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第八十部 名を持たない少年は、灰色の橋を知る話 Another Side:レオン/ニーナ ③ 村を出る頬傷の男と、老人と交わした約束

 頬傷の男は、いつまでもここへいられなかった。


 馬車は村人に見られている。


 傷の深い男が、荷台へ鍵を掛けて診療所へ入ったことも。


 厩の少年。


 食堂の女。


 水桶を運んでいた老人。


 何人も見ている。


 長く止まれば、何を運んでいるのか気にする者が出る。


「俺は出る」


 男が言った。


「こいつを連れて」


「その身体では無理」


 ニーナが答える。


「それでも行く」


「途中で倒れる」


「倒れる前に、次の宿駅へ着く」


「着けなかったら」


「そこで死ぬ」


「簡単に言わないで」


「死ぬか、金を取るかだ」


「その賞金、本当に払われるの?」


 男の顔が、僅かに変わった。


 レオンが、その変化を見逃さない。


「依頼主の顔を見ていない」


 レオンが言う。


「黙れ」


「紙だけで依頼を受けた。仲間は全員死んだ。金を受け取る場所と相手を、本当に知っているのか」


「黙れ」


「たぶん、こいつも知らない」


 ニーナが男を見る。


「知らない相手に、レオンを渡すの?」


「契約だ」


「その契約で、仲間が四人死んだんでしょう」


「俺が殺したわけではない」


「でも、あんた一人しか残ってない」


「金貨千枚だ」


「それしか言えないの?」


 男は答えなかった。


 傷。


 賞金。


 死んだ仲間。


 顔を知らない依頼主。


 村で自分を治療した娘。


 その娘と親しい賞金首。


 すべてが、男の考えていた予定から外れている。


「ここへ残れば、俺は捕まる」


 男が言った。


「娘を置いて出れば、村へ話す」


「当たり前」


「殺せば、村中が俺を追う」


 ニーナの顔が強張る。


「連れていけば、お前はこいつを逃がす」


「助ける」


「同じだ」


「でも、あんたの傷は診られる」


「信用できると思うか」


「私も、あんたを信用してない」


 三人とも。


 互いを信用していない。


 だが。


 誰も一人では、この場を抜けられない。


 頬傷の男には治療が必要。


 秘密を知ったニーナを村へ残すことはできない。


 レオンはニーナを危険へ置けない。


 ニーナはレオンを馬車へ残せない。


「妥協しよう」


 レオンが言った。


「賞金首が仕切るな」


「では、誰が仕切る」


「私」


 ニーナが答えた。


 男とレオンが、同時に彼女を見る。


「まず、傷を巻き直す」


「もう巻いた」


「さっき動いたから開いた」


「今夜中に出る」


「出るなら、私も乗る」


「駄目だ」


 男が即答する。


「駄目だ」


 レオンも、ほぼ同時に言った。


 ニーナの眉が上がる。


「何で、そこだけ意見が合うの」


「危険だからだ」


「邪魔だからだ」


「理由は違ったね」


「ニーナ」


 レオンの声から、軽さが消える。


「来るな」


「嫌」


「俺は、ある女を追って町を出た」


 言ってから。


 少しだけ後悔した。


 ニーナは、レオンの素性さえ、いま初めて知った。


 その上。


 自分が別の女を追って捕まったとまで聞かされる。


 残酷な言い方だと思う。


 けれど、隠したまま命を懸けさせる方が、もっと卑怯だった。


「女?」


「一緒に旅をしていた」


「好きなの?」


 直接だった。


 頬傷の男が、なぜこの状況でその話をするのかという顔をしている。


 レオンは軽口を探した。


 見つからなかった。


「……たぶん」


「たぶん?」


「簡単に言葉へできない」


「いつも、女の人に惚れたって言ってるのに」


「今回は、少し違う」


「そう」


 ニーナの声は平らだった。


 だが。


 手の中で握っている布が、僅かに歪んだ。


「だから」


「だから、私には来るなって?」


「そういう意味ではない」


「じゃあ、どういう意味」


「俺は、その女を追って危険へ入った。お前まで巻き込みたくない」


「巻き込まれるかどうかを決めるのは、あんただけ?」


「死ぬかもしれない」


「知ってる」


「俺が、ほかの女を追っている途中でも?」


 言葉へした瞬間。


 自分が、とても残酷なことを言ったと分かった。


 ニーナの目が揺れる。


 それでも。


 彼女は逃げなかった。


「それで」


 静かな声だった。


「あんたが縛られてることが、どうでもよくなると思う?」


 レオンは答えられない。


「私は、その女の人じゃない。王子様のことも知らなかった。あんたが何を背負ってるかも知らなかった」


 ニーナは、レオンの縄へ触れた。


「でも、私が知ってるレオンが、こんなところで縛られてる」


 一度、息を吸う。


「それを助けたいと思うのは、私の勝手でしょう」


 レオンの胸へ、重いものが入った。


 嬉しい。


 それを嬉しいと思う自分がいる。


 同時に、申し訳ない。


 カミラへの想いを捨てられないまま。


 ニーナの言葉にも救われている。


「ずるいな」


 レオンが呟いた。


「誰が」


「俺が」


「知ってる」


「否定してくれない?」


「いまは無理」


 ニーナの目にも、僅かに涙がある。


 それでも、口元はいつものように強かった。


「でも、ずるい人を、そのまま売らせるつもりもない」


「あの朝、私は行けなかった」


 空の硝子管。


 一緒に南へ向かう予定。


 診療所へ運び込まれた患者。


 出発できなかった朝。


