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第八十一部 王印は、道ではなく人を迷わせる話 Another Side:レオン/ニーナ ① 名前を知っても、まだ味方ではない話

 リンデン村を出てから、馬車は一度も止まらなかった。


 古い街道は、正式な国境路よりも細い。


 左右から林が迫り、車輪の幅に合わせて二本の轍だけが続いている。ところどころ土が崩れ、馬車が傾くたび、荷台の板が嫌な音を立てた。


 御者台では、頬に古傷のある男が手綱を握っている。


 背中は真っすぐに見える。


 だが、右肩が少しずつ下がっていた。


 脇腹の傷を庇っている。


 荷台の中では、レオンが柱へつながれ、その向かい側へニーナが座っている。


 ニーナの足元には薬箱。


 膝の上には、白髪の老人から渡された大きな革袋。


 そして、手には短い記録板があった。


「止めて」


 ニーナが言った。


 御者台から返事はない。


「聞こえてるでしょう」


「聞こえている」


「じゃあ止めて」


「止めない」


「包帯へ血が出てる」


「見えていないだろう」


「右肩が下がってる」


 男の肩が、ほんの僅かに戻った。


「いま直しても遅いよ」


 ニーナが言う。


「癖で分かるから」


「いつから俺の癖を知った」


「診療所を出てから」


「まだ半刻も経っていない」


「怪我人を見るのに半刻も要らない」


 レオンが、小さく笑った。


「優秀だろう」


「お前は黙れ」


 男が言う。


「患者に味方をするな」


「俺も患者らしい」


「商品だ」


「その言い方、ニーナが怒るぞ」


「もう怒ってる」


 ニーナの声が低くなる。


「止めて」


 男は前を向いたまま答えた。


「次の分岐までは止まれない」


「何で」


「追手が来る」


「誰の追手?」


「俺の仲間を殺した者」


「仲間同士で殺し合ったんでしょう」


「最後まで見ていた者が、いないとは限らない」


「依頼主も?」


「可能性はある」


 ニーナは、少しだけ黙った。


 レオンが男の背中を見る。


「それだけか」


「何が」


「止まらない理由だ」


 男は答えなかった。


「傷が開いたことを認めたくない?」


「違う」


「ニーナに止められるのが嫌?」


「違う」


「俺と同じだな」


「一緒にするな」


「大丈夫と言ったあと、必ず怒られる」


「お前は、怒られる理由が多いだけだ」


「否定できない」


 ニーナが記録板へ何か書いた。


「何を書いた」


 男が尋ねる。


「返事が多い。意識は清明」


「俺の記録か」


「そう」


「名前も知らないのに?」


「だから聞いてる」


「必要ない」


「死んだ時、何て書くの」


 男の肩が止まった。


「頬に傷のある男?」


「縁起でもないことを言うな」


「死ぬか金を取るかって言ったのは、あんたでしょう」


「そうだが」


「だったら記録に名前が要る」


「記録へ残すな」


「何で」


「仕事の邪魔になる」


「死んでも?」


「……死んでもだ」


 ニーナは男の背中を見た。


「じゃあ、仮の名前を書く」


「勝手にしろ」


「患者一号」


「やめろ」


「二号はレオン」


「俺が一号では?」


 レオンが尋ねる。


「診た順番」


「俺が負けた」


「何を競ってるの」


「患者としての優先順位」


「嬉しくない順位だろう」


 男の声に、ほんの少しだけ呆れが混じった。


 リンデンを出る時にはなかったものだった。


「では」


 ニーナが記録板を構える。


「患者一号。頬に古い傷。脇腹、太腿、肩に刃傷。性格、頑固。名前は」


「書くな」


「死亡時の呼称、患者一号」


「ガレスだ」


 馬車の音に混じるほど、低い声だった。


「何?」


「ガレス」


 男は、前を向いたまま繰り返した。


「それだけだ」


