第八十一部 王印は、道ではなく人を迷わせる話 ① 咳から始まる朝と、荷役事務所への道
白石河港の朝は、救い出された者たちの咳から始まった。
倉庫の戸を開ければ、冷えた川風が入り込む。夜のうちに焚かれた火は炭へ変わり、鍋では薄い粥が温め直されていた。
五十六人。
名前を覚えている者。
偽名だけを渡されていた者。
自分がどこの生まれだったのか、まだ思い出せない者。
レイラは、前日の聞き取りで埋められなかった記録板を持ち、寝床の間を歩いていた。
無理に名前を求めない。
思い出せないことを、罪のように扱わない。
それでも、誰がここへ運ばれ、どこから連れてこられたのかだけは、できる限り残す。
記録がなければ。
人は、もう一度消される。
倉庫の奥に置かれた机には、昨夜までに集められた帳面が並べられていた。
救出者から聞き取った内容。
薬箱の記録。
白石河港で押収した荷札。
セドが運んでいた紙。
そして、灰色の筒へ入っていた短い指示書。
紙の端には、青い線が二本。
何度見ても、同じ印だった。
「殿下」
背後から呼ばれ、レイラは振り返った。
リューリックが立っている。
昨日受けた浅い傷には包帯が巻かれているが、歩みに支障はない。無理をするなとは言われているはずだが、本人は最初から聞かなかった顔をしていた。
「地図室へ」
「地図室なんてあったの?」
「テオ殿が、空いていた荷役事務所を勝手にそう呼んでおります」
「本人は?」
「すでに、ほかの者へも定着させようとしております」
「商人は、名前を付けるのが早いわね」
「所有権を主張するためかと」
「聞こえているよ」
少し離れた戸口から、テオが顔を出した。
黒い外套。
焦げた帳面。
相変わらず、朝から感情の薄い顔をしている。
「僕は、使いやすい呼び名を付けただけだ」
「元は何の部屋?」
レイラが尋ねる。
「破れた縄と、数年前の税記録を置いていた部屋」
「地図室の方が立派ね」
「価値は、名前を付けた者が決めることもある」
「詐欺師の理屈に聞こえる」
「商人の理屈だよ」
「違いは?」
「契約書があるかどうかかな」
レイラは記録板を脇へ抱え、二人とともに荷役事務所へ向かった。




