第七十七部 帰ってきた者は、昔の名で呼ばれる話 Another Side:リューリック/テオ 死者の名で運ばれた、生きた水夫の話
第二宿駅は、オーランド民主連合国の北西部にあった。
北西のカラン国境方面から白石河港へ下る旧塩道と、内陸の鉱山町へ向かう街道が交わる場所である。
かつては、カランやさらに北西の森から届いた薬草、木材、樹脂と、オーランド側から運ばれる塩、布、鉄を交換する宿駅として栄えていた。
新しい交易路が整えられてからは利用者が減ったが、人目を避けたい荷にとっては、むしろ都合がよくなっている。
三台の荷車は、その第二宿駅へ北西側の街道から入ってきた。
幌はすべて閉じられている。
一台目の側面には、灰色の十字を描いた布。
二台目と三台目には、薬材商の印。
見た目だけなら、患者と薬を運ぶ医療団の一行だった。
だが、一台目の床板から血が落ちている。
一滴。
少し間を置いて、もう一滴。
宿駅の乾いた土へ、暗い点を作っていた。
「止めてください」
リューリックが道へ出る。
先頭の御者が手綱を引いた。
「何だ」
「患者を確認いたします」
「急患だ。近づくな」
「だからこそ、確認が必要です」
「感染症だぞ」
「症状は」
「高熱と発疹だ」
「何名ですか」
「七人」
「移送札を」
御者は、苛立ったように胸元から紙を出した。
青い二重線。
偽造された灰十字医療団の印。
テオは少し離れた場所から紙を見る。
「よくできているね」
御者がそちらを見る。
「誰だ」
「この宿駅で、荷の確認を頼まれた商人だよ」
「商人に患者の何が分かる」
「患者は分からない」
テオは、荷車の車輪へ視線を落とす。
「でも、荷は分かる」
「何の話だ」
「七人と、その荷物にしては沈みすぎているね」
荷車の後輪が、土へ深く入っている。
患者だけではない。
床下か、側壁へ重いものを積んでいる。
「病人を早く運びたい」
御者が言う。
「道を空けろ」
「その病人から、血が落ちております」
リューリックは床板を指した。
「道中で出血した可能性があります。診察を」
「必要ない!」
声が強すぎた。
患者を運ぶ者の反応ではない。
リューリックが一歩近づく。
御者の右手が、腰の短剣へ動いた。
「手を離してください」
「近づくなと言った!」
短剣が抜かれる。
リューリックは、刃が正面へ向く前に御者の手首を掴んだ。
捻る。
肘を押さえる。
短剣が地面へ落ちる。
同時に、二台目の御者が鞭を振り上げた。
「出せ!」
馬が走り出す。
「テオ殿!」
「護衛を二人、付ける!」
テオの商会員が馬へ飛び乗った。
リューリックも、宿駅脇へ繋がれていた馬の手綱を取る。
一人ではない。
商会の護衛が二人いる。
約束は守っている。
「一台目を!」
リューリックは叫び、走り出した。
「任せて!」
テオは、逃げない三台目へ視線を向ける。
御者は手綱を捨て、後ろへ走ろうとしていた。
「そちらも止めて」
宿駅の警備が道を塞ぐ。
男は、荷車の下へ火の付いた布を投げようとする。
テオは足元の水桶を蹴った。
水が男の腕と布へ掛かる。
火が消える。
「帳簿を燃やす人は、皆、同じ顔をするね」
「何を」
「証拠が自分より大事な顔だよ」
男は濡れた布を捨て、短剣へ手を掛ける。
警備兵が左右から押さえ込んだ。
「離せ!」
「怪我はさせないで」
テオが言う。
「あとで、値段を聞く」
「何の」
「君が誰へ、いくらで雇われたか」
テオは、一台目の幌へ手を掛けた。
「商人だからね。取引の中身は気になるんだ」
◇
二台目の荷車は、宿駅を抜けた直後に旧塩道を外れた。
森へ入れば追いにくくなる。
御者はそう考えたらしい。
だが、重い荷を積んだ車輪は柔らかい地面へ深く沈んだ。
速度が落ちる。
リューリックが横へ並ぶ。
「止まってください!」
「近づくな!」
助手席の男が弩を向ける。
矢。
リューリックは馬の首へ身体を伏せた。
頭上を通り過ぎる。
二射目を装填する前に、商会の護衛が横から馬を寄せ、男の腕を鞭で打った。
弩が落ちる。
荷車の後部が開いた。
中から別の男が飛び出す。
長剣。
リューリックは馬から降り、地面へ着くと同時に剣を抜いた。
最初の斬撃を受け流す。
敵は速い。
街道の雇われ護衛ではない。
足運びも。
剣の角度も。