「だから、今度も見送るとは限らない」


「同じ話ではない」


「私には、続きだよ」


 ニーナは男へ向き直る。


「次の宿駅まで、私も行く」


「認めない」


「私を残せる?」


 男は答えない。


「殺せば、じいさんも、診療所の人も、村の人も追う。馬車も、馬も、あんたの顔も見られてる」


「脅すのか」


「説明」


「お前を連れていけば、こいつを逃がす」


「勝手に縄を切らない」


 レオンが顔を向ける。


「ニーナ」


「黙ってて」


「俺の自由に関する話だ」


「いま自由だった?」


「違う」


「じゃあ、少し我慢して」


「ずいぶん雑だな」


「あとでちゃんと助ける」


「それを本人の前で言うな」


 男が短剣を上げる。


 ニーナは続けた。


「私は、勝手には縄を切らない。ただし、治療へ必要なら結び直す」


「手は後ろだ」


「肩と脇腹に傷があるなら前」


「逃げる」


「足と腰はそのままでいい」


「よくない」


 レオンが言う。


 二人が同時にレオンを見る。


「黙ってて」


「黙れ」


「扱いが揃ってきたな」


 レオンは、少しだけ口元を緩めた。


 頬傷の男は、深く息を吐いた。


 その呼吸で、脇腹から血が滲む。


 ニーナがすぐに気付く。


「座って」


「まだ話は」


「傷が先」


「勝手に」


「患者は座る」


 男は抵抗しようとしたが、足へ力が入らない。


 馬車の車輪へ背を預ける。


 ニーナが包帯を開いた。


「ひどい」


「お前が騒がせた」


「人のせいにしない」


「お前が馬車を開けなければ」


「レオンが入っていた」


「それは俺の荷だ」


「人」


「金貨千枚」


「患者」


「話が戻ってるぞ」


 レオンが言う。


「黙ってて!」


 二人の声が重なった。



 ◇


 白髪の居候老人が、診療所の裏口から出てきた。


 手には太い杖。


 ただの杖ではない。


 中へ細い刃を仕込める形をしている。


 老人は。


 開いた荷台。


 縛られたレオン。


 短剣を持つ男。


 男の傷を巻き直すニーナ。


 順番に見た。


「説明しろ」


 短い声だった。


「急患の搬送へ付いていく」


 ニーナが答えた。


「急患は二人か」


「そう」


「片方は縛られているな」


「事情がある」


「見れば分かる」


 老人は、レオンへ目を向ける。


「また来たか、都合のいい傷の男」


「再会の挨拶が、それか」


「今回は、さらに都合が悪そうだ」


「否定できない」


 老人は、ニーナから短く事情を聞いた。


 金貨千枚。


 賞金首。


 王子。


 それを聞いても、老人の顔は大きく変わらなかった。


「本当か」


 レオンへ尋ねる。


「おそらく」


「自分の身分へ、おそらくを使うな」


「本当だ」


 ニーナが、横からレオンを見る。


 怒りが一つ増えた。


 老人は男へ杖先を向ける。


「娘をここへ残せないと言ったな」


「知りすぎた」


「連れていけば、お前の治療ができる」


「逃亡の手助けもする」


「当然だろう」


 男の目が細くなる。


「爺」


「わしなら、もっと早く縄を切る」


「じいさん」


 ニーナが止める。


「妥協するんでしょう」


「お前がそう決めたのならな」


 老人は男を見る。


「次の宿駅へ着いたら、伝言を寄越せ」


「なぜ俺が」


「娘から伝言がなければ、馬車の特徴、馬の毛色、お前の顔、進んだ方角を、国境の両側へ流す」


「脅しか」


「説明だ」


 ニーナと同じ言葉だった。


「この村は小さいが、戦場から逃げた者と、戦場を降りた者が多い。娘一人が消えて、誰も動かない村ではない」


 男には。


 ニーナを殺せない理由が増えた。


 村へ残せない理由も。


 連れていきたくない理由も。


 すべて同時に増えていく。


「次の宿駅までだ」


 男が、ようやく言った。


「そこへ着いたら、娘は降ろす」


「傷を見て決める」


 ニーナが答える。


「俺が決める」


「患者の移動は、治療する側が決める」


「正式な医者でもない」


「それでも、あんたよりは分かる」


「面倒な女だ」


「知ってる」


 男はレオンを見る。


「お前は逃げない」


「ニーナの安全が確認できるまでは」


「条件を付けるな」


「俺が一人で逃げれば、こいつを人質にするだろう」


「しないとは言わない」


「正直で助かる」


 レオンは、ニーナへ顔を向けた。


「まだ戻れる」


「戻らない」


「怖くないのか」


「怖い」


 即答だった。


 ニーナの手は。


 まだ少し震えている。


「剣を持ってる人も怖い。人が四人死んだって聞いたのも怖い。あんたが知らない人だったのも、少し怖い」


 レオンの胸が痛む。


「でも、一番怖かったのは」


 ニーナは一度だけ言葉を止めた。


「板戸を開けた時、あんたが死んでるかもしれないと思ったこと」


 カミラの手紙がある場所。


 空の硝子管を入れていた革袋。


 二つの記憶が、同時に重なる。


 カミラへ向かう想い。


 ニーナへ戻ってしまう心。


 どちらも捨てられない。


 それでも。


 いま、目の前のニーナが生きている。


 自分も生きている。


 それだけは、誤魔化したくなかった。


「会えてよかった」


 レオンが言った。


 ニーナは、少しだけ顔を歪めた。


「私は、もう少し普通に会いたかった」


「俺もだ」


「次は、縛られてない時にして」


「努力する」


「約束」


「約束する」



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