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第七十九部 亡国の王女は、亡国の剣士へ立てと言う話 ① 白石河港を覆う白い布

 古い河道を抜けた舟が白石河港へ近づいた時、最初に見えたのは、桟橋でも倉庫でもなかった。


 白い布だった。


 河岸に近い石畳の上へ何枚も並べられ、その下には人の形をした膨らみがある。


 布の端から革靴が覗いている者。


 血の染みが広がっている者。


 折れた弓を脇へ置かれている者。


 昨日まで、生きて剣を握っていた人間たちだった。


 その向こうでは、療養院と書かれた建物から黒い煙が細く立ち上り、窓へ嵌められていた鉄格子が外されている。中庭には血を洗った水が流れ、石の溝へ赤黒い筋を残していた。


 助かった者たちもいる。


 毛布へ包まれ、倉庫の壁際へ座る者。


 腕へ包帯を巻かれた者。


 首から木札を下げたまま、自分の名前を何度も尋ねられている者。


 泣いている子どもの隣では、商会員らしい男が膝をつき、聞き取った言葉を帳面へ書いていた。


 勝ったあとの港ではなかった。


 生き残った者と、死んだ者を、まだ分けている途中の港だった。


「戦いがあったのですね」


 舟の先へ立つレイラが言った。


「ああ」


 ルーウェンは、河岸を見たまま答えた。


 古い外套には、冬根の香りがまだ残っている。


「大きな戦いですか」


「人数だけなら、そうでもない」


 エルナが弓を手にしたまま周囲を見渡す。


「でも、人を閉じ込めた場所へ踏み込んだ戦いは、数より重くなる」


 ドルンは、布を掛けられた遺体を見た。


「敵の死者が多いな」


「剣を知る者がいたのでしょうか」


 レイラが尋ねる。


「見れば分かる」


 ドルンが岸壁へ残った血の跡を指す。


 幾つもの足跡が入り乱れている。


 その中に、ほとんど迷いなく一直線へ進んだ痕跡があった。


 一人を斬り。


 次へ向かい。


 そこでまた斬る。


 後退した形跡は少ない。


「上手い、ということですか」


「違う」


 ルーウェンが答えた。


「戦場を知っている」


 舟が桟橋へ近づく。


 港の見張りがこちらに気付いた。


「上流から舟!」


 声が飛ぶ。


 弓を持った者が三人、石壁の上へ出る。河道を下ってきた舟には船印がなく、乗っている者のうち三人は銀髪で耳が尖っている。


 警戒されて当然だった。


「止まれ!」


 港側から声が響く。


「そこで櫂を上げろ!」


 エルナが櫂を止め、両手を見える位置へ上げた。


 ルーウェンとドルンも武器には触れない。


 レイラは胸元の白い羽根を隠したまま、舟の中央へ立っていた。


「どこから来た!」


「シルヴァス」


 ルーウェンが答える。


 河岸の空気が変わった。


 見張りたちが顔を見合わせる。


「森人か」


「ああ」


「目的は」


「白石河港へ呼ばれた」


「誰に」


「顔を隠した男だ」


 その時。


 桟橋の奥から、黒い外套を着た若い男が歩いてきた。


 細身。


 装飾の少ない長靴。


 昨日まで戦場だった場所へ立っている割に、服へ付いている血は少ない。ただし、右袖の一部が裂け、手には矢の刺さった帳面を持っていた。


「弓を下げて」


 男が言った。


「ですが、会長」


「白い枝と白い羽根を待っていた者が、森人を射たら帳簿へ説明しにくいだろう」


 見張りたちが、僅かに迷ってから弓を下ろす。


 男は舟の上へ視線を移した。


「僕はテオ。セオドール・グラントという名前もあるけど、長いからテオでいい」


「グラント商会の?」


 レイラが尋ねる。


「知っている?」


「名だけは。大陸西部の海運を束ねる商会だと」


「悪い評判でなければ嬉しいね」


「よい評判と、強欲だという評判を」


「両方なら正確だ」


 緊張していたエルナの口元が、僅かに緩む。


 ルーウェンは笑わなかった。


「白枝を知っているのか」


「昨日から知った」


 テオは、矢の刺さった帳面を軽く掲げる。


「帳面へ君の昔の名が書いてあった」


「どこで手に入れた」


「この港の地下。銀を溶かし、人を名前ごと運んでいた場所だ」


 ルーウェンの目が細くなる。


「先生は」


「上流へ逃げた」


「いつ」


「一昨日の夕方」


 レイラが、北西へ続く白石河を見た。


 自分たちが下ってきた方向。


 顔を隠した男は、同じ川を遡っている。


 河道の途中ですれ違った可能性もある。


「こちらへ向かっていた?」


「おそらくね」


「では、なぜ会わなかったのでしょう」


 テオはすぐには答えなかった。


