第八十部 名を持たない少年は、灰色の橋を知る話 Another Side:レオン/ニーナ ② 診療所の声と、惹かれた理由
診療所の中から、声が聞こえた。
ニーナだけではない。
白髪の居候老人の声もする。
「上衣を脱げ」
「女に診せる」
「縫うのはあいつでも、傷を見るのはわしだ」
「必要ない」
「必要かどうかは、傷を見て決める」
ニーナの父ではない。
父親は十年前、流行病で亡くなった。
ニーナは父の隣で覚えた医療を使い、白髪の元軍医や看護助手たちと、いまも診療所を回している。
「脇腹、開いてる」
ニーナの声。
「布が傷へ入ってる。これ、自分で縫った?」
「そうだ」
「最悪」
「縫えている」
「糸を通せば縫ったことになると思ってる?」
「急いでいた」
「死ぬのを?」
水の音。
布を絞る音。
男が小さく息を詰める。
「痛い?」
「平気だ」
「じいさん」
「押さえろ」
「待て」
「平気なんでしょう」
「……痛い」
「最初から言って」
懐かしい。
何度、自分も同じことを言われただろう。
平気。
大丈夫。
少しだけ。
そのたび、ニーナは信じなかった。
信じないくせに。
最後には、必ず包帯を巻いた。
「最低でも、二日は動かないで」
「今夜出る」
「聞いてた?」
「追われている」
「誰に」
「関係ない」
「馬車の荷物と関係ある?」
沈黙。
ニーナは、何かがおかしいと気付いている。
男が馬車へ近づけさせないこと。
荷車にしては厳重な鍵。
荷台から落ちた新しい血。
馬が、普通の荷物以上の重さを引いてきた呼吸。
昔から、よく周囲を見ている女だった。
「薬を持っていく」
「置いていけ」
「使い方を説明する」
「紙へ書け」
「薬の名前、読める?」
「読める」
「全部?」
男は答えなかった。
「じゃあ、馬車のところで説明する」
「必要ない」
「必要。あんた、たぶん夜には熱が上がる」
「近づくな」
男の声が変わった。
患者の声ではない。
刃物を持つ者の声。
レオンは、荷台の中で身体を起こした。
ニーナ。
戻れ。
そう言いたい。
だが、猿轡がある。
声を出せば、男は何をするか分からない。
黙っていれば。
ニーナは馬車へ近づく。
どちらが安全なのか。
もう分からなかった。
診療所の裏口が開く。
足音。
ニーナ。
その後ろから、頬傷の男。
男の歩調は遅い。
ニーナは薬箱を持っている。
「渡したら戻るから」
「俺が受け取る」
「立ってるだけで傷が開きそうな人に?」
「渡せ」
「瓶を落としたら困る」
「近づくな」
男がニーナを止めようとしたらしい。
衣擦れ。
次に、痛みを堪える息。
「ほら、傷が開いた!」
「黙れ」
「黙ったら血が止まるの?」
ニーナの足が、馬車の後ろへ近づく。
レオンは、踵を柱へ打ち付けた。
ごん。
鈍い音。
足音が止まる。
「いまの何?」
「荷が崩れた」
「馬車、止まってるけど」
「積み方が悪い」
レオンは、もう一度柱を蹴ろうとして。
止めた。
気付かせて、どうする。
ニーナが見つければ、絶対に戻らない。
この女は。
そういう女だ。
父が残した診療所を背負い。
難民の子どもを診て。
金のない患者を追い返さず。
自分の命より、目の前で倒れた者を優先する。
自分を見つければ。
賞金首狩りを恐れても。
刃を向けられても。
逃げない。
だから。
見つかってはいけない。
「鼠かな」
ニーナが言った。
「大きい鼠だ」
「鎖の音もした」
「荷を固定している」
「開けて」
「戻れ」
「何が入ってるの」
「お前には関係ない」
ニーナが、荷台側面の細い板戸へ手を掛ける。
「触るな」
男が低く言う。
レオンは、猿轡の奥で目を閉じた。
黙れ。
何もするな。
ニーナを戻せ。
そう思っているのに。
口から、小さな音が漏れた。
「……に、な」
自分でも、なぜ呼んだのか分からなかった。
助けてほしかったのか。
会いたかったのか。
男が彼女へ手を出す前に、自分の存在を知らせたかったのか。
猿轡に塞がれ、名前の形にはならない。
それでも。
ニーナには届いた。
「いま」
声が震えた。
「誰か、私の名前を呼んだ」
「聞き間違いだ」
「鼠は、ニーナって言わない」
「戻れ」
「開けて」
「駄目だ」