「ガレス」


 ニーナが板へ書く。


「名字は」


「ない」


「ないの?」


「捨てた」


「どうして」


「治療に必要か」


「熱が上がった時、昔の名前を呼ぶ人もいる」


「呼ばない」


「皆、そう言う」


 ニーナは記録板へ書き終える。


「ガレス。患者一号」


「患者は要らない」


「治ったら消す」


「本当に?」


「治ったらね」


 ガレスは、それ以上答えなかった。


 レオンは、初めて得た男の名前を口の中で一度だけ繰り返した。


「ガレス」


「お前は呼ぶな」


「なぜ」


「賞金首に名前を呼ばれたくない」


「では、頬傷」


「ガレスでいい」


「早いな」


「その呼び方よりはましだ」


 ニーナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 ガレスは見ていない。


 レオンは見た。


 そして、何となく嬉しくなった。


 こんな状況で、何が嬉しいのか。


 自分でも分からなかった。



 ◇


 古い分岐へ差し掛かる直前。


 馬車の左車輪が、大きく跳ねた。


 荷台が傾く。


 ニーナの身体が横へ流れ、薬箱が床を滑った。


「危ない」


 レオンが手を伸ばす。


 両手は前で縛られている。


 柱へつながれた鎖が短く、指先は届かない。


 ニーナは壁へ肩をぶつけ、薬箱の角が床へ当たった。


 硝子瓶の音。


「止めて!」


 今度の声は、治療者ではなく、本気で怒った女の声だった。


 ガレスが手綱を引く。


 馬車が、ようやく止まった。


「薬が割れる!」


「人より薬か」


「人も薬も!」


 ニーナは瓶を一つずつ確認する。


 幸い、割れてはいない。


 だが、馬車の下から低い軋みが続いていた。


 レオンが床へ耳を近づける。


「左の車輪」


「何だ」


 ガレスが答える。


「留め具が緩んでいる」


「見えるのか」


「聞こえる」


「王子は、車輪の音まで分かるのか」


「王子だからではない」


 レオンは身体を少し動かし、もう一度音を聞いた。


「荷車へ乗って逃げる生活が長かった」


 ニーナの手が、僅かに止まる。


 王子。


 その言葉を聞くたび、まだ自分の知っているレオンと、知らないレオンの間へ線が引かれる。


 けれど。


 荷車の軋みを聞き分ける男は、宮殿にいた王子より、いつものレオンに近かった。


「このまま進めば?」


 ニーナが尋ねる。


「車輪が外れる」


「どのくらいで」


「次に大きな石を踏めば」


 ガレスが舌打ちした。


「降りるぞ」


「俺も?」


「お前は残れ」


「直し方は分かる」


「逃げる」


「足と腰はつながれている」


「手は前だ」


「この状態で林へ逃げたら、三歩で転ぶ」


「二歩だと思う」


 ニーナが言う。


「医療者として?」


「日頃の動きを見て」


「評価が低い」


「正確」


 ガレスは少し考え、荷台へ入った。


 レオンの右手だけを柱へつなぐ短い縄へ結び直す。


 左手は自由になった。


「片手だけだ」


「信用された?」


「されていない」


「では」


「逃げたら、娘を置いていく」


 レオンの目から、笑みが消えた。


「それを言うな」


「条件だ」


「ニーナを条件へ使うな」


「なら逃げるな」


 二人の視線がぶつかる。


 ニーナが、その間へ薬箱を置いた。


「二人とも」


「何だ」


 声が重なる。


「車輪を直して。それから喧嘩して」


 ガレスは外へ出る。


 レオンも、足首の縄を短く残されたまま、荷台の縁へ移った。


 降りようとして、身体が傾く。


 ニーナが腕を掴んだ。


「ゆっくり」


「大丈夫だ」


「それ、禁止」


「忘れていた」


「嘘」


「少しだけ」


「それも禁止」


 ニーナは、レオンの腰へ腕を回した。


 体重を支えるため。