軍で学んだ者の動きだった。
「誰に雇われました」
「答えると思うか!」
「では、後ほど伺います」
敵の剣を外側へ流し、柄で手首を打つ。
剣が落ちる。
胸へ肩を入れ、荷車の側面へ押し付ける。
男は腰から細い針を抜いた。
自分の喉へ向ける。
リューリックは手を掴む。
「放せ!」
「できません」
「殺せ!」
「それもできません」
「なら、何ができる!」
「お話を伺います」
男の手から針を落とし、腕を背中へ回す。
商会の護衛が縄を掛けた。
「御者は!」
もう一人の護衛が叫ぶ。
逃げた御者は、森へ入ろうとして転んでいた。
足元へ、荷車から流れた血が続いている。
リューリックは、男たちより先に幌を開けた。
匂いが来る。
汗。
血。
薬。
吐瀉物。
中には、人が積まれていた。
寝台ではない。
床へ横たえられ、手首と足首を縄で結ばれている。
一人。
二人。
三人。
奥にもいる。
全員、意識が薄い。
最も手前の少女の脇腹から、血が出ていた。
「護衛殿」
リューリックが呼ぶ。
「はい」
「宿駅へ医師を。馬を一頭、先に走らせてください」
「承知しました」
「布と水も」
リューリックは、少女の傷へ手を当てた。
深い。
だが、まだ温かい。
「聞こえますか」
少女の瞼が僅かに動く。
「助けます」
返事はない。
「必ず」
今度は、自分へ言い聞かせた。
◇
一台目の幌を開けたテオは、声を失わなかった。
表情も、ほとんど変えなかった。
ただ、中を見た瞬間、指先だけが僅かに止まった。
七人ではない。
十一人。
身体を重ねられ、縄で繋がれている。
全員、汚れた患者着を着せられていた。
首には木札。
名前。
年齢。
症状。
だが、その名前は死者のものだった。
年齢も、本人とは合っていない。
「医師を」
テオが言う。
声から、普段の軽さが消えていた。
「全員を外へ。動かす前に呼吸と出血を見て」
宿駅の者たちが動く。
患者着の一人。
若い女の身体が震えていた。
寒さではない。
汗。
浅い呼吸。
指の痙攣。
薬が切れた時の症状。
テオは、その姿を知っている。
「この人は、最後に何を飲まされた」
捕らえた御者へ尋ねる。
「知らん」
「誰が薬を持っている」
「知らない」
「本当に?」
「知らないと言っている!」
テオは、男の前へ立った。
「僕は、知らない人間を責めるのは好きじゃない」
穏やかな声だった。
「でも、知らないまま人を運んだ者の責任が消えるとも思わない」
「俺は、運べと言われただけだ」
「断れなかった?」
男は黙る。
「知らなかった。仕方なかった」
テオは、ほんの少し首を傾けた。
「三つ揃うと高くつくと、今朝も話したばかりなんだ」
男の顔から強気が消えていく。
「薬箱は」
「三台目だ」
「鍵は」
「首に」
男の首へ掛けられた革紐。
テオが鍵を外す。
宿駅の医師へ渡した。
「薬箱を開けて。中身が本物なら使う」
「偽物なら」
「中身を調べる」
テオは、一台目の床へ残る車輪の軋みを聞いた。
人だけではない。
この車も重すぎる。
「床板も外して」
「いまですか」
商会員が尋ねる。
「人を降ろしてからでいい」
テオは、運び出される者たちを見る。
「順番は守る」
◇
二台目が宿駅へ戻った時には、共同食堂が臨時の治療所になっていた。
卓を端へ寄せ、毛布を敷く。
水。
包帯。
薬。
食堂の主人は何も言わず、鍋へ湯を沸かし続けていた。
リューリックは、負傷した少女を抱えて中へ入る。
「こちらへ!」
医師が呼ぶ。
少女を寝かせる。
傷へ当てていた布は、血で濡れていた。
「いつから」
「分かりません」
「脈は」
「弱いですが、あります」
「押さえて」
リューリックは、言われた場所へ手を置いた。
医師が傷を洗う。
少女の身体が跳ねる。
意識が戻った。
「痛い」
小さな声。
「はい」
リューリックは答えた。
「痛いと言って構いません」
「どこ」
「第二宿駅です」
「名前」
「リューリックと申します」
「違う」
少女は、首へ下げられた木札を見た。
「私の」
「お名前ですか」
「取られた」
息が震える。
「別の名前を、付けられた」
木札には、
ナタリア・ヴェルン。
十六歳。
発熱。
脚部裂傷。
東側救護所から西方療養所へ。
そう書かれている。
だが、本物のナタリアは東側の灰十字医療団にいる。