「誰がいるの」
「誰もいない」
身体を動かした拍子に、鎖が鳴る。
ニーナが板戸を開いた。
夕方の光が、細く荷台へ入る。
暗がり。
木箱。
布袋。
荷台の柱。
そこへつながれた鎖。
縛られた両手。
縄の食い込んだ足首。
血の付いた上衣。
腫れた頬。
そして。
レオンの顔。
ニーナの手が、板戸へ掛かったまま止まった。
レオンも動かなかった。
長い時間ではない。
だが、レオンには。
一緒に行けなかった朝から、いままでの時間が、すべてそこへ入ったように感じられた。
「……レオン?」
ニーナが呼んだ。
目の前にいる男が、本当に生きているのか確かめるような声だった。
レオンは、猿轡の奥で少しだけ笑った。
笑うところではない。
それでも。
大丈夫だと伝える癖が出た。
ニーナの目が揺れる。
安堵。
信じられないという驚き。
怒り。
恐怖。
すべてが一度に浮かんだ。
次の瞬間。
ニーナは馬車の後ろへ回った。
「鍵を開けて」
「戻れ」
頬傷の男が短剣へ手を掛ける。
「開けて。中にいるの、私の知ってる人だから」
「知っている?」
「レオンでしょう」
男の動きが、わずかに止まった。
「なぜ、名前を知っている」
「前に、この村へ来た。診療所で治療した。何日もいた」
ニーナは、板戸の向こうにいるレオンを見た。
「傭兵だった。怪我を隠して、平気な顔して、頼んでもいないのに診療所を手伝ってた」
男の目が鋭くなる。
「傭兵?」
「そうだけど」
「こいつが、自分を傭兵だと言ったのか」
「何が言いたいの」
男は、乾いた笑いを漏らした。
「何も知らないのか」
「何を」
「こいつは、ただの傭兵じゃない」
ニーナの目が細くなる。
「じゃあ何」
「金貨千枚の賞金首だ」
意味が分からなかった。
金貨千枚。
賞金首。
その言葉と、荷台へ縛られているレオンの顔が結び付かない。
「何を言ってるの」
「帝国が、生きたまま欲しがっている」
「何で」
「亡国リュカリオンの王子だからだ」
今度こそ。
ニーナは動かなかった。
「王子?」
聞き間違いだと思った。
男が出血と熱でおかしくなっているのかもしれない。
自分を馬車から遠ざけるための嘘かもしれない。
だが。
レオンが、否定しなかった。
猿轡の奥で、ほんの少しだけ目を伏せた。
ニーナは、その顔を知っている。
痛みを隠す時。
何かを誤魔化す時。
本当のことを言えず、軽口へ逃げようとする時。
いつも、少しだけ同じ顔をする。
「本当なの」
レオンは答えられない。
けれど。
目を見れば分かった。
「……本当なんだ」
安堵していた。
生きていた。
会えた。
それだけでよいと思った。
なのに。
自分の知らないレオンが、急に目の前へ現れた。
王子。
賞金首。
金貨千枚。
帝国に追われる男。
「何で言わなかったの」
レオンの目が、わずかに揺れる。
「私には、ずっと傭兵だって」
怒るべきなのか。
裏切られたと思うべきなのか。
ニーナにも、まだ分からない。
ただ。
縄が食い込んだ手首。
腫れた頬。
乾いた血。
それらは、王子であろうと傭兵であろうと変わらなかった。
ニーナは男へ向き直る。
「鍵を開けて」
「話を聞いていなかったのか。こいつは賞金首だ」
「聞いた」
「王子だぞ」
「それも聞いた」
「なら」
「私が知ってるのは、王子じゃない」
傷を隠す。
痛いと言わない。
包帯を巻けば、余計なことを言う。
患者を運ぶのを手伝い。
子どもを助け。
診療所で働き。
空の硝子管を持っていった男。
「私が知ってるのは、レオン」
ニーナは、もう一度言った。
「だから、開けて」
「開けると思うか」
「じゃあ猿轡だけ外す」
「触るな」
「呼吸が浅い」
「死なない」
「それを決めるのは、あんたじゃない」
「商品だ」
言った瞬間。
ニーナの顔から、恐怖が一つ消えた。
代わりに、怒りが入った。
「人でしょう」
低い声だった。
「金貨千枚だ」
「だから何」
「一生働いても手に入らない額だ」
「金貨の数で、人じゃなくなるの?」
「綺麗事で生きられる場所ばかりじゃない」
「綺麗事じゃない」
ニーナは、板戸から腕を入れた。
「怪我して、縛られて、息が苦しそうな人がいる。私は診る」
男が止めようと、一歩動く。
