第八十部 名を持たない少年は、灰色の橋を知る話 ① 夜通しの確認と、空けたままの欄
名を尋ねるという行為が、これほど難しいものだと、レイラは知らなかった。
王宮にいた頃、名前は最初から与えられていた。
謁見へ来る貴族。
近衛兵。
侍女。
使節。
皆、名と身分を告げてから王女の前へ進み出る。
名を知らない相手がいれば、側近が先に調べた。間違った名を名乗る者は、警戒すべき相手だった。
だが、白石河港へ救い出された者たちは違う。
名前を奪われた者。
別人の名を与えられた者。
本当の名前を口にするたび殴られ、ついには言えなくなった者。
何年も番号だけで呼ばれ、自分の名前が本当に自分のものだったのかさえ、分からなくなった者もいる。
「お名前を伺ってもよいですか」
レイラが尋ねる。
卓の向こうへ座った年配の女は、毛布を肩まで引き上げたまま口を開かなかった。
答えたくないのではない。
答えを探している。
視線が、卓の木目を何度も行き来する。
「急がなくて構いません」
レイラは言った。
「思い出せなければ、今日は思い出さなくても」
「名前がないと」
女が、ようやく声を出した。
「ここから追い出される?」
「追い出しません」
「帳面に書けないでしょう」
「名前以外のことを書きます」
「何を」
「お好きな食べ物や、生まれた場所。覚えている景色でも」
女は、理解できないような顔をした。
「それが、何になるの」
「あなたを、ほかの誰かと間違えないための記録になります」
「名前がなくても?」
「はい」
レイラは、隣で筆を持つ商会員を見た。
「いまは、名前の欄を空けてください」
「承知しました」
商会員が紙の最上段を空白のまま残す。
年齢。
出身地。
家族。
覚えていること。
女は長い間黙ったあと、小さく言った。
「青い花」
「花ですか」
「家の裏に咲いていた。春になると、川沿いに」
「川の名前は」
「分からない」
「花の形は?」
女は両手を動かし、細い花びらを作ろうとした。
商会員が、その形を紙の端へ簡単に描く。
「ほかには?」
「姉がいた」
「お名前は」
「……姉さん」
それ以上は出てこなかった。
レイラは聞き返さない。
「では、今日はそこまでにしましょう」
「名前は?」
「思い出した時に書きます」
「思い出さなかったら」
レイラは、空白の欄を見た。
「その時も、あなたがここにいたことは消えません」
女は答えなかった。
ただ、毛布の中から右手を出し、空白になっている名前欄へ指を置いた。
「消さないで」
「はい」
レイラは頷いた。
「空けたまま、残します」
◇
名前の確認は、夜が明けるまで続いた。
五十六人。
全員を一度に終えることはできない。
体力のある者から話を聞き、重傷者は治療を優先する。話したくない者には、無理に尋ねない。
テオは商会員を交替させながら帳面を増やし、救出者へ付けられていた木札を一枚ずつ別の袋へ収めていた。
「木札も残すのですか」
レイラが尋ねる。
「ああ」
テオは、偽名の書かれた札を裏返した。
「嫌な物だけど、捨てれば同じ名前がまた使われる。誰へ、いつ、どの名前が付けられたか。確認できるものは残す」
「本人が、見たくないと言った場合は?」
「封をする」
「燃やさない?」
「本人が望むなら、最後にはね」
テオは木札を袋へ入れる。
「でも、燃やす前に写しを取る」
「すべて商会の記録に?」
「違う。本人へ返すための記録だよ」
「名前を?」
「名前を奪われた経緯を、奪った側だけの帳簿へ残したくない」
レイラは、テオを少し見た。
「何だい」
「商人らしくないと思いました」
「利益はあるよ」
「どこに?」
「この人たちが、次に誰かへ同じことをされない」
「それは、利益なのですか」
「長く商売をするならね」
テオは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「人がいなくなれば、買う者も売る者もいなくなる」
「最後だけ、商人らしく戻りました」
「安心した?」
「少し」
「なら、安くしておくよ」
「何をですか」
「評価を」
「必要ありません」
テオが笑う。
その少し離れた場所では、リューリックが壁際へ立っていた。
座れと言われても座らない。
肩と脇腹の包帯には、すでに薄く血が滲んでいる。
「リューリック」
レイラが呼ぶ。
「はい」
「座ってください」
「周囲の確認が終わっておりません」
「見張りの方がいます」
「刺客が一人とは限りません」
「傷が開いています」
「問題ございません」
「痛みは」
リューリックは答えを止めた。
テオが顔を上げる。
「答えを覚えたはずだろう」
「テオ殿」
「痛い時は?」
リューリックは、レイラとテオを順番に見る。
「……痛みはございます」
「では、座ってください」
「しかし」
「リューリック」
レイラは椅子を指した。
「王女として命じます」
「森では命じないのでは?」
背後からルーウェンが言った。
「リューリックは森ではありません」
「使い分けるようになったな」
「必要に応じてです」
リューリックは、僅かに口元を緩めた。
「承知いたしました」
椅子へ腰を下ろす。
「素直ですね」
エルナが言う。
「昔から、王家の命令には」
リューリックは途中で言葉を止めた。
王家。
もう存在しない国。
レイラは、その続きを求めなかった。
「命令ではなくても、座ってください」
代わりに言う。
「はい」
今度の返事は、少しだけ柔らかかった。