「あなたの本当のお名前を」
リューリックが尋ねる。
少女は唇を動かした。
「マイラ」
「マイラさん」
「忘れないで」
「はい」
「木の札じゃなくて」
「承知いたしました」
リューリックは、彼女の名を繰り返した。
「マイラさんです」
少女は、ほんの僅かに頷いた。
それから、再び意識を失った。
「大丈夫ですか」
リューリックが医師を見る。
「まだ分からない」
「助かりますか」
「助ける」
医師は傷から目を離さず答えた。
「だから、押さえろ」
「はい」
曖昧な慰めではない。
約束でもない。
それでも、いま必要な答えだった。
◇
患者たちの処置が始まってから、三台目の薬箱が開かれた。
上段には解熱薬、鎮痛薬、包帯、消毒用の酒が収められている。
本物だった。
その下の仕切り板を外す。
黒い樹脂。
青い二重線。
さらに底へ、布袋へ詰められた重い銀貨が並んでいる。
「患者と薬と麻薬と銀貨」
テオが言う。
「一台で運べば、ずいぶん効率がいい」
「褒めているのですか」
リューリックが戻ってくる。
袖へ血が付いている。
「皮肉だよ」
「マイラさんは」
「処置中です」
「痛い?」
「かなり」
テオは、少しだけリューリックを見る。
「君も?」
「手を噛まれました」
右手の甲へ、小さな歯形が付いている。
「それは、かなり痛そうだね」
「少しです」
「学習が戻っている」
「噛まれた程度ですので」
「記録係の方へ、どう書く?」
リューリックは返事を止めた。
「……痛みあり、と」
「よくできました」
「子どもではございません」
「噛まれたのは子どもに?」
「十六歳です」
「なら、ほぼ同じだね」
「何がでしょうか」
「僕には分からない」
テオは、銀貨袋を一つ開いた。
古い正規銀貨。
正しい重さ。
表面には、削り取られた跡がある。
「刻印を消すつもりだった」
「再鋳造用ですか」
「ああ。麻薬を売って、軽い銀貨を流し、正しい銀貨を集める。正しい銀貨は溶かして、別の形へ変える」
「どこで」
「それを、これから聞く」
捕らえた男たち。
帳面。
患者。
荷。
すべてから。
「ただし」
テオは、一台目から外した床板を見る。
「その前に、こちらだね」
床下から見つかったのは、銀貨ではなかった。
一人の男だった。
狭い空間へ押し込められ、両手を背中で縛られている。
髪は長く伸び、頬は痩せ、左耳の一部が欠けている。
胸は、まだ動いていた。
「生きています」
リューリックが膝をつく。
縄を切る。
男の首には、ほかの者と同じ木札が掛けられていた。
エリオ・バルト。
四十二歳。
慢性肺疾患。
海岸療養所から内陸収容院へ。
テオの動きが止まった。
「エリオ」
男の瞼が僅かに開く。
「聞こえる?」
「……誰だ」
「テオだ」
「知らん」
「そうだろうね。僕も君の顔は、記録でしか知らない」
テオは木札を見る。
「でも、エリオ・バルトという名は知っている」
男の目が、ゆっくりテオへ向く。
「その名前を」
掠れた声。
「どこで」
「ラグナ沖で消えた水夫。三年前、船団記録では死亡扱い」
男の呼吸が乱れる。
「死んでない」
「見れば分かるよ」
「俺は」
咳き込む。
血が混じる。
リューリックが、身体を起こしすぎないよう支えた。
「無理に話さないでください」
「話す」
「治療が先です」
「また、消される」
男は、テオの袖を掴んだ。
「俺の名前で、何人運んだ」
「少なくとも二度」
「違う」
「何が」
「十二回だ」
テオの表情が変わる。
「数えたのかい」
「帳場にいた」
「どこの」
「銀を溶かす場所だ」
リューリックとテオが目を合わせる。
「場所は」
リューリックが尋ねる。
「旧塩道」
男は息を切らしながら続ける。
「白石河が南東へ曲がるところ。昔の製塩倉だ。表は療養院。地下で銀を溶かしてる」
「麻薬は」
「働かせるためだ。逃げないように。寝ないように。壊れたら、患者として出す」
「どこへ出す」
「別の鉱山。娼館。船」
男の指に力が入る。
「名前は、死んだ奴から取る。生きてても、死んだことにする」
エリオ・バルト。
死者として扱われ、その名を使って別の人間が十二回運ばれた。
「今夜」
エリオは言う。
「全部、移す」
「何を」
「銀。帳面。人」
「どこへ」
「白石河港」
