第七十八部 白い羽根と白い枝は、同じ河へ向かう話 Another Side:リューリック/テオ ① 病人の演技は、剣より難しい話
患者役となったリューリックは、荷車の中で苦しそうに横たわっていた。
少なくとも、本人はそのつもりだった。
「目が開いている」
テオが小声で言う。
「周囲を確認しております」
「病人は、そんなに鋭い目で出口を見ないよ」
「危険に備える必要が」
「君は患者役だ」
「患者にも警戒心はあります」
「剣の柄を握りながら?」
毛布の下で、リューリックの右手は剣へ触れている。
「すぐに動けるように」
「死にかけの患者が、すぐ剣を抜いたら怪しまれるね」
「では、どの程度で」
「何が」
「剣を抜けばよいのでしょう」
「必要になったら」
「基準が不明確です」
「君は本当に演技へ向いていない」
「先に申し上げました」
三台の荷車は、第二宿駅を出て旧塩道へ入っていた。
旧塩道は、カラン方面から白石河港へ運ばれた交易品を、オーランド内陸へ送るために使われていた街道である。
道は白石河と並びながら南東へ下る。
河は大陸最西端のシルヴァス方面から流れ出し、カラン西部を抜け、オーランド北西部へ入ってきたものだった。
街道の片側には低い丘。
もう片側には白石河。
河岸には、使われなくなった小さな桟橋や古い塩倉が点在している。新しい交易路が整えられてから、正規の商人が使うことは減ったが、人目を避けて荷を動かすには都合がよい。
テオは灰十字医療団の付き添いを装い、荷車の隅へ座っている。
質素な外套。
汚れた革鞄。
普段の商会長らしい装いは隠していた。
「咳をして」
「必要でしょうか」
「検問が近い」
幌の隙間から、道の先へ小さな詰所が見える。
正規の関所ではない。
木柵。
見張り台。
武装した男が四人。
通行料を取るだけの私設検問所だった。
「どのように咳けば」
「普通に」
「普通とは」
「苦しそうに」
「先ほどから、基準が」
「いまは議論しない」
荷車が止まる。
外から声がした。
「移送札を」
御者役の商会員が偽造された紙を渡す。
「患者は」
「七人」
「見せろ」
幌へ手が掛かる。
テオがリューリックの脇腹を指で押した。
「何を」
「咳」
リューリックは、仕方なく咳をした。
「ごほっ」
あまりにも小さい。
テオが、今度は傷の近くを押す。
「痛っ」
声が出た。
続いて本物の咳。
肩が動き、顔が僅かに歪む。
「それだね」
「いまのは演技では」
「自然だった」
幌が開き、検問役の男が顔を覗かせた。
テオは布で口元を覆う。
「近づかない方がいい」
「何の病だ」
「高熱と発疹。それから、血の混じる咳」
男が一歩下がる。
リューリックは毛布の下からテオを睨んだ。
血の混じる咳はしていない。
「札には肺病とある」
「悪化した」
「名前は」
テオが札を見る。
「ヤン・ローレル」
死者名簿から使われていた名前だった。
検問役が、リューリックへ尋ねる。
「名前を言え」
「ヤン・ローレルでございます」
丁寧すぎた。
男の眉が寄る。
「病人にしては、はっきりしているな」
テオがすぐに割って入った。
「熱が上がると、時々そうなる」
「どうなる」
「妙に礼儀正しくなる」
「そんな病があるか」
「珍しい症状だね」
「医師なのか」
「付き添いだよ」
「なら黙れ」
「病人へ話させる方がいい?」
荷車の奥から、別の患者役が激しく咳いた。商会員の一人で、こちらは上手だった。
検問役の男は、嫌そうに幌を閉じた。
「通れ」
「通行料は」
御者が尋ねる。
「銀貨三枚」
「通常は一枚だろう」
「感染症なら、消毒代が要る」
テオが幌の内側から言う。
「二枚だね」
「何だと」
「消毒へ使う酒の相場なら知っている。一枚で足りる」
「患者ごと止めてもいいんだぞ」
「そうすれば、感染者を詰所へ一晩置くことになる」
