第八十部 名を持たない少年は、灰色の橋を知る話 Another Side:レオン/ニーナ ① 行けなかった朝の続きは、止まらない馬車で始まる話
少しだけ、アルムロイトを出た朝へ話を戻す。
カミラを追い、辺境伯領を一人で出たレオンは、町から四半刻ほど進んだ林道で罠に掛かった。
道端へ傾いた荷車。
血の付いた腕を押さえ、助けを求める男。
馬を近づけた瞬間、石壁の陰から引き上げられた縄。
前脚を取られた馬が嘶き、レオンの身体は湿った斜面へ投げ出された。
そこへ、五人の賞金首狩りが現れた。
レオンの剣は、アルムロイト辺境伯府へ置いたままだった。
前夜に水と間違えて飲んだ強い酒も、完全には抜けていない。長く療養していた身体は、ようやく日常生活へ戻れると診断されたばかりで、複数の武装した男を相手にできる状態ではなかった。
それでも、抵抗はした。
振り下ろされた棍棒をかわし、男の手首を取って引き倒す。背後から掛けられた縄を振り払い、二人目の顎へ肘を入れた。
三人までは近づかせなかった。
だが、頬へ古い傷のある男が放った短い矢が、レオンの脚を掠めた。
矢へ塗られていたのは、麻痺薬だった。
膝が重くなり、指へ力が入らなくなる。
身体が地面へ落ちていく中でも、レオンは外套の内側へ手を入れた。
そこには、一通の手紙がある。
生きて戻ってこい。
私も、戻る。
カミラ・パヴェルの文字だった。
戻ると書いた女は、何も告げずにイタリカへ向かった。
だから追った。
追い付いて、顔を見て、何かを言いたかった。
危険だから行くな、と止めるのか。
一人で行くな、と怒るのか。
戻ると書いたのだから、本当に戻ってこいと伝えるのか。
あるいは。
もっと別の言葉を、口にしてしまうのか。
分からないまま町を出て。
分からないまま捕まった。
手首へ縄を掛けられ、荷馬車へ積み込まれたあとも、カミラの手紙だけは胸元に残った。
賞金首狩りは五人いた。
少なくとも、初めは。
生きたまま帝国へ引き渡せば、金貨千枚。
五人で分けても、人生を一度は買い直せる額だった。
だからこそ、誰もほかの四人を信じなかった。
誰が罠を用意したのか。
誰が馬を倒したのか。
誰が麻痺矢を当てたのか。
馬車と食料を用意した者へ、どの程度の取り分を与えるのか。
依頼主から金貨千枚を受け取る役を、誰へ任せるのか。
最初は、笑いながら交わされる言葉だった。
けれど、誰の目も笑っていなかった。
賞金首狩りたちは、レオンをカミラが進んだイタリカ方面へ運んだように見せるため、街道へ蹄と車輪の跡を残し、宿駅では偽の目撃情報まで流した。
昼前には、古い分岐から進路を変えた。
帝国内部の主要街道を避け、ヴェルシャイン王国との国境沿いを進み、関所の少ない道から帝国中部へ回り込む。
帝国内には、レオンの顔を記した賞金首の紙が大量に出回っている。
顔を知られれば、帝国兵だけではなく、ほかの賞金首狩りや傭兵まで集まる。金貨千枚を五人だけで得たいなら、人目の少ない国境沿いを使う方がよい。
その説明には、筋が通っていた。
だが、人目が少ないということは。
仲間を一人減らしても、誰にも気付かれないということだった。
「金貨千枚を、本当に払ってもらえるといいな」
荷台の柱へ鎖でつながれたレオンが、何気なく言った。
「黙れ」
「依頼主の顔は見たのか」
「黙っていろ」
「誰も見ていない?」
返事はなかった。
だからレオンは、その後も時々、同じ場所へ小さな針を刺した。
依頼書を受け取ったのは誰か。
賞金は、その者へまとめて渡されるのか。
本当に五人へ平等に分けられるのか。
引き渡しを終えた賞金首狩りを、依頼主が生かして帰す理由はあるのか。
誰も、賞金首の言葉など信じなかった。
しかし。
ほかの四人も同じことを考えているのではないか。
その疑いだけは、消せなかった。
三日目の夜。
銀貨袋が一つ消えた。
食料を隠したと言われた男が短剣を抜き、その腕を別の男が斬った。弩を持った男が剣士の背中を撃ち、隊長格の男が弩使いへ飛び掛かった。
倒れた鍋。
火の粉。
馬の嘶き。
怒鳴り声。
血。
誰が最初に裏切ったのか。
誰が自分を守ろうとしただけなのか。
最後には、誰にも分からなくなった。
夜が明けた時。
立っていたのは、一人だけだった。
レオンへ麻痺矢を放った、頬に古傷のある男。
男も、無傷ではなかった。
左の脇腹には深い剣傷。
右の太腿には短剣が入り、肩には弩矢が掠めた跡がある。
革鎧は、自分と仲間の血で濡れていた。
それでも男は、死んだ四人から食料、銀貨、武器、依頼書を集めた。
次に、レオンの縄を確認する。
「まだ、俺を運ぶのか」
レオンが尋ねた。
「金貨千枚だ」
「分ける必要はなくなったな」
「黙れ」
「全部、一人で使える」
男の拳が、レオンの腹へ入った。
治りかけている脇腹の近く。
レオンは息を詰まらせた。
「お前が余計なことを言わなければ」
「俺が何も言わなくても、いずれ殺し合った」
「黙れ」
「金貨千枚だからな」
もう一度殴られると思ったが、男は拳を上げなかった。
上げるだけの力が、残っていなかった。
死体を街道から外し。
