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第七十七部 帰ってきた者は、昔の名で呼ばれる話 ② 命令書に書かれた白枝という名

 セルノの件が一度区切られると、卓上へ昨夜見つかった命令書が置かれた。


ルーウェン・シルヴァスが現れた場合は、戦わず退け。

白枝へ帰還を伝えよ。


 紙を見た瞬間、食堂の空気が再び変わった。


 若い森人たちは、白枝という名を知らない。


 年長者の一部は、顔を強張らせている。


 サリエルがルーウェンを見る。


「説明しろ」


「何を」


「白枝についてだ」


「私の昔の名だ」


「それだけで終わらせる気か」


「できれば」


「できぬ」


 即答だった。


 ルーウェンは、卓の端へ立ったまま黙っている。


 レイラは、その横顔を見た。


 普段と変わらない。


 だが、左手の指が外套の端を僅かに握っている。


「九十七年前」


 サリエルが言う。


「南側の集落から、六人の若者が連れ去られた」


 食堂の中が静かになる。


「そのうち二人は子どもだった。森の外へ追跡隊を出したが、カランとの境に近い山間部で痕跡を失った」


「私が続きを追った」


 ルーウェンが答える。


「議会の許可を待たずに?」


「ああ」


「なぜ」


「待てなかった」


 セルノが顔を上げた。


 娘を助けるため。


 議会を待てず。


 森の道を開いた者。


 九十七年前、ルーウェンもまた、似た場所に立っていた。


「見つけたのですか」


 レイラが尋ねる。


 サリエルの許可を待たずに口を挟んでしまったが、誰も止めなかった。


「四人は」


 ルーウェンが答えた。


「残る二人は?」


「間に合わなかった」


 短い言葉だった。


「どこで」


「カランを越えた先だ。南東へ運ばれ、オーランド北部の河港から船へ載せられるところだった。一人は抵抗して殺された。もう一人は、船の中で病に罹った」


「帰れなかった?」


「ああ」


 ルーウェンの声は、いつもと変わらない。


 だからこそ、その二人をいまも覚えているのだと分かった。


「その後、私は森へ戻る予定だった」


 ルーウェンは続ける。


「予定?」


「捕らえられていたのは、森人だけではなかった。人間の子ども。借金のために売られた者。戦争で村を失った者。薬で歩けなくされた者」


 一つの河港。


 一隻の船。


 それだけではない。


 カランからオーランドへ下る道があり、倉庫があり、仲買人がいて、さらに海へ運ぶ者がいる。


「四人だけを連れて帰れば、ほかを置いていくことになる」


「だから、残ったのですか」


「ああ」


「どのくらい」


「最初は、一季節のつもりだった」


 ネリスが鼻で笑った。


「九十七年と四か月の季節とは、ずいぶん長いね」


「途中で事情が増えた」


「手紙は増えなかったけどね」


「それは」


 ルーウェンが言葉を止める。


 言い訳が見つからないらしい。


「白枝という名は」


 書記が尋ねる。


「誰が付けた」


「最初に助けた子どもだ」


「なぜ」


「私の名を、うまく発音できなかった」


 ルーウェンは少しだけ目を伏せた。


「森人だということを隠すため、白い枝を一つだけ荷車へ結んでいた。それを見て、白枝と呼んだ」


 白い枝。


 それがある荷車は、逃げる者を運ぶ。


 宿では、裏口を開ける。


 川では、小舟を一艘残す。


 倉庫では、空箱を一つ減らす。


 名も顔も違う者たちが、その印だけを頼りに、人を次の場所へ渡した。


「白枝は、一人の名前ではなかった」


 ルーウェンは言う。


「私が道を作り、別の者が荷車を出し、別の者が偽の通行札を書いた。助けた者が、次の者を助ける側へ回った」


「どの辺りまで広がっていたのですか」


 レイラが尋ねる。


「シルヴァス南東の山間部から、カラン西部の谷、オーランド北西部の河港までだ。そこから先は、河船と海運の協力者がいた」


 森の外へ伸びた道。


 北西から南東へ。


 人を攫う者が使った経路を、白枝たちは逆に辿り、逃げる者を大陸最西端の森や安全な土地へ戻していた。


「何人を」


「数えていない」


「なぜ」


「数えれば、助けられなかった者まで数字にしたくなる」


 その答えは正しいのか。


 レイラには分からなかった。


 だが、ルーウェンが助けた人数を誇ろうとしていないことだけは分かった。


「では、なぜ戻らなかった」


 ドルンが尋ねた。


「助ける仕事が終わらなかったから、だけではないだろう」


 ルーウェンは黙る。


「答えろ」


 サリエルの声にも、責める響きがあった。


「森は、お前を追放していない」


「ああ」


「帰還を拒んでもいない」


「知っている」


「なら、なぜだ」


 長い沈黙のあと。


 ルーウェンは、ようやく答えた。


「道を知られた」


 白枝が作った逃走路。


 シルヴァスからカラン西部を経て、オーランド北西部へ下る道。


 人を救うために使っていた道が、ある夜、逆に辿られた。


「森の外縁に近い隠れ小屋が襲われた」


 ルーウェンの声は静かだった。


「私が森へ戻す予定だった者たちと、迎えに出た森人がいた。追手は、白い枝の印を見つけていた」


「死者は」


「八人」


 レイラは息を止めた。


「そのあと、私は森へ帰れば、追手も森へ近づくと考えた」


「だから外に残った?」


「ああ」


「一度も帰らず?」


「痕跡を消すまでのつもりだった」


 だが、一つの商会を潰しても別の者が道を使う。


 一人の買い手を捕らえても、名を変えた仲買人が現れる。


 助けた者がいる一方で、手が届かなかった者もいる。


 いつしか、帰らないことが森を守るためなのか、帰れない自分への罰なのか、ルーウェン自身にも分からなくなった。


「三通の手紙は」


 ネリスが尋ねる。


「なぜ送った」


「生きていることだけは伝えるべきだと思った」


「魚が安い、と?」


「港にいることも伝わる」


「もっと書けただろう!」


 ネリスの声が食堂へ響いた。


 九十七年分の怒りだった。


「助けを求めてもよかった。道が知られたと伝えてもよかった。八人が死んだことも、帰れないと思ったことも!」


「書けば、森を巻き込む」


「もう巻き込まれていたよ!」


 ネリスは卓を叩いた。


「お前が外で何人助けようと、何人失おうと、森には何も届かなかった。私たちは、お前が勝手にいなくなり、たまに魚の値段だけ送ってくると思っていた!」


 ルーウェンは何も返さなかった。


「お前は森を守ったつもりかもしれない」


 サリエルが言う。


「だが、森から、お前を心配する権利まで奪った」


「……ああ」


「それが、お前の間違いだ」


 ルーウェンは静かに頷いた。


「分かっている」


 レイラは彼を見た。


「本当に?」


 ルーウェンの目が、こちらへ向く。


 いつも自分が言われてきた言葉。


「分かろうとしている」


 彼は答えた。


 その言葉を聞き、ネリスは怒った顔のまま椅子へ座った。



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