外が静かになる。
「二枚で」
検問役が言った。
「商人ですか」
リューリックが小声で尋ねる。
「付き添いだよ」
「値切っておられました」
「習慣だね」
「病人の前で」
「君は患者役だ」
二枚の銀貨が渡され、荷車は再び南東へ動き出した。
「テオ殿」
「何だい」
「先ほど、傷を押しましたね」
「演技のためだ」
「痛みがあります」
「記録係の方へ、正直に書いて」
「テオ殿に押されたため、と」
「僕の名は省いてくれると助かる」
「正確な記録が必要です」
「君も厳しくなったね」
◇
白石河港へ近づくにつれ、街道と河の距離は狭くなった。
水面には、荷を積んだ小舟が何艘も見える。新しい交易路から外れている場所にしては船が多く、どの舟も荷へ布を掛け、船名を塗り潰したものまであった。
「見える?」
「はい」
「船首が沈んでいる舟が三艘。塩ではないね」
「なぜ」
「塩なら、船腹全体が沈む。前へ偏っているのは、重いものを船首側へ固めているからだ」
「銀貨?」
「銀の塊か、炉の道具かもしれない」
「人では」
「人だけでは、あそこまで沈まない」
テオは幌の隙間から河岸を見続けている。
船。
荷。
縄。
桟橋。
人の動き。
リューリックは音を聞いていた。
荷車。
馬。
遠くの金属音。
そして、河の方から聞こえた、かすかな叫び声。
「聞こえましたか」
「ああ」
「人です」
「そうだね」
「止めますか」
「まだだ」
リューリックの手が、毛布の下で剣を握る。
「テオ殿」
「白石河港へ入る直前だ」
「声がしました」
「分かっている」
「では」
「ここで動けば、桟橋へいる者が舟で逃げる」
「ですが」
「河港の出口を塞いでからだ」
リューリックは目を閉じた。
一人を助けるために、後ろの十人を見失うな。
分かっている。
それでも、声を聞きながら待つのは難しい。
「あと、どのくらいですか」
「半刻も掛からない」
「その間に」
「死なせない」
テオの声が、いつもより低かった。
「どうやって」
「僕の船が、下流側で待っている」
白石河は河港からさらに南東へ流れ、オーランド内陸の水路網へつながっている。その下流を、グラント商会の船で塞いでいた。
「いつの間に」
「第二宿駅へ来る前から手配していた」
「私へは」
「まだ言っていなかった」
「なぜ」
「君は知れば、先に走るだろう」
「信用されていないのですか」
「帳簿を預けるには向いていない」
「また、それを」
「でも、人を助ける時は信用している」
リューリックは返事をしなかった。
剣を握る手だけが、少し緩んだ。
◇
白石河港は、港と呼ぶには寂れた場所だった。
カラン方面から北西より流れてきた白石河が、オーランド領内へ向けて南東へ大きく曲がる場所。その内側へ、石造りの桟橋が三本突き出している。
周囲には古い塩倉が並び、その半分は屋根が崩れていた。
正面の大きな建物には、
療養院。
そう書かれた板が掲げられている。
だが、窓には鉄格子が嵌まり、煙突から出る煙は黒い。薬を煎じる煙ではない。銀や鉛を溶かす炉の煙だった。
三台の荷車が門へ入る。
武装した男が左右から近づいた。
「予定より早いな」
御者役の商会員が、捕らえた男から聞いた合図を使う。
「東の記録が動いた」
「荷は」
「七と十二」
患者七名。
薬箱十二。
「軽い方は」
「内陸へ」
「重い方は」
「河へ」
男は頷き、門を開いた。
荷車が中庭へ入る。
周囲には、別の荷車が五台。
患者着を着せられた者たちが二列に並ばされ、手首へ縄を掛けられ、首へ木札を下げられていた。足取りは重く、薬を使われている者もいる。
リューリックは毛布の下で息を止めた。
目の前に、助けるべき人がいる。
だが、まだテオの合図はない。
「降ろせ」
外から声がする。
幌が開き、付き添い役のテオが先に降りた。
