第八十部 名を持たない少年は、灰色の橋を知る話 Another Side:レオン/ニーナ ④ 持ち出した止血布と、動き出した馬車
ニーナは、診療所から必要なものを持ち出した。
止血布。
縫合糸。
薬草。
熱冷まし。
水。
二日分の食料。
自分の外套。
白髪の老人へ、次の宿駅から必ず伝言を出すと約束する。
看護助手たちには、急患の搬送へ付き添うとだけ伝えた。
レオンの名も。
金貨千枚も。
王子であることも言わなかった。
噂が一度広がれば、善意だけでは止められない。
頬傷の男は、御者台へ座った。
顔色は悪い。
傷を巻き直しても、馬車を動かせる状態には見えない。
それでも、手綱を握る。
レオンは荷台へ残された。
両手は、ニーナの主張で前へ結び直された。
足首と腰の鎖は、そのまま。
ニーナは、レオンの向かい側へ座る。
薬箱を足元へ置いた。
「顔を見せて」
「もう十分に見ただろう」
「診察」
「久しぶりの再会で、積極的だな」
「傷を見るの」
「分かっている」
ニーナがレオンの顎へ指を添える。
左右へ動かす。
瞳。
額。
後頭部。
首。
肩。
手首へ食い込んだ縄の跡。
ニーナの指は迷わない。
以前に傷を診ている。
どれが古く。
どれが新しいか。
分かる。
「肩」
「少し」
「少しじゃなくて」
「中くらい」
「脇腹」
「かなり」
「最初から言って」
「麻痺薬も、少し残っている」
「どこへ当たった?」
「脚」
「痺れは」
「指先に少し」
「吐き気」
「空腹の方が強い」
「それはいつも」
「よく覚えている」
「忘れる方が難しいよ」
ニーナは、荷台へ置かれたレオンの革袋を見つけた。
賞金首狩りたちは、武器と金だけを抜き、中身には大して興味を持たなかったらしい。
包帯。
薬草袋。
紙。
使い終えた小物。
そして。
革を巻いた空の硝子管。
ニーナの指が止まる。
「……なくしてなかったんだ」
「管理指示だったからな」
「約束じゃない」
「そうだったか?」
「管理指示」
「同じだろう」
「違う」
「では、返す?」
ニーナは、硝子管を自分の胸元へ寄せた。
少しだけ考え。
また革袋へ戻す。
「まだ」
「中身は?」
「入れてない」
「次に会ったのに」
「こんな会い方は数えてない」
「便利な規則だな」
「私が決めるの」
「では、次に会う時?」
「ちゃんと会えた時」
「いまも会っている」
「縛られてない時」
「条件が増えた」
「生きて戻った時」
カミラの言葉と重なった。
生きて戻ってこい。
ニーナは、その手紙を知らない。
だが。
違う場所から。
違う言葉で。
同じところへ、レオンを引き戻そうとしている。
「努力する」
「実行」
「それも覚えている」
「忘れないで」
しばらくして。
ニーナが、レオンの胸元へ入っている紙へ目を向けた。
「大事なもの?」
「ああ」
「その人から?」
レオンは、少しだけ間を置いた。
「ああ」
「名前は」
「カミラ」
「どんな人」
「強い」
「剣が?」
「それも」
「ほかには」
「自分より、周りの人間を先に守る」
ニーナは、僅かに目を伏せた。
「それで追ったんだ」
「ああ」
「助けたい?」
「ああ」
そこだけは、迷わず答えた。
ニーナの胸が少し痛んだ。
だが。
その答えを聞いて、嫌いになることはできなかった。
自分の知るレオンも。
同じように、目の前の誰かを見捨てられない男だったからだ。
「王子だったことも、その人は知ってるの?」
「知っている」
「私は知らなかった」
「悪かった」
「何で言わなかったの」
「言えば、お前を巻き込むと思った」
「黙ってても、いま巻き込まれてる」
「そうだな」
「失敗だね」
「かなり」
「ほかにも隠してる?」
「ある」
「全部言って」
「長くなる」
「馬車は止まらないんでしょう」
ニーナは、御者台の男を見る。
「時間はあるよ」
レオンは、すぐには答えなかった。
自分の過去。
亡国。
妹。
帝国。
死にかける理由。
全部を話すには。
あまりにも長い。
「少しずつでいい」
ニーナが言った。
「でも、もう勝手に、私が知らない方がいいって決めないで」
「善処する」
「実行」
「厳しいな」
「王子様にも?」
「その呼び方はやめてくれ」
「じゃあレオン」
ニーナは、いつもと同じように呼んだ。
王子でも。
賞金首でも。
金貨千枚でもない。
レオン。
それだけで。
胸の奥が少し軽くなる。
「ニーナ」
「何」
「俺は、カミラを追いたい」
「うん」