縫い直したばかりの脇腹が開き、顔が歪んだ。
その隙に、ニーナはレオンの猿轡を外した。
レオンは咳き込んだ。
乾いた喉へ、ようやく空気が入る。
「大丈夫?」
「……水」
最初に出たのは、それだった。
ニーナの目へ涙が浮かびかけ。
すぐに怒りへ変わる。
「最初にそれ?」
「本当に乾いている」
「何で捕まってるの」
「見れば分かると思うが、誘拐された」
「何したの」
「今回は何も」
「今回は?」
「久しぶり」
ニーナの手が、レオンの頬へ触れた。
叩くのかと思った。
だが。
指先で腫れている場所を避ける。
額。
目元。
顎。
生きているか確かめるように触れた。
「本当に」
ニーナの声が掠れる。
「何してるの」
「俺も、いま考えている」
「また傷だらけ」
「半分は前からだ」
「増やしたでしょう」
「少し」
「少しじゃなくて」
いつもの言葉だった。
それだけで。
レオンの胸の奥が、ひどく緩んだ。
安心してしまった。
カミラを追わなければならない。
捕まっている。
帝国へ売られる。
目の前には、短剣を持つ男もいる。
何も終わっていない。
それなのに。
ニーナが「少しじゃなくて」と言っただけで。
自分は、少しだけ帰ってきた気がした。
嬉しい。
同時に、後ろめたい。
胸元には、カミラの手紙がある。
カミラへ会うため町を出て。
その途中で捕まり。
いま、ニーナの指へ安心している。
どちらも嘘ではない。
だから。
余計に、どうすればよいか分からない。
「ニーナ」
「何」
「村へ戻れ」
ニーナの指が止まる。
「俺は大丈夫だ」
「嘘」
「こいつは、俺を殺さない。生きている方が高いからな」
「それで安心しろって?」
「村へ戻れば安全だ」
「私、もう全部見たよ」
「それでも」
「この人が、私をそのまま帰すと思う?」
頬傷の男は答えなかった。
沈黙が、答えだった。
「それに」
ニーナの声が、少し震える。
「あの朝も、あんたは先へ行った」
「患者が来た。お前は残るべきだった」
「分かってる」
「なら」
「分かってるから、何も思わないわけじゃない」
ニーナは、板戸へ掛けた手へ力を入れた。
「一緒に行くって決めた。薬も用意した。注意書きも書いた。硝子管も持たせた。それなのに私は行けなかった」
「お前のせいではない」
「知ってる」
「なら」
「今度も、何もできないまま、馬車が行くのを見てろって言うの?」
レオンは答えられなかった。
ニーナは、置いていかれたと思っていたのかもしれない。
レオンに、そのつもりはなかった。
だが、結果として。
一緒に行くはずだった朝に、彼女だけが残った。
「今回は違う」
「何が」
「危険すぎる」
「縛られてる人が言わないで」
「俺は、こういう道を選んだ」
「選んで誘拐されたの?」
「そこは事故だ」
「毎回、事故って言うね」
「今回は、かなり罠だった」
「じゃあ余計に、一人で何とかできる顔しないで」
ニーナの目には。
怒りと。
安堵と。
正体を隠されていた混乱と。
まだ消えない恐怖があった。
それでも、レオンから目を逸らさない。
命を懸けている。
剣も持たず。
正式な医者でもなく。
ただ、自分が知っているレオンを助けるために。
短剣を持つ男の前へ立っている。
その事実が。
レオンの胸へ重く入った。
カミラを助けたい。
それは変わらない。
だが、いま自分を助けようとしているニーナも、絶対に失いたくない。
どちらかを選べと言われても、選べない。
選べない自分が卑怯なのかもしれない。
それでも。
ニーナが傷付く未来だけは、拒絶したかった。
「ニーナへ手を出すな」
レオンは、頬傷の男へ言った。
「賞金首が条件を出すな」
「手を出したら、お前を殺す」
「縛られているのに?」
「試すか」
男が短剣を握り直す。
レオンも鎖を引いた。
金属音。
空気が張る。
「やめて!」
ニーナが二人の間へ立った。
「どっちも」
「退け」
「退かない」
「そいつは金貨千枚だ」
「患者」
「俺は賞金首狩りだ」
「そっちも患者」
「一緒にするな」
「傷がある人は、私の前では同じ」
男は、理解できないものを見るようにニーナを見た。
レオンには。
理解できた。
だから惹かれた。