「患者は、動かさない方がいい」
「ここで診る」
「高熱だ」
「死んだら河へ捨てる」
男が平然と答える。
リューリックの指へ力が入った。
テオは表情を変えない。
「それでは、帳簿の数が合わないね」
「何だと」
「七人を入れた記録がある。六人しか出なければ、差分が残る」
「ここでは、数はこちらが決める」
「なるほど」
テオは、僅かに周囲を見た。
桟橋。
倉庫。
見張り。
炉。
河岸へ停められた舟。
下流側。
南東の河面で、遠く帆が一枚上がる。
グラント商会の合図だった。
下流を塞いだ。
「リューリック」
テオが言う。
「もう、患者でなくていいよ」
毛布が跳ね上がった。
リューリックは荷車の上で身を起こし、隠していた剣を抜く。
「承知いたしました」
門を守っていた男が目を見開いた。
「何だ、貴様!」
男が警笛へ手を伸ばす。
鳴らされれば、療養院の奥にいる者たちは人質を殺し、帳面を焼き、河船で逃げる。
止めるだけでは足りない。
リューリックは荷台から飛び降り、着地と同時に踏み込んだ。
横薙ぎの刃が、男の喉を深く裂く。
警笛を握ったまま、男は声も出せずに倒れた。
二人目が長剣を抜く。
振り下ろされた刃を外へ受け流し、相手の懐へ身体を入れる。脇腹へ剣を突き込み、そのまま引き抜いた。
男が崩れる前に肩で押し退け、三人目へ向き直る。
立ち止まらない。
一人へ時間を掛ければ、左右から囲まれる。
倒した者が二度と戦列へ戻れないことだけを確かめ、次へ進む。
「敵襲!」
療養院の入口から四人が飛び出した。
槍が二本。
剣が一本。
短弓が一張。
「弓を!」
リューリックが叫ぶ。
グラント商会の護衛が盾を上げ、矢が革張りの表面へ刺さった。
その陰からリューリックが走る。
一人目の槍兵が穂先を向けた。
真正面から入れば、腹を貫かれる。
リューリックは半歩だけ右へ外れ、伸びてきた槍の柄を剣で叩き落とした。そのまま間合いを潰し、首筋へ刃を走らせる。
血が外套へ掛かった。
振り払う暇はない。
残る槍兵が背後から突く。
「後ろです!」
護衛の声。
リューリックは半身になり、槍を脇へ通した。左腕で柄を抱え込み、相手を引き寄せる。
近づいた胸へ剣を突き入れた。
一度。
深く。
男の力が抜ける。
その身体を盾代わりにした直後、弓兵が二射目を放った。
矢は、死んだ男の背へ刺さる。
リューリックは身体を弓兵へ突き飛ばし、視界が塞がれた一瞬で距離を詰めた。
弓兵が弓を捨て、腰の短剣へ手を掛ける。
抜かせない。
斜めに振り下ろした刃が腕を断ち、そのまま胸へ食い込んだ。
男が倒れる。
残る剣士が足を止めた。
四人いた仲間のうち、三人はすでに地面へ沈んでいる。
「剣を捨ててください」
リューリックが言った。
声だけは、いつもと変わらない。
「いまなら、斬りません」
「ふざけるな!」
男が踏み込む。
答えは出た。
リューリックは正面から受けず、相手の左側へ回った。振り下ろされた刃が地面へ落ちた瞬間、首の付け根を斬る。
男は二歩進み、そのまま倒れた。
かつて、リュカリオン最強の剣士と呼ばれた男。
王国を失ったあとも、剣を捨てることはできなかった。
街道の護衛。
地下闘技場。
傭兵同士の殺し合い。
昨日まで隣で酒を飲んでいた者が、翌朝には敵の陣へいるような時代を、リューリックは八年近く生き延びてきた。
戦場で手を抜いた者から死ぬ。
情けを掛けるなら、相手が武器を捨てたあとだ。
レオンが隣にいないいま、無謀に前へ出る王子を止める必要はない。代わりに、誰を斬り、誰を生かし、どの命を先に守るか、その判断をすべて自分で引き受けなければならなかった。
「次!」
リューリックは叫んだ。
武器を持ったまま近づく者は斬る。
捨てた者は生かす。
それが、人質を一人でも多く守るための境界だった。