「支流が多い。途中で舟を降りたか、カラン側の道へ移ったか。あるいは」


「私たちが通り過ぎるのを、どこかで見ていた」


 ルーウェンが続けた。


「ああ」


 短い答えだった。


 その時、療養院の建物から一人の男が出てきた。


 肩と脇腹へ包帯を巻き、上衣の上から古い外套を羽織っている。


 右手には剣。


 左腕にも、新しい切り傷がある。


 それでも、歩き方に乱れはなかった。


 見回りをしていたのだろう。


 視線が、まず河岸。


 次に舟。


 銀髪の三人。


 最後に。


 レイラへ止まった。


 男の足が止まる。


 レイラも、声を失った。


 髪は以前より長い。


 顔には、王宮で見た頃にはなかった傷が増えている。


 甲冑ではなく、傭兵が使う実用的な服。


 それでも。


 間違えるはずがなかった。


「リューリック」


 名前が、声になった。


 男は剣を左手へ持ち替えた。


 そして。


 血の残る石畳の上へ、片膝をついた。


「レイラ殿下」


 低く。


 固い声。


「ご無事で」


 そこまで言い。


 続きが出なかった。


 レイラは、舟が桟橋へ完全に着くのを待てなかった。


「王女様!」


 エルナが呼ぶ。


 舟の縁から桟橋へ足を移す。


 僅かに距離が足りない。


 ルーウェンが腕を掴もうとしたが、レイラは先に飛び降りた。


 靴底が石へ滑る。


 転びかける。


 それでも立ち直り、リューリックの前まで走った。


「本当に」


 何を言えばよいのか分からない。


「本当に、リューリックなのですか」


「はい」


 彼は膝をついたまま答えた。


「私です」


「顔を上げてください」


 リューリックが顔を上げる。


 以前より痩せている。


 けれど、生きている。


 レイラの中で、王宮の記憶と目の前の男が重なる。


 兄の傍らへ立っていた騎士。


 訓練場で誰より静かに剣を振っていた男。


 国が滅びた日に、別の門を守っていた男。


 死んだと思っていた。


 もう二度と会えないと思っていた。


「兄上は」


 最初に出たのは、それだった。


「レオン兄上は、生きていますか」


 リューリックの目が、僅かに揺れる。


「私が最後にお会いした時には、生きておられました」


「最後に?」


「はい。ですが、その後、私は殿下と別の道へ進みました。現在どこにおられるかは、分かりません」


 喜んでよいのか。


 恐れてよいのか。


 分からない答えだった。


 それでも。


 生きていた。


 少なくとも、リューリックが最後に見た時には。


 レイラの目から、涙が落ちた。


「兄上は、生きていたのですね」


「はい」


「あなたも」


「はい」


「なぜ」


 言葉が震える。


「なぜ、皆、勝手に死んだと思わせるのですか」


「申し訳ございません」


「謝らないでください」


 そう言いながら、涙は止まらない。


「でも、謝ってください」


「どちらでしょうか」


「分かりません」


 レイラは袖で目元を拭った。


「いまは、分かりません」


「承知いたしました」


「その返事も、昔のままですね」


「ほかの答えを、あまり知りませんので」


 リューリックの声も、僅かに掠れていた。


「レイラ殿下」


「はい」


「王国を」


 一度。


 言葉が途切れる。


「お守りできませんでした」


 レイラは、片膝をついた男を見る。


 亡国の騎士。


 守れなかった国を背負い、八年以上、別の場所で剣を振ってきた男。


「立ってください」


「ですが」


「立ってください、リューリック」


 今度は、はっきり言った。


「亡くなった方へ膝をつくなら、止めません。ですが、生きている私へ、いつまでも謝るために膝をつく必要はありません」


「殿下」


「私は、あなたを責めるために生き残ったのではありません」


 レイラは手を差し出した。


「戻ってきてくれて、ありがとうございます」


 リューリックは、その手を見た。


 触れてよいのか迷っているようだった。


 やがて、剣を地面へ置き、血の付いていない方の手を差し出す。


 レイラは、その手を掴んだ。


「立ってください」


「はい」


 リューリックが立つ。


 その身体が僅かに揺れた。


「怪我をしていますね」


「問題ございません」


 テオが横から言った。


「問題はあるよ」


 レイラが振り返る。


「先ほどの方は」


「テオ殿です」


 リューリックが答える。


「海運・交易商社会長であり、今回の事件を港側から追っておられます」


「説明が固いね」


「事実です」


