第八十二部 近すぎるものは、地図に書けない話 ① 古い塩街道と、隠すための道
白石河港を出た一行は、南東へ延びる古い塩街道を進んだ。
現在の交易路より道幅は狭く、長く使われていない場所では、左右から伸びた草が轍の中央を覆っている。荷車が二台すれ違える場所は限られ、ところどころに残る石積みの道標も、苔に半分ほど埋もれていた。
先頭を進むのは、セドだった。
馬には乗らない。
乗れないわけではないが、地面に残されたものを見るなら、歩いた方がよいという。
荷車の轍。
折れた草。
靴底の跡。
道標の裏へ挟まれた枝。
橋の下へ結ばれた紐。
普通の旅人なら目にも留めないものを、セドは一つずつ確認していた。
その少し後ろを、レイラとリューリックが進む。
テオは馬上でも帳面を開いていた。
「揺れていても読めるの?」
レイラが尋ねる。
「読めるよ」
「気持ち悪くならない?」
「数字が合わない時の方が気持ち悪い」
「商人って、みんなそうなの?」
「優秀な者はね」
「自分で言うのね」
「誰も言ってくれないから」
リューリックが、前を向いたまま口を挟んだ。
「否定する者も少ないのでは」
「リューリック殿は、時々かなり率直だね」
「事実を述べただけでございます」
「その言葉は、便利だ」
「テオ殿ほどではございません」
二人の会話を聞きながら、レイラは少しだけ息を吐いた。
兄が連れ去られた。
進路は分からない。
敵が残した指示は、追跡者を迷わせるためのものかもしれない。
焦りが消えたわけではない。
むしろ、馬を走らせている間も、胸の内側ではずっと同じ場所が締め付けられている。
それでも。
周囲が普段どおりの言葉を交わしてくれることで、焦りだけに呑まれずに済んでいた。
前を歩いていたセドが、突然片手を上げた。
一行が止まる。
「どうしたの?」
レイラが馬を寄せる。
セドは答えず、道の脇へしゃがみ込んだ。
草の中から、細い木片を拾い上げる。
片側だけ黒く焦げている。
「荷車の留め木?」
エルナが尋ねた。
「違う」
セドは木片の表面を指でなぞった。
「合図」
焦げた側には、小さな切れ込みが三つ。
反対側には一つ。
「どういう意味?」
「三つ先で、道を戻す」
「三つ先とは」
リューリックが訊く。
「道標か、橋か、井戸。先生のところでは、その時にあるものを数える」
「三つ先で折り返す?」
「うん」
テオが帳面を閉じた。
「僕たちへ見つけさせるには、少し分かりにくいね」
「先生の人へ向けたものだから」
「なら、まだ近くに使う者がいる?」
セドの顔が僅かに硬くなる。
「分からない」
「それでいい」
レイラがすぐに言った。
「三つ先まで進んで、確かめる」
一つ目は、崩れた石の道標だった。
二つ目は、細い支流に架かる木橋。
三つ目には、使われなくなった料金所が残っていた。
屋根の半分は落ち、正面の扉もない。
その前へ。
一台の荷馬車が置かれていた。
馬はいない。
御者もいない。
ただし、車輪の周辺には新しい泥が付き、幌の端には乾き切っていない赤い染みが残っている。
「兄様?」
レイラが馬を降りようとする。
「お待ちください」
リューリックが腕を伸ばした。
言葉は静かだったが、制止する力は強い。
彼自身が先へ進む。
剣の柄へ手を置き。
荷馬車の周囲を一周する。
人の気配はない。
罠も。
すぐに見える範囲にはない。
「近づいてもよろしいかと」
レイラが馬から降りる。
荷台へ近づくほど、血のような匂いが強くなった。
幌を上げる。
中に人はいない。
積まれていたのは、大きさの揃わない石だった。
荷台の半分近くまで積まれ、縄で固定されている。
「石?」
エルナが眉を寄せる。
「重さを作るためだね」
テオが荷台の縁へ触れた。
「人を縛って運んでいるような深い轍を残すために、石を積んだ」
「血は」
レイラが赤い染みを見る。