馬をつなぎ直し。
傷へ布を巻き。
一人で御者台へ座る。
血は、少しずつ流れ続けていた。
それでも。
馬車は止まらなかった。
◇
翌日の夕方。
馬車はリンデン村へ入った。
ヴェルシャイン王国領。
グランデル帝国との国境に近い、小さな村である。
二百戸あるかないか。
村の中央には古い井戸。
街道沿いには宿屋、鍛冶場、厩、食堂。
そして。
白い壁と青い扉。
子どもの字のような太い文字で、
金、なくても診ます。
と書かれた看板。
リンデン診療所。
荷台の暗がりにいたレオンは、馬車が村へ入った時点で気付いていた。
井戸の滑車。
鍛冶場の槌。
宿屋の前で荷車が石を踏む時の揺れ方。
薬草と、煮沸した布の匂い。
忘れるはずがない。
リンデン。
ニーナのいる村だった。
レオンは、荷台の柱へ背を預けた。
よりにもよって。
なぜ、ここなのか。
会いたいと思わなかったわけではない。
むしろ、リンデンを離れてからも何度も思い出した。
走り回る足音。
遠慮のない怒鳴り声。
痛い場所を迷わず押す指。
包帯を巻く時だけ、少し近くなる顔。
肩車。
床へ一緒に転がった時の体温。
空の硝子管。
次に会う時、中身を入れる。
約束ではない。
管理指示。
そう言って、耳を赤くしたニーナ。
一緒に南へ向かうはずだった朝もある。
ニーナは薬を準備し。
レオンの傷を確かめ。
走るな。
剣を抜くな。
痛いと言え。
女へいいところを見せようとするな。
そんな注意書きまで作った。
だが、出発の直前に多くの患者が運び込まれ、ニーナは診療所を離れられなくなった。
レオンは、一人で先へ進んだ。
あの朝の続きは、どこにもなかった。
いつか普通に戻れたらよいと思っていた。
診療所の青い扉を開け。
また傷を増やしたと怒られ。
空の硝子管を見せ、中身はまだかと軽口を言う。
その程度の再会でよかった。
縛られ。
殴られ。
帝国へ売られる途中で。
馬車の荷物として戻りたかったわけではない。
胸元には、カミラの手紙がある。
自分はカミラを追って町を出た。
危険へ向かうと分かっている女を、一人で行かせたくなかった。
綺麗だと言った。
戻ると言った。
その言葉の先を、確かめたかった。
カミラへの想いは、もう軽口だけで誤魔化せるほど小さくない。
では、ニーナは何なのか。
安心。
信頼。
痛いと言えば、必ず返事がある場所。
生きていることを前提に叱られる時間。
その中へ、少しの恋慕も確かに混じっている。
ニーナの顔が近づけば、落ち着かない。
ほかの男と親しく話していれば、面白くない。
彼女が笑えば、もう少し見ていたいと思う。
カミラへの気持ちと、同じ秤へ載せることはできなかった。
性質が違いすぎる。
カミラは、自分が追ってしまった女だった。
ニーナは、自分が戻ってしまいたくなる女だった。
どちらも手放したくない。
そう考える自分は。
ひどく都合のよい男なのかもしれなかった。
そんな自分を。
いま、ニーナへ見つけられてよいはずがない。
「医者へ傷を縫わせたら、すぐ出る」
頬傷の男が、荷台を閉じる前に言った。
男の顔色は、血を失いすぎた者の色だった。
唇は乾き、額には汗が浮かんでいる。左手で押さえた脇腹から、汚れた布を通して血が滲んでいた。
「暴れるな」
男は、レオンの猿轡を締め直した。
「声を出せば、この村の誰かを殺す」
脅しだけではなかった。
追い詰められれば、本当にやる目をしている。
レオンは頷いた。
ニーナへ気付かれてはならない。
男は荷台を閉め、外から鍵を掛けた。
診療所の裏手へ馬車が止まる。
足音。
二歩。
三歩。
そこで、何かが壁へぶつかる音がした。
「その傷で、よくここまで来たね」
女の声だった。
レオンの胸が、一度だけ大きく打った。
似ている声ではない。
本人だった。
ニーナ。
少し低く。
遠慮がなく。
負傷者へ向ける時だけ、怒りと心配が同じ場所へ入る声。
「医者は」
頬傷の男が尋ねる。
「ここに、正式な医者はいない」
「ほかに診られる者は」
「私と、じいさん」
「町医者の娘か」
「リンデン診療所のニーナ」
「資格は」
「傷を縫うのに肩書が必要なら、ほかへ行って」
変わっていない。
レオンは、暗い荷台の中で目を閉じた。
会いたかった。
そう思ってしまった。
次の瞬間には。
会ってはいけない。
とも思った。
二つの気持ちが、同時に胸へあった。
「触るな」
男が言う。
「じゃあ、自分で立って」
短い沈黙。
おそらく、男の膝が折れた。
「診療所へ入るか、ここで倒れるか。好きな方を選んで」
「質問はするな」
「傷へはする。誰と斬り合ったかは、あと」
「金は払う」
「治療が終わってから」
足音が、診療所の中へ入っていった。
レオンは息を吐いた。
ニーナは、男を治療する。
相手が誰であろうと。
賞金首狩りであろうと。
自分を馬車へ縛り付けた男であろうと。
目の前で血を流していれば、まず診る。
そういう女だった。
だから惹かれた。
その言葉が、頭の中へ自然に浮かんだ。
レオンは、胸元にあるカミラの手紙を感じた。
自分は。
本当に。
ひどく面倒な男なのかもしれない。




