに」
ガレスは、小さく鼻を鳴らした。
そのまま、すぐに眠りへ落ちた。
疲労と熱が。
警戒心を上回ったらしい。
「眠った?」
ニーナが小さな声で尋ねる。
「ああ」
「早い」
「限界だったんだろう」
「分かってたなら、もっと早く止めて」
「俺は拘束されていた」
「口は自由だった」
「自由になったばかりだ」
「言い訳」
「王子の弁明だ」
「余計に悪い」
ニーナは薬箱を持ち、レオンへ向き直った。
「次」
「俺か」
「患者二号」
「王子では?」
「嫌なんでしょう」
「王子様と呼ばれるのは嫌だ」
「じゃあ、二号」
「極端だな」




