第七十六部 王女は、森へ頼む話 ③ 泥の補修路と、再び動いた石門
補修路の中は、泥と腐った木の匂いがした。
水は足首ほどまで減っている。
天井は低い。
ルーウェンとエルナは、身体を屈めながら進んだ。
前方から、声が聞こえる。
「油を運べ」
「月が上がる」
「指示が来なければ、火を付ける」
地下。
捕虜がいる場所。
その上で、敵が準備を進めている。
補修路の先には、木の格子があった。
古い。
だが、外側から太い鉄棒を渡されている。
ルーウェンが格子の隙間を覗く。
暗い地下室。
床へ九人が座らされている。
手を縛られ。
足も繋がれている。
その中に。
銀髪の若い女がいた。
右足へ布を巻いている。
フィア。
彼女は、格子の向こうへ人影があることへ気付いた。
声を出さない。
ただ、目を見開く。
ルーウェンは、人差し指を唇へ当てた。
次に、鉄棒を見る。
音を立てずに外すのは難しい。
上から、足音が近づく。
一人。
地下へ降りてくる。
油壺を持っている。
エルナが弓を構える。
射線が狭い。
ルーウェンは、格子の端へ短刀を差し込み、木枠をゆっくりと削った。
一度。
二度。
敵が階段を降りる。
「時間だ」
男が言う。
「最後に、水を飲みたい者はいるか」
誰も答えない。
「そうか」
油壺を床へ置く。
火打ち石を取り出す。
その瞬間。
格子の端が外れた。
ルーウェンが地下室へ滑り込む。
男が振り向くより早く。
手首。
喉。
膝。
三箇所を打つ。
火打ち石が落ちる。
油壺を、エルナが足で受け止めた。
割れない。
「静かに」
ルーウェンが男の身体を床へ下ろす。
フィアが、小さく息を吐いた。
「森から?」
「ああ」
「父は」
「来ている」
フィアは、顔を歪めた。
「来ないでって、言ったのに」
「聞かなかったらしい」
「馬鹿」
「本人へ言え」
「言う」
ルーウェンは、捕虜たちの縄を切り始めた。
だが。
上階で声が上がる。
「下が静かすぎる!」
気付かれた。
「エルナ」
「ああ」
弓を構える。
階段から降りてきた男へ、矢を放つ。
肩。
男が後ろへ倒れる。
上で怒号が響く。
「火を付けろ!」
油壺が、天井の隙間から投げ込まれた。
一つ。
二つ。
床へ落ちる。
一つは割れた。
油が広がる。
火の付いた布が、続いて落ちてくる。
「伏せろ!」
炎が床を走った。
捕虜たちが叫ぶ。
エルナが外套で火を叩くが、油火は消えない。
ルーウェンは補修路を見る。
迂回水路。
上流で開いた水門。
いまは、水車側の流れが止まっている。
「石を戻せ」
呟く。
だが、外へ声は届かない。
その時。
補修路の奥で、大きな音がした。
水。
石門が。
再び動いた。
◇
裂けた岩の根元。
ネリスとセルノは、地下から聞こえた鈍い音に気付いていた。
「始まった」
セルノが言う。
「まだ待ちな」
「火を使われたら」
「分かっている」
水門の石へ手を掛ける。
「戻すよ」
「いま戻せば、ルーウェンたちも流される」
「急に開くなと、記録にあった」
「では」
「少しずつだ」
二人で石を押し戻す。
水が、元の流れへ戻り始める。
ただし。
すべてではない。
補修路へも。
水車の下へも。
二つの流れへ分かれる。
地下室へ流れ込んだ水は、油火を押し流した。
炎が揺れ。
蒸気が上がり。
消えていく。
捕虜たちの足元へ水が広がる。
「立てる者から、補修路へ!」
ルーウェンが叫ぶ。
エルナが縄を切る。
捕虜を、一人ずつ穴へ送る。
フィアは立てない。
ルーウェンが背負った。
「重いか」
フィアが尋ねる。
「軽い」
「それは、それで腹が立つ」
「元気そうだな」
「痛い」
「どこが」
「足。腹。肩。それから」
彼女は、ルーウェンの背中へ額を預けた。
「父に、すごく腹が立ってる」
「それは本人へ言え」
「言う」
補修路を進む。
後方では、敵の足音が近づく。
エルナが最後尾で矢を放つ。
一人。
二人。
追ってくる。
ルーウェンはフィアを背負ったまま、短刀を投げた。
刃ではなく、柄が男の額へ当たる。
男が泥へ倒れる。
「殺さないの」
フィアが訊く。
「話を聞く」
「誰が」
「王女が」
「王女?」
「森へ来た」
「お菓子は?」
ルーウェンの足が、僅かに止まった。
「なぜ皆、それを訊く」
「王女だから」
「持っていない」
「王女なのに?」
「本人へ言え」
危険な逃走の最中。
それでも。
フィアは、ほんの少しだけ笑った。