 医療的な補助。


 それだけである。


 それだけのはずなのに。


 レオンは、少しだけ呼吸の仕方を忘れた。


 近い。


 薬草と。


 石鹸と。


 診療所の匂い。


 カミラとは違う。


 カミラの近さは、剣の間合いに似ている。


 近づけば、互いの覚悟を問われる。


 ニーナの近さは、傷を見せる距離だった。


 弱いところを隠せない。


 だから安心する。


 そして、安心するほど危ない。


「何」


 ニーナが尋ねる。


「いや」


「変な顔」


「王子でも、支えてもらうことはある」


「王子だから何」


「そこを気にしないのか」


「いまは患者」


「身分が下がった」


「上がったと思ってた?」


「少し」


 ニーナが、支えた腰へ力を入れる。


「痛い」


「歩いて」


「はい」


 地面へ降りる。


 ガレスが車輪を確認していた。


 留め金が半分抜けている。


 車軸の木も、少し削れていた。


「縄が要る」


 レオンが言う。


「ある」


「細い縄と、平たい木片」


「何に使う」


「留め金が戻らないよう噛ませる」


「片手でできるか」


「お前が持てば」


「俺に命令するな」


「では、ニーナに持たせる?」


「俺が持つ」


 ガレスは、すぐに答えた。


「素直だな」


「娘の指を車輪へ入れたくない」


「同感だ」


「お前と同意すると、腹が立つ」


「慣れろ」


 ニーナは、二人を見た。


 敵同士。


 賞金首と、その賞金首を売ろうとしている男。


 それなのに、車輪の前では同じ方向を見ている。


 レオンが木片を削り。


 ガレスが車輪を持ち上げ。


 ニーナが外れた縄を渡す。


 時々、ガレスの顔が歪む。


 ニーナが気付く。


「痛い?」


「平気だ」


「ガレス」


「……痛い」


「どのくらい」


「かなり」


「あとで巻き直す」


「分かった」


 返事が、少しずつ早くなる。


 レオンは、それを横目で見た。


「学習が早い」


「お前が遅すぎる」


「否定できない」


 車輪の応急処置が終わる。


 ガレスが手を離す。


 車輪は、以前より真っすぐ立っていた。


「しばらくは持つ」


 レオンが言う。


「どのくらい」


「次の宿駅まで」


「本当か」


「たぶん」


「たぶん?」


「王子の保証だ」


「価値が分からん」


「金貨千枚」


「お前の値段を保証へ使うな」


 ガレスが吐き捨てる。


 だが、声には先ほどまでの刺が少なかった。


 レオンは、自由になった左手を見た。


 いまなら、ガレスの腰にある短剣を奪える。


 太腿へ傷がある。


 脇腹も開いている。


 正面から動けば、勝てる可能性は高い。


 そのままニーナを連れ、林へ入ることもできる。


 けれど。


 ニーナは荷台から降りている。


 ガレスが抵抗すれば、傷が開く。


 馬車を失えば、食料も、薬も、移動手段もなくなる。


 そして。


 ガレスを置いていけば、この男は確実に死ぬ。


「どうした」


 ガレスが言う。


「逃げるか」


「考えた」


「正直だな」


「逃げない」


「なぜ」


 レオンは、ニーナを見た。


 彼女は、薬箱を抱えている。


 逃げれば、付いてくる。


 付いてくれば、国境沿いの林へ医療者一人を連れ込むことになる。


「ニーナを歩かせたくない」


「私?」


「お前は村へ戻らないだろう」


「戻らない」


「なら、馬車が要る」


「俺は」


 ガレスが尋ねる。


「置いていかない理由に入っているか」


「少し」


「少し?」


「患者一号らしいからな」


 ニーナが頷いた。


「そう」


「勝手に決めるな」


 ガレスは言った。


 けれど、短剣へ手を伸ばさなかった。



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