リューリックが指先へ僅かに取り、匂いを確かめた。
「人血ではございません」
「分かるの?」
「獣の血かと。山羊、あるいは羊でしょう」
レイラの表情が固くなる。
敵は。
兄を追う者が、何を見るのかまで考えている。
深く沈んだ車輪。
血。
人気のない荷馬車。
焦る者が見れば、そのまま兄がここへ運ばれたと考える。
「中へ何かある」
セドが言った。
荷台の奥。
石と石の隙間へ、小さな布袋が挟まっている。
リューリックが取り出す。
中には。
欠けた王冠と、その下へ小さな獅子を描いた木札が入っていた。
レイラの呼吸が止まる。
「兄様の印?」
「形は似ております」
リューリックは木札を裏返した。
視線が鋭くなる。
「ですが、殿下が刻んだものではございません」
「なぜ分かるの?」
「獅子の尾です」
木札へ描かれた獅子の尾は、背中の上へ大きく曲げられている。
「殿下が緊急時に用いる簡略印では、尾を下げます。自らを王としてではなく、逃亡中の一族として示すためです」
「敵は形だけ知っている」
テオが言った。
「意味までは知らない」
「では、これは」
「完全な餌でございます」
リューリックは、木札を握った。
怒りは。
声ではなく、指先へ出ていた。
セドが料金所の壁へ近づく。
焦げた木片で数えた三つ目。
ここで道を戻す。
戻す対象は、荷馬車そのものではない。
それを見る人間。
「見せ道」
セドが呟いた。
「この馬車が、見せ道」
「では、荷道は?」
レイラが尋ねる。
セドは荷車の周囲を歩いた。
泥。
石。
草。
料金所の裏。
やがて、崩れた壁の下へ手を入れる。
引き出したのは、一本の細い枝だった。
先端に青い糸。
根元には、白い粉が塗られている。
「南」
「どうして分かるの?」
「青い糸は、水へ近い道。白い粉は、塩の道」
セドは、料金所の南側へ顔を向ける。
「南東。古い塩道」
「私たちが選んだ道と同じね」
「途中までは」
テオが地図を開いた。
「この先で、リヴェン方面とヴェルシャイン方面へ分かれる。どこで東へ曲がったかが問題だ」
レイラは、石を積んだ偽の荷馬車を見た。
兄はいない。
安堵すべきなのか。
落胆すべきなのか。
分からない。
「これを残した者は、まだ近くにいる?」
「可能性はございます」
リューリックが答える。
「我々が餌へ掛かったか、確認する者がいても不思議ではございません」
「なら、掛かった振りをする?」
レイラの言葉に、テオが顔を上げた。
「いいね」
「何をするの」
「この荷車を灰橋方面へ動かす」
テオは、石の量を見積もる。
「馬を一頭だけ貸す。荷車が再び動けば、見張っている者は、僕たちが偽の王印を追って北へ向かったと思う」
「誰が動かす」
エルナが訊く。
「僕の商会の者を一人、呼び戻す」
「一人で危険では」
「王印を追うふりをするだけだよ。途中で荷車を捨て、別の道から合流させる」
「敵と同じことをするのね」
レイラが言った。
「道は、使った者の善悪を選ばない」
テオは、木札を手に取る。
「嘘を置かれたなら、少しだけ借りて返す」
「商人らしい」
「利息は取るよ」
レイラは。
もう一度、南東へ続く古い塩道を見た。
敵は、追う者の心を使う。
兄を助けたいという焦り。
王印を見つけた時の安堵。
血を見た時の恐怖。
ならば。
こちらも、敵の安心を使う。
「やりましょう」
レイラが言った。
「偽の荷車は、灰橋へ。私たちは荷道を進む」
「承知いたしました」
リューリックが答える。
「兄様を騙した人たちを、今度はこちらが迷わせる」
レイラの目は。
もう偽の血を見ていなかった。
地図へ書かれない道。
村と村の間。
医療者がいる場所。
兄なら。
傷を隠しながらも、生きるための隙を探している。
そう信じる。
一行は、料金所を離れた。
南東へ。
見せ道ではなく。
荷を隠すために使われた道へ。




