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第八十一部 王印は、道ではなく人を迷わせる話 ② 集まった地図室と、決まった役割

 地図室と呼ばれ始めた部屋には、すでに多くの者が集まっていた。


 ルーウェン。


 エルナ。


 ドルン。


 セド。


 そして、白石河港に残された古い街道図を広げるテオ。


 卓上には、現在使われている交易路の地図と、九十年以上前に白枝が用いていた古河道の図が重ねられている。


 紙の大きさも。


 縮尺も。


 描かれた国境も違う。


 それでも、川と山は大きく動かない。


 町が消えても。


 橋が架け替えられても。


 人が通りやすい場所は、何世代経っても似ている。


「灰橋は、ここだ」


 テオが指先を置いた。


 オーランド東部。


 ヴェスタリア方面へ向かう道と、リヴェン方面へ向かう交易路が分かれる前後に位置する、古い橋と倉庫街。


 現在は橋そのものより、その周辺に作られた倉庫と仲買所の名として使われることの方が多い。


「昨日の指示書には、こう書かれていた」


 テオは、灰色の筒から出た紙を卓へ置いた。


王印、帝都路へ進入。

灰橋を越えたのち、北東へ返す。

生存を優先。

損傷は許容する。


「文面どおりなら」


 エルナが地図を覗き込む。


「オーランドから灰橋へ進み、そこから北東へ曲がってヴェスタリアへ入る。そのまま帝国へ、ということですね」


「そう見える」


 テオが答えた。


「でも、見えすぎる」


「何がだ」


 ドルンが尋ねる。


「道が」


 テオは紙へ指を置いた。


「帝都路。灰橋。北東。これだけあれば、土地を知る者なら進路を一本へ絞れる。秘密の搬送指示としては、親切すぎるね」


「誰かに読ませるために書いた?」


 レイラが訊いた。


「可能性は高い」


 リューリックが答える。


「運び手だけへ伝えるなら、地名と合図だけで足ります。途中で奪われる可能性のある紙へ、これほど道筋を残す必要はございません」


「では、誰へ読ませる」


 ドルンが問う。


 室内の視線が、自然にレイラへ集まった。


「ロドを探す者」


 テオが言った。


 リューリックの目が、わずかに細くなる。


「レオン殿下を追う者を、灰橋へ向かわせるため」


「つまり」


 レイラは地図へ目を落とした。


「兄様は、そこにいない?」


「いないと断言はできない」


 テオの返答は早かった。


「嘘の中へ、本当を混ぜることもある。灰橋まで同じ道を通し、そこから別の道へ移す可能性もある。あるいは、灰橋へ一度も近づかないかもしれない」


「どちらでも言えるのね」


「だから厄介なんだよ」


 レイラは、地図へ描かれた灰色の橋を見た。


 兄がいるかもしれない。


 いないかもしれない。


 急げば、敵の思う道を走る。


 考えすぎれば、間に合わない。


 その二つを秤へ載せられるほど、人の命は簡単ではない。


「セド」


 レイラが呼んだ。


 壁際へ立っていた少年が、肩を揺らした。


「何か思い出さない?」


「……紙の言葉は、知らない」


「灰橋については?」


「行ったことはない」


 セドは、卓の上の地図を見ない。


 自分が知らないことを言えば、役に立てないと思われる。


 役に立てなければ、名前をもらえない。


 そう教え込まれた者の沈黙だった。


「知らないなら、それでいい」


 レイラが言う。


「でも、似た言葉を聞いたことがあるなら教えて」


 セドは、しばらく黙っていた。


 やがて。


「見せ道」


 小さく言った。


「何?」


「先生のところで、言ってた」


 少年の指が、衣服の裾を掴む。


「荷を動かす時。二つ、道があるって」


「一つが、見せ道?」


 セドが頷く。


「宿の人とか、橋の見張りとか、荷運びの人に見せる道。荷車を通したって、覚えさせる」


「もう一つは」


「荷道」


 室内が静かになった。


「荷道には、誰を通す?」


 テオが尋ねる。


「知らない」


 セドの声が、すぐに硬くなる。


「本当に、知らない」


「疑っていないよ」


 テオは、少年を見たまま言った。


「聞いた言葉だけでいい」


「橋は、人に見せる」


 セドは、途切れ途切れに思い出す。


「荷は、村を抜ける」


「村?」


「先生じゃない。青い線の紙を数えてた男が言ってた。橋は記録へ残す。荷は、小さい村へ入れるって」


「なぜ小さい村へ?」


 エルナが尋ねる。


「馬が疲れるから」


 セドは答えた。


「怪我した人がいたら、薬を買う。大きい町だと、名前を書かれる。小さい村なら、金を払えば、すぐ出られる」


「正式な宿駅を使わない」


 リューリックが呟く。


「人の移動記録を避け、馬と治療だけを得るための村」


「国境沿いには、そういう村が多い」


 ルーウェンが、古い地図へ顔を近づけた。


 白い髪が、卓上へ落ちる。


「国が変わっても、道だけ残る。兵が使わなくなった道を、密輸人と難民が使う。橋へ行かず、村から村へ移れば、関所を避けられる」


「候補は?」


 レイラが尋ねた。


 テオは、現在の交易路図を引き寄せた。


「オーランドから東へ出たあと、南東へ下ればリヴェン。さらに東へ進めば、ヴェルシャイン王国へ入る。帝国との国境に沿って北へ戻る道がいくつかある」


「帝国の中を通らずに、帝国中部へ近づく?」