「お前を危険へ連れていきたくない」
「うん」
「それでも、お前が来てくれて」
言葉が止まる。
「嬉しい」
ニーナは、少しだけ目を見開いた。
「それ、ずるいね」
「ああ」
「カミラって人がいるのに?」
「ああ」
「私のことも、少しは好き?」
レオンは、すぐに答えられなかった。
誤魔化すことはできる。
軽口へ逃げることも。
だが。
命を懸けて馬車へ乗り込んだ女へ。
嘘を渡すことはできなかった。
「安心する」
レオンは言った。
「お前がいると」
「それだけ?」
「信頼している」
「それだけ?」
「近いと、落ち着かない時もある」
「それは」
「たぶん、少しは」
ニーナの耳が赤くなる。
「少し?」
「いまは、それ以上を上手く言えない」
「カミラって人がいるから?」
「それもある」
「正直すぎる」
「嘘の方がよかった?」
ニーナは、少し考えた。
「今は、それでいい」
「よいのか」
「よくはない」
「どちらだ」
「でも、まず生きて」
ニーナは、レオンの手首へ巻かれた縄を見る。
「それから、ちゃんと困って」
レオンは、少しだけ笑った。
「難しい管理指示だな」
「守って」
「努力する」
「実行」
「分かった」
前方から、頬傷の男の声が飛んだ。
「出すぞ」
「待って」
ニーナが答える。
「今度は何だ」
「傷、痛い?」
「平気だ」
「嘘」
「動ける」
「痛いか聞いた」
男は、長く息を吐いた。
「……痛い」
「どのくらい」
「かなり」
「半刻ごとに止める」
「止めない」
「血が出たら、勝手に手綱を取る」
「できるのか」
「馬車くらい動かせる」
「怖いことを言うな」
「患者が言うことを聞かないから」
男が何かを呟く。
おそらく、面倒だと言った。
馬車が動き始める。
不意の揺れに。
ニーナの身体が傾いた。
レオンは手を伸ばす。
両手の縄が柱へ引かれ、届かない。
ニーナは荷台の壁へ肩をぶつけた。
「痛い」
「大丈夫か」
「少し」
「少しじゃなくて」
ニーナが、レオンを見る。
ほんの一瞬。
二人とも笑った。
状況は、何一つ好転していない。
レオンは縛られたまま。
頬傷の男は賞金を諦めていない。
ニーナは、危険な馬車へ自分から乗った。
行き先も。
次の宿駅へ着いたあとも。
何も決まっていない。
それでも。
馬車は止まらない。
リンデン村の家々が、少しずつ遠ざかっていく。
ニーナは、幌の隙間から診療所の青い扉を見た。
やがて見えなくなった。
怖くないはずがない。
膝の上へ置いた手は、僅かに震えている。
レオンは、それを見た。
強いから来たのではない。
怖くないから来たのでもない。
怖いまま。
命を懸けて。
来た。
自分のために。
それを思うと、胸が温かくなり。
同じだけ、苦しくなった。
カミラを追いたい。
助けたい。
会いたい。
ニーナを守りたい。
もう置いていきたくない。
どちらか一つへ整理できれば、楽だった。
けれど、人の心は帳簿ではない。
一つを書けば、一つを消せるわけではない。
レオンは、胸元の手紙へ意識を向けた。
次に。
革袋の中にある、空の硝子管。
二つとも。
手のひらへ収まるほど小さい。
それなのに。
命より重かった。
前では。
頬傷の男が、二人の会話を聞いていた。
半分も理解できない。
偶然立ち寄った村で。
金貨千枚の賞金首を知る女に出会い。
その女へ、賞金首の正体を自分で明かし。
自分の傷を治療させ。
賞金首を助けようとしている女まで、馬車へ乗せた。
予定にないことばかりだった。
「一つ確認する」
男が前を向いたまま言った。
「何だ」
レオンが答える。
「お前は、女が二人いるのか」
「そういう言い方をするな」
「一人は追って、一人は馬車へ乗ってきた」
「お前まで整理するな」
ニーナが、少しだけ目を細くする。
「二人いるんだね」
「お前まで」
「金貨千枚より面倒だな」
男が言う。
「同感だ」
レオンは答えた。
「同感するな」
ニーナの薬箱が、レオンの脛へ軽く当たる。
「痛い」
「生きてる」
「生存確認が雑だ」
「前からでしょう」
そのやり取りだけは。
以前と変わらなかった。
変わらないものを、一つだけ乗せ。
三人の馬車は、ヴェルシャイン王国とグランデル帝国の境に近い古い街道へ入っていった。
妥協と呼ぶには、疑いが多い。
同行と呼ぶには、関係が壊れやすい。
それでも。
行けなかった朝の続きは。
ようやく。
止まらない馬車の上で、動き始めていた。
──Another Side 了




