第八十部 名を持たない少年は、灰色の橋を知る話 ② 塩倉の隅に座る少年と、灰色の橋倉
セドは、夜の間ずっと塩倉の隅へ座っていた。
十五、六歳ほど。
小柄。
黒い髪。
捕らえた時に着ていた黒い外套は取り上げられ、いまは商会員から借りた上衣を着ている。
手首は前で縛られていた。
逃げようとはしない。
だが、誰かが近づくたび、身体がすぐに動ける形へ変わる。
足へ力を入れ。
肩を少し下げ。
相手の腰と手を見る。
逃げるか。
刺すか。
伏せるか。
生き延びるために身に付けた動きだった。
リューリックは、その前へ椅子を置いた。
「お話を伺います」
「殺さない?」
「武器を持たず、誰かを害そうとしない限りは」
「本当に?」
「同じことを何度も尋ねますね」
「答えが変わる人がいるから」
リューリックは、すぐには返さなかった。
「私は変えません」
「証拠は」
「いま、あなたが生きています」
セドは少しだけ考えた。
「剣士は、何人殺した」
「数えておりません」
「なぜ」
「必要な人数を斬りました」
少年の顔へ恐怖が浮かぶ。
だが、目を逸らさなかった。
「俺も斬る?」
「あなた次第です」
「優しくないね」
「嘘よりはよいでしょう」
セドは、ほんの僅かに笑った。
「先生も、同じことを言った」
リューリックの目が細くなる。
「何をですか」
「優しい嘘より、痛い本当の方がいいって」
ルーウェン。
テオ。
レイラ。
全員が、少し離れた場所から話を聞いていた。
「先生は、どこであなたを拾ったのですか」
「知らない」
「最初の記憶は」
「鐘」
「鐘?」
「朝に三回。夜に二回鳴った」
「ほかには」
「塩の匂い。灰色の橋。水の音」
リューリックの表情が変わった。
「灰色の橋とは」
「知らない。石の橋だった。下に細い川があって、近くに窓の少ない大きな倉庫があった」
「灰橋倉」
リューリックが言った。
テオがこちらを見る。
「知っているのかい」
「以前、調べました」
「何があった」
「青い線の紙。軽い銀貨。死者名義の帳簿。それから、旧リュカリオン北方補給帳の形式を真似た記録です」
レイラが顔を上げる。
「リュカリオンの?」
「はい。帳簿には、王家筋未確定という記述もありました」
欠けた王冠。
王印。
帝都路。
別々に見えた言葉が、灰色の橋へ近づいていく。
「その倉庫は、どこに?」
レイラが尋ねる。
「オーランド東部の内陸です」
リューリックは、テオが広げた地図へ目を落とした。
「東へ向かう二つの交易路が分かれる手前にあります」
「二つの道?」
「北東へ進む道は、ヴェスタリア共和国へ入ります」
リューリックの指が、オーランドから北東へ延びる街道を辿る。
「そのままヴェスタリアを横断すれば、さらに東側のグランデル帝国へ続きます。帝都方面へ荷を運ぶ商人は、通常はこちらを使います」
「もう一方は?」
「南東へ進み、リヴェン伯国へ入る道です」
指が南東へ移る。
「リヴェン伯国は、ヴェスタリアの南東、グランデル帝国の南側に位置しています。そこからさらに東へ進めば、ヴェルシャイン王国へ入ります」
レイラは、地図へ並ぶ国境線を見た。
北東にはヴェスタリア。
その先にグランデル帝国。
南東にはリヴェン伯国。
さらに東にヴェルシャイン王国。
灰橋倉は、その二つの流れへ荷を分ける場所にある。
「白石河港からは」
テオが、白石河の流れを指で追った。
「まず河を南東へ下り、オーランド内陸へ入る。途中で東向きの支流へ移るか、河岸の街道へ荷を載せ替えることになるね」
「どのくらい掛かりますか」
「荷車なら数日。河と街道をうまく使えば縮められるけど、人目を避けるなら遠回りになる」
「灰橋倉へ着いたあと、道を選ぶ?」
「ああ」
テオは、灰橋倉の印がある地点を指した。
「北東へ折れればヴェスタリア。その先は帝国だ。南東へ進めばリヴェン伯国。さらに先はヴェルシャイン王国になる」
「帝都路というのは」
レイラが尋ねる。
「灰橋倉から北東へ進み、ヴェスタリアを経由してグランデル帝国へ入る道のことです」
リューリックが答えた。
「帝国とオーランドが直接接しているわけではありません。必ずヴェスタリア領内を通ります」
「では、王国へ向かう道とは別なのですね」
「はい。ヴェルシャイン王国へ向かうなら、灰橋倉から南東へ進み、リヴェン伯国を越える必要があります」
レオンがどちらへ運ばれているのか。
まだ確かなことは分からない。
ただ。
敵が灰橋倉を使っているなら、そこで進路を変えられる。
帝国へも。
王国へも。
「先生は、その倉庫にいたのですか」
レイラがセドへ尋ねた。
「昔は」
「昔?」
「大きくなってからは、別の場所へ移された」
「どこへ」
「名前がないから、地図は教えられなかった」
「名前と地図に、何の関係が?」