「それから、この剣士は斬られた数を正確に言わない」


「数えておりませんので」


「ほら」


 テオはレイラへ軽く頭を下げた。


「感動の再会へ口を挟むのは高くつきそうだけど、彼を座らせてくれる? 立ったまま血を落とされると、掃除の費用が増える」


「テオ殿」


「冗談だよ。半分は」


 レイラは、リューリックの肩口へ滲む血を見る。


「座ってください」


「まだ周囲の確認が」


「命令です」


 口へ出したあと、レイラは少しだけ目を見開いた。


 森では命じない。


 そう学んだばかりだった。


 リューリックは、ほんの僅かに口元を緩めた。


「承知いたしました、殿下」


「いまだけです」


「はい」


 その時。


 毛布へ包まれた救出者の列から、一人の男が立ち上がった。


 痩せた身体。


 患者着。


 首には木札。


 足取りは不安定に見える。


「水を」


 男が言った。


 声は弱い。


「水を、ください」


 レイラは反射的に、そちらへ顔を向けた。


 近くにいた商会員が水差しを取る。


 男は一歩。


 さらに一歩。


 レイラへ近づいた。


 倒れそうに身体を傾ける。


「危ない」


 レイラが手を伸ばした。


 男の右肩が、落ちる。


 左足が半歩前へ出る。


 倒れる人間の動きではない。


 服の内側から刃物を抜くための動きだった。


 ルーウェンの手が短刀へ伸びる。


 エルナも弓を上げる。


 だが。


 先に動いたのは、リューリックだった。


 地面へ置いたはずの剣が、すでに手の中にある。


 一歩。


 男とレイラの間へ入る。


 患者着の下から、黒い針状の短剣が現れた。


 毒の色。


 警告する距離ではない。


 捕らえる余裕もない。


 リューリックの剣が、男の胸へ下から入った。


 肋骨の隙間。


 心臓。


 刃は背中まで抜けない。


 必要な深さだけで止まる。


 男の目が見開かれ、短剣が石畳へ落ちた。


 リューリックは剣を引き抜き、倒れる身体をレイラから遠ざけるよう横へ押した。


 男は一度だけ痙攣し、動かなくなった。


 すべてが。


 息を吸うより早かった。


 レイラは、石畳へ転がった黒い短剣を見る。


 刃には、粘つく液体が塗られている。


「殿下」


 リューリックは、周囲から目を離さず言った。


「お下がりください」


 声に動揺はない。


 剣先から血が落ちている。


 療養院の戦いで多くの敵を斬り、いまもまた一人を殺した男の声だった。


 レイラは、二歩下がった。


 ルーウェンが横へ並び、短刀を抜く。


 エルナとドルンも周囲へ視線を走らせた。


「救出者を全員、もう一度確認して」


 テオが命じる。


「木札と名前だけでは足りない。手の皮膚、靴、傷、縄の跡まで見る。見張りは門と河岸へ二倍」


「はい!」


 商会員たちが動く。


 リューリックは倒した男の手を確認した。


 指の付け根に硬い皮膚。


 短剣を使う者の手。


 手首には縄の跡がある。


 だが、赤くない。


 古い傷だった。


「捕らえられていた者ではありません」


 リューリックが言う。


「縄の跡が古い」


「いつ紛れた」


 ドルンが尋ねる。


「戦いの混乱でしょう」


 テオが答えた。


「患者着と木札を奪えば、救出者へ混じれる」


 レイラは、リューリックを見る。


 剣へ付いた血。


 静かな横顔。


 警告もなく人を斬った。


 だが。


 男の短剣は、自分へ届く寸前だった。


「リューリック」


「はい」


「私を守ったのですね」


「はい」


「謝らないでください」


 彼が何か言う前に、レイラは続けた。


「いまのことを、謝らないでください」


 リューリックは、僅かに目を伏せた。


「承知いたしました」


「それから」


「はい」


「傷を見せてください」


「それは」


「別の話です」


 テオが小さく笑った。


「よい王女だね」


「お菓子は持っていませんが」


「何の話?」


「長い話です」


 張り詰めた空気の中で、エルナが僅かに笑った。


 ルーウェンだけは、リューリックを見ていた。


「速いな」


 短く言う。


「遅ければ、殿下が死んでおられました」


 リューリックが答えた。


「迷わなかった」


「迷う距離ではありません」


「殺すことを」


「戦場で迷えば、守る側が死にます」


 ルーウェンは、もう何も言わなかった。


 認めるように、ほんの僅かに頷いた。



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