「そうだね」


 テオは、三つの小さな印を指した。


「大きな町を避けるなら、補給地点は限られる。井戸。厩。鍛冶場。薬を扱える者」


「診療所」


 レイラが言った。


 リューリックが、僅かに目を上げる。


 レオンは、怪我をする。


 正確には。


 怪我をしても、平気な顔で進もうとする。


 そして、限界になれば、なぜか医療者のいる場所へ流れ着く。


「殿下なら」


 リューリックが言った。


「意識があれば、治療できる場所を把握しようとなさるでしょう」


「捕らえられているのに?」


「捕らえられているからこそです」


 レイラは、兄の顔を思い浮かべた。


 縛られ。


 殴られ。


 それでも、馬車の揺れや道の匂いを覚えようとしている。


 そして。


 運ぶ側が怪我をすれば、診療所へ入る可能性がある。


「この三つの村は?」


 レイラが尋ねた。


「フェルゼン」


 テオが一つ目を指す。


「古い石切り場の村。いまは診療所がない。薬草商が月に一度来るだけ」


 二つ目。


「ノルトハイム。国境番所に近すぎる。身分証を確認される」


 三つ目。


 指先が止まった。


「リンデン」


「知っているの?」


「商会の帳面で見たことがある」


 テオは、別の帳面を開いた。


「規模の小さい診療所だけれど、難民や傭兵も追い返さない。正式な医師ではない娘と、戦場を降りた老人が治療をしているらしい。薬の購入量が、村の人口に比べて多い」


「娘」


 リューリックの表情が、ほんのわずかに変わった。


 レイラは、それに気付いた。


「知っているの?」


「以前、殿下が治療を受けた村でございます」


「兄様が?」


「はい」


「何度?」


「……複数回」


 テオが顔を上げる。


「複数?」


「殿下には、同じ医療者へ再び怒られる傾向がございます」


「傾向で済ませないで」


 レイラは呆れたように息を吐いた。


 けれど。


 胸の中へ、小さな希望が生まれる。


 もし兄が、その村へ入っていれば。


 兄を知る者がいる。


 見つけてくれる者がいる。


 すでに通り過ぎていたとしても、何かを残しているかもしれない。


「リンデンへ、使いを」


 レイラが言った。


「すぐに」


「一人では危険だ」


 ドルンが答える。


「敵が道を見張っている可能性がある」


「僕の商会から出す」


 テオが言った。


「この辺りの街道を使う荷商人へ、すでに符丁を持たせてある。王印や賞金首という言葉は使わない。傷のある旅人と、深手を負った運び手を見なかったかだけ訊く」


「間に合う?」


「分からない」


 テオは、正直に答えた。


「でも、何もしないよりは早い」


 レイラは地図を見た。


 灰橋。


 ヴェスタリア。


 リヴェン。


 ヴェルシャイン。


 道は、一本ではない。


 だから、敵も追う側の心を使う。


 兄を助けたい。


 早く進みたい。


 その気持ちが強い者ほど、分かりやすく残された道へ飛びつく。


「灰橋へは行かない」


 レイラが言った。


 リューリックが、彼女を見る。


「少なくとも、全員では」


「殿下」


「敵は、私たちが兄様を助けたいことを知っている」


 レイラは、灰色の筒を指した。


「だから、急がせる紙を置いた。なら、一度だけ、急いだまま考える」


 焦るなとは言わない。


 時間はない。


 兄が危険なのも変わらない。


 それでも、走らされる方向だけは自分で選ぶ。


「灰橋は調べる」


 レイラが続けた。


「でも、私たちは南東へ向かう。村を通る荷道を探す」


「私も参ります」


 リューリックが答える。


「当然よ」


「止められるかと」


「兄様を探すのに、兄様の厄介な癖を一番知っている人を置いていけない」


「厄介な癖」


「怪我を隠す。無茶をする。医療者に怒られる」


「否定できません」


「できないのね」


「残念ながら」


 テオが地図を畳み始める。


「僕も行く」


「商会は?」


「走らせる者はいる。僕が必要なのは、帳簿へ出ない道だ」


「私は?」


 セドが尋ねた。


 全員の視線が集まる。


 少年は、逃げなかった。


「印を知ってる」


 言う。


「先生の使う印。道へ残す傷。橋の下の枝。僕なら、見つけられる」


「危険よ」


 レイラが答える。


「知ってる」


「命を懸けて役に立たなくても、名前はなくならない」


「それも、知ってる」


 セドは、少しだけ言葉を止めた。


「でも、行きたい」


 レイラは少年を見た。


 命令されるからではない。


 名前を褒美にもらうためでもない。


 初めて、自分で行く場所を選ぼうとしている。


「分かった」


 レイラは頷いた。


「ただし、勝手に一人で動かない」


「うん」


「危ないと思ったら戻る」


「うん」


「名前を探す前に、死なない」


 セドは、少しだけ困った顔をした。


「難しい?」


「名前がないと、呼びにくい」


「今はセドでいい」


「それでいいの?」


「いまは」


 少年は答えた。


「僕が選んだ名前じゃないけど、呼んでくれた人がいるから」


 レイラは、ほんの少しだけ笑った。


「では、セド」


「うん」


「道を教えて」


「分かった」



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