「ここからは」
テオが尋ねる。
「旧塩道を南東へ下った先だ。荷車なら半日。河を使えば、もっと早い」
「何時」
「日が沈む前」
時間がない。
テオは宿駅の窓から外を見る。
まだ昼前。
「三台は、そこへ向かう予定だった?」
エリオが頷く。
「早めた。西岸の港で、何か見つかったから」
テオが第七倉庫を押さえた。
海燕号を止めた。
相手は証拠も、人も、まとめて動かそうとしている。
「医師を」
リューリックが言う。
「彼を先に」
「ああ」
テオは、エリオの手から自分の袖を外さなかった。
「君の話は、あとで全部聞く」
「また、生きてたら?」
「違う」
テオの声は静かだった。
「生かす。そのあとで聞く」
エリオは、疲れたように目を閉じた。
◇
宿駅の医師と商会員が救出者の処置へ追われている間、テオとリューリックは三台の荷車を前に立っていた。
「患者は全員降ろしました」
商会員が報告する。
「薬も使えるものは治療所へ。麻薬と銀貨は封をしております」
「御者たちは」
「拘束済みです」
「逃げた者は」
「おりません」
テオは幌を見上げる。
三台。
ここまで届いた。
なら、予定どおり白石河港へ下っていく姿を見せる必要がある。
「荷車は進ませる」
テオが言った。
リューリックが、すぐに反応する。
「人は」
「乗せない」
「では」
「偽の患者を載せる。薬箱には重さを合わせた石。銀貨袋も同じだ」
「御者は」
「僕の商会員へ替える」
「途中で合図を求められた場合は」
「捕らえた者から聞く」
「同行者は」
「護衛二人。医療団の付き添い役が一人」
「足りません」
「なら、君も乗る?」
リューリックは黙った。
前日の会話。
患者役。
横になっていればよい。
演技の経験はない。
「患者役は、適性がないと申し上げました」
「昨日より顔色が悪い」
「血を見ましたので」
「肩にも傷がある」
「治りかけです」
「手には歯形」
「関係ございません」
「条件が揃ってきたね」
「嬉しくありません」
テオは、ほんの少し笑った。
「僕は付き添い役になる」
「テオ殿が?」
「ああ。荷の流れを見たい」
「危険です」
「君もいる」
「私が患者では、剣を抜けません」
「病人が突然剣を抜けば、相手も驚く」
「作戦へ驚きだけを求めないでください」
「有効だと思うけどね」
「私は思いません」
二人は、しばらく互いを見る。
「では」
リューリックは言った。
「荷車へ横たわります。ただし、剣は毛布の下へ」
「交渉成立だね」
「条件があります」
「何だい」
「テオ殿は、私より先に荷車から降りないでください」
「なぜ」
「危険な場所へ一人で入らないという約束です」
「君は患者役だよ」
「降りれば剣士です」
「便利だね」
「テオ殿も、流れを見るためだけに人の前へ出ないでください」
テオは、少しだけ考えた。
「分かった。約束する」
「本当に?」
「君まで聞くのかい」
「妹君と同じことを申し上げております」
「それは逃げにくい」
「では、守ってください」
「ああ」
三台の荷車。
偽の患者。
偽の薬。
偽の名。
その中へ、本物の剣士と商人が乗る。
「出発は」
リューリックが尋ねる。
「一刻後」
「白石河港まで」
「夕方には着く」
「移される前に」
「ああ」
テオは、エリオ・バルトの木札を手に取った。
死者の名で、生きた人間を運ぶ道。
北西のカラン方面から入り、オーランド北西部の河港へ下る道。
その終点へ。
今度は、帳簿を読む商人と、人を守る剣士が向かう。
「テオ殿」
「何だい」
「患者役は、何をすればよいのでしょうか」
「黙って寝ていて」
「それだけですか」
「時々、苦しそうにして」
「どの程度」
「自然に」
「基準が不明確です」
「記録係の方へ聞けばよかったね」
「今から戻る時間はございません」
「残念だ」
テオは毛布を一枚、リューリックへ渡した。
「とりあえず、痛いところを思い出せばいい」
リューリックは毛布を受け取る。
「いくつかございます」
「それなら適役だね」
「やはり、嬉しくありません」
荷車の幌が閉じられる。
光が細くなる。
車輪が動き出す。
白石河と並びながら、南東へ下る旧塩道。
死者の名を載せていた道を、生きている者たちが逆に辿り始めた。
──Another Side 了