「名前がない者は、帰る場所も知らなくていいって」
塩倉の空気が冷えた。
セドは、それを当然のことのように言った。
「仕事を三つ終えたら、先生が本当の名前をくれる」
レイラは、少年の前へ椅子を持ってきた。
「セド」
少年の目が、すぐにこちらへ向く。
「それは、先生から与えられた名前ですか」
「呼び名」
「本当の名前ではない?」
「たぶん」
「では、本当の名前を知りたいですか」
セドは、少しだけ警戒した。
「王女がくれる?」
「いいえ」
即答すると、少年の眉が動いた。
「なぜ」
「私が決めてよいものではないからです」
「先生はくれる」
「先生が持っているとは限りません」
「でも、知ってるって」
「嘘かもしれません」
「優しい嘘より、痛い本当?」
「はい」
セドは唇を噛んだ。
「なら、俺には何もない」
「セドという呼び名があります」
「本当じゃない」
「いま、あなたへ呼び掛けることはできます」
「それだけ?」
「いまは」
レイラは答えた。
「本当の名前を探すこともできます」
「見つからなかったら」
「一緒に考えます」
「新しい名前を?」
「それを、あなたが望むなら」
少年の目が、僅かに揺れる。
「王女が決めない?」
「決めません」
「面倒だね」
「よく言われます」
「先生なら、すぐ決める」
「先生の決めた名前で、あなたは自由になりましたか」
セドは黙った。
答えは出ている。
名を与えると約束され、そのために紙を運び、人を見張り、弓を射った。
「三つの仕事とは何ですか」
テオが尋ねた。
声は軽い。
だが、目は帳簿を見る時と同じだった。
「一つ目は、紙を白石へ運ぶ」
「五つの印の紙?」
「うん」
「二つ目は」
「四つが集まったかを見る」
「白枝、白羽、剣、帳簿」
「そう」
「誰がどの印か、教えられていた?」
「顔の絵があった」
「僕の絵も?」
「似てなかった」
「それは残念だね」
「実物の方が弱そう」
「正確な画家だったかもしれない」
レイラは笑いそうになったが、話の重さを思い出して堪えた。
「三つ目は?」
ルーウェンが尋ねる。
セドは、北側の出入口へ目を向けた。
「夜明けに来る人へ、四つが揃ったと伝える」
「合図は」
「返し枝の札を、橋の下へ吊るす」
「どの橋?」
「河港の下流側。白い石の小橋」
テオが地図へ指を置く。
「古い荷揚げ橋だね」
「相手は、どこから来ますか」
リューリックが尋ねる。
「東」
「陸路?」
「船」
「一人?」
「知らない」
「受け取るものは」
セドは少し迷った。
「灰色の蝋で封じた筒」
リューリックが立ち上がろうとする。
傷が引きつり、僅かに顔を歪めた。
「灰橋倉の印です」
「確かかい」
テオが尋ねる。
「以前、倉で同じ封蝋を見ました。橋を横から見た形です」
灰橋倉。
死者名義。
青い線。
王家筋未確定。
そして、帝都路へ向けられた欠けた王冠。
「夜明けまで、あとどのくらいですか」
レイラが尋ねる。
テオは窓の外を見る。
「一刻もないね」
「相手を捕らえます」
ドルンが言った。
「待ってください」
レイラが止める。
「何だ」
「相手が、何を運んでくるかを先に確認します」
「逃げられる」
「橋と河を塞ぎます」
「誰が」
「頼みます」
ドルンは、少しだけ目を細めた。
「命じないのか」
「あなたには」
「リューリックには命じていた」
「あれは、傷が開いていたからです」
「都合がよいな」
「必要に応じてです」
ドルンは鼻を鳴らしたが、反対はしなかった。
レイラは全員を見る。
「敵は、私たちをここへ集めました」
白枝。
白羽。
剣。
帳簿。
「次の人まで、敵の考えたとおりに迎えたくありません」
「どうするのですか」
エルナが尋ねる。
「合図は出します」
セドが顔を上げる。
「俺が?」
「はい。ただし、無理には頼みません」
「やらなかったら」
「何も失いません」
「名前も?」
「それを取引には使いません」
セドは、しばらくレイラを見ていた。
「やる」
「よいのですか」
「先生が、本当に名前を知っているか確かめたい」
「危険です」
「剣士がいる」
セドはリューリックを見る。
「武器を持たなければ、斬らないんでしょう」
「はい」
「なら、俺は持たない」
「相手があなたを狙った場合は、私が守ります」
「傷だらけなのに?」
「問題ございません」
「痛いんでしょう」
リューリックは黙った。
テオが笑う。
「君まで覚えたね」
「記録係に会ってみたい」
セドが言った。
リューリックの返事が、僅かに遅れた。
「いずれ」
「大事な人?」
「いまは、その話ではございません」
「分かりやすいね」
「テオ殿」
「僕は何も言っていないよ」
僅かに空気が緩んだ。
レイラは、その短い間を逃さず息を整えた。
「行きましょう」
夜明け前。
灰橋倉から来る者を迎えるために。




