第七十八部 白い羽根と白い枝は、同じ河へ向かう話 ④ 翌朝の約束と、古い河門からの出発
出発は翌朝と決まった。
閉じた古い河道を確認し、使えるならカラン西部を抜けて白石河港まで水路を下る。使えなければ、森の南東部から山道へ出て、陸路へ切り替える。
森議会からは、外へ出るための通行札、薬、食料、水路図、そして九十七年前の河門の鍵が渡された。
「外套は?」
レイラが尋ねる。
「着る」
「まだ洗っていません」
「夜までに乾かない」
「では、別のものを」
「これでよい」
「冬根の香りがします」
「外では虫除けになる」
「人も避けると思います」
エルナが荷物をまとめながら笑う。
「王女様、諦めてください。昔から、ああです」
「昔から?」
「白枝の荷車は、遠くからでもルーウェンが乗っていると分かりました」
「なぜ」
「森の薬草と、湿った外套の匂いで」
「隠密行動には向いていないのでは」
「本人だけは、気付かれていないと思っていました」
ルーウェンは無言で外套を畳んだ。
「聞こえていますか」
「ああ」
「反論は」
「必要ない」
「諦めたのですか」
「二人を相手にする方が時間の無駄だ」
その横で、ドルンは火傷のある左腕へ革当てを巻いていた。
レイラが近づくと、視線だけを向ける。
「何だ」
「よろしくお願いします」
「まだ、何もしていない」
「ですから、先に」
「王女らしくないな」
「王女は、先に礼を言わないのですか」
「礼ではなく、命令と褒賞を先に出すものだと思っていた」
「褒賞は、何を」
「持っていないのか」
「木の実が一つ」
「それは食べろ」
朝にもらった木の実は、まだ革袋の中に残っている。
「お菓子へ替えられませんか」
「その話は、森全体へ広がっているぞ」
「なぜですか」
「王女が菓子を持っていないのは、大事件らしい」
レイラは深く息を吐いた。
国を失ったことより。
帝国に追われていることより。
森では、お菓子を持っていない王女として記憶されつつある。
「白石河港へ着いたら」
エルナが言う。
「最初に買わなければなりませんね」
「敵を探す前に?」
「子どもたちとの約束です」
「努力すると言っただけです」
「森の子どもは、百年覚えています」
ルーウェンが古い外套を背負った。
「諦めろ」
「あなたにだけは言われたくありません」
笑いが家の中へ広がった。
その直後、外から小さな杖の音がした。
フィアが、セルノへ支えられながら立っている。
「歩いてよいのですか」
レイラが駆け寄る。
「ここまでだけ」
右足へ厚い包帯を巻かれ、顔色もまだよくない。
「見送りですか」
「違う」
「では」
「頼みに来た」
フィアはルーウェンを見る。
「先生と呼ばれていた男を、見つけて」
「ああ」
「殺さないで」
セルノが娘を見る。
「フィア」
「聞きたいことがある」
「何を」
「私たちを捕らえた理由。父さんを使った理由。それから、どうして私たちの名前を知っていたのか」
森人の名。
家族。
セルノが娘のためなら何をするか。
敵は知っていた。
「分かった」
ルーウェンが答える。
「約束?」
「できる限りは」
「逃げ道を付けた」
フィアが言い、レイラはほんの少し笑った。
「森全体へ広がっていますね」
「誰のせいだ」
「エッダです」
「ここにいない者へ押し付けるな」
フィアは、痛みに顔を歪めながらも笑った。
「連れて帰って」
今度はレイラへ向けて言う。
「誰を?」
「その人」
ルーウェンを指した。
「九十七年、帰らなかったんでしょう」
「はい」
「一人にすると、また帰らなくなる」
「その可能性があります」
「お前たちは」
ルーウェンが口を挟む。
「本人の前で話すな」
「聞かれた方がよいです」
レイラは答えた。
「約束しましたから」
決める前に話す。
一人で背負わない。
帰る。
「連れて帰ります」
レイラはフィアへ言った。
「努力ではなく?」
「約束します」
今度は、ルーウェンが何も言わなかった。
◇
翌朝。
森の南東部にある古い河門の前へ、四人は立っていた。
巨大な樹木の根が石造りの水門を覆い、その向こうから、地面の下を流れる水の音が聞こえる。
ルーウェンは金属の輪を石軸へ嵌めた。
だが、回らない。
「白羽を」
レイラは革袋から羽根を取り出した。
白い羽毛。
透明な樹脂。
森の朝露を受け、淡く光る。
「何を言えば」
「お前が決めろ」
「開けてください、では命令になりますか」
「言い方ではない」
「では」
「何のために開けるのか、森へ話せ」
レイラは石門へ手を触れた。
冷たい。
その奥には、かつて交易へ使われ、人攫いへ使われ、白枝が人々を逃がすために使った河道がある。
「この道を借りたいです」
レイラは言った。
「私を求めている者がいます。その者は森の方を捕らえ、町を燃やすと脅しています」
羽根は、まだ光らない。
「私は、自分を渡すつもりはありません。ですが、誰かが私のために傷付くのを、安全な場所で待つこともしたくありません」
足元の根が、ほんの少し動いた。
「道を貸してください。この川を南東へ下り、カランを越え、白石河港まで進ませてください」
根の奥で、低い音がした。
「通ったら、必ず返します」
石の奥で何かが外れる音がした。
ルーウェンが金属の輪を回す。
今度は動いた。
重い石門が、百年近い眠りから目を覚ますように、ゆっくりと開いていく。
暗い河道。
冷たい水。
遠く、南東へ続く光。
白い羽根と、白い枝。
二つが揃い、閉じていた道が再び開いた。
「行きましょう」
レイラが言う。
「カランを越えて、白石河港へ」
ルーウェン。
エルナ。
ドルン。
三人が頷いた。
四人を乗せた細長い舟が、森の地下を流れる古い河へ入っていく。
その先で、同じ河港へ向かっている者たちがいることを、レイラたちはまだ知らなかった。
──第七十八部 了




