第七十六部 王女は、森へ頼む話 ① 一刻半の猶予と、声を聞いてもらう羽根
月が真上へ届くまで、残された時間は一刻半もなかった。
南根から逃げてきた少女は、外縁集落の治療小屋へ運ばれている。
年は、レイラより五つほど下に見えた。
銀髪は泥と汗で固まり、裸足の裏には深い傷がいくつもある。両手首には縄の跡が残り、身体には大人用の古い外套を巻いていた。
それでも。
意識はある。
フィアが生きていることも。
焼けた水車小屋に、ほかの森人たちが捕らえられていることも。
そして、月が真上へ来れば、全員殺されることも。
少女は、自分の口で伝えた。
「何人ですか」
サリエルが尋ねる。
少女は、薬草茶の椀を両手で抱えたまま答えた。
「九人」
「森人だけか」
「分からない。耳の丸い人もいた。でも、ずっと顔を隠されてたから」
「見張りは」
「小屋の中に四人。外に、たぶん三人。馬が五頭いた」
「武器は」
「剣と弓。それから、火を付ける油」
最後の言葉に、治療小屋の空気が硬くなる。
焼けた水車小屋。
火を付ける油。
中へ人を閉じ込めたまま、証拠ごと焼くつもりなのだろう。
「入口は一つか」
ルーウェンが尋ねる。
「表の扉は一つ。でも、水車の下に穴がある」
「水路か」
「狭くて、私は通れた。でも、大人は難しいと思う」
「なぜ、水路を知っていた」
少女は俯いた。
「フィアが教えてくれた」
セルノの身体が、わずかに動く。
「フィアが?」
「昔、あの水車小屋で遊んだことがあるって。水が少ない時なら、木の板を外して外へ出られるって」
「なぜ、フィアは来なかった」
セルノの声は掠れていた。
少女は、答えにくそうに彼を見る。
「私を先に行かせた」
「なぜだ」
「一人なら、見つかりにくいから。それに」
少女は、椀を握る指へ力を入れた。
「フィアは、足を怪我してる」
セルノが立ち上がった。
「行く」
「待て」
ガルムが肩を掴む。
「放せ」
「一人で行けば、見張りへ合図を送られる」
「娘が殺される!」
「お前が走り込めば、全員殺される!」
二人の声がぶつかる。
ネリスは、何も言わなかった。
ただ、フィアの木の鳥を握り、目を閉じている。
レイラは、寝台に横たわる少女を見る。
「お名前を伺ってもよいですか」
「ナディア」
「ナディアさん」
「さん、はいらない」
「では、ナディア」
レイラは、彼女の前へ膝をついた。
「水車小屋まで、どのくらい走りましたか」
「分からない。ずっと森だったから」
「上り坂は?」
「最初は下り。途中で川を渡って、そこから少し上った」
「川幅は」
「私が三人、横に寝られるくらい」
基準が独特だった。
それでも、レイラは頭の中で距離を考える。
「水車は、動いていましたか」
「動いてない。壊れてた」
「水は?」
「流れてた。でも、水車の横で二つに分かれてた」
「二つ?」
「一つは小屋の下。もう一つは、石の壁の向こう」
ルーウェンが顔を上げた。
サリエルと視線を交わす。
「迂回水路か」
「古い水車なら、あるだろう」
サリエルが答えた。
「水量が増えた時、車輪を守るための逃がし道だ」
「開閉は」
「場所による」
「記録を」
レイラが言った。
全員の視線が向く。
「二十三人の記録に、水路を預かっていた方がいました」
最初に読んだ名。
アレス・フェイン。
川辺の集落で生まれ、水路を守る仕事をしていた。
泳ぎは得意。
魚を捕るのは下手。
「アレスさんの記録に、昔の水路図はありませんか」
書記が眉を寄せる。
「個人記録の付録に、仕事の記録が残されている可能性はある」
「確認してください」
「王女」
ルーウェンが呼ぶ。
「お前は残る」
「分かっています」
「本当に?」
「約束しました」
レイラは、まっすぐ彼を見る。
「だから、ここでできることをします」
ルーウェンは、少しだけ黙った。
「なら、急げ」
「はい」
◇
二十三人の木札と記録は、客人の家へ置かれたままだった。
レイラと書記は、アレス・フェインの資料を探した。
一枚。
二枚。
家族記録。
水路の管理記録。
外へ出る者へ持たせた食料の一覧。
古い森道の修繕記録。
どれも必要な紙である。
だが、いま探しているものではない。
「水車小屋の名は」
書記が尋ねる。
ナディアは、正式な名を知らなかった。
焼けた水車小屋。
南根から半日。
川が二つに分かれる場所。
「地図はありませんか」
「森の道は変わる。紙の地図は、百年持たない」
「では、水路は」
「川は、森道ほどは変わらぬ」
書記は、アレスの記録束を裏返す。
最後に。
薄い木板が一枚、布の間から滑り落ちた。
刻まれているのは、川の流れだった。
南根。
細い支流。
古い橋。
水車。
車輪の横へ延びる迂回水路。
「これです」
レイラは、木板を卓へ置いた。
書記が油灯を近づける。
水車小屋の下。
太い水路。
その脇に、細い線がもう一本刻まれている。
「逃がし水路ではありませんね」
レイラが言う。
「古い歩道だ」
書記は、指で線を追った。
「水路の補修へ入るためのものだろう」
「ナディアが通った穴?」
「おそらく」
だが。
大人が通れないほど狭いと言っていた。
木板の記録では、人一人が立って歩ける幅がある。
「崩れたのでしょうか」
「あるいは、入口だけが塞がれている」
書記は、木板の端に刻まれた小さな印へ気付いた。
円。
その内側に、三本の横線。
「水門の印だ」
「開けば、どうなりますか」
「上流の水を、補修路へ逃がす」
「人がいるのに?」
「本来は、作業前に閉じる。だが、逆に使えば」
書記の顔が変わった。
「水車小屋の下へ流れる水を、止められる」
水が止まれば。
水車下の穴から、大人も入れる可能性がある。
さらに。
小屋へ火を付けられても、迂回した水を戻せば、火を消すことができるかもしれない。
「水門は、どこに」
木板の裏側へ、短い文章が刻まれていた。
白樺を三本越え、裂けた岩の根元。
水へ命じず、石へ頼め。
急に開けば、下にいる者が流される。
「水へ命じず」
レイラが読む。
「石へ頼む?」
「森人の言い方だ」
書記は答えた。
「水を直接止めるのではない。水門の石を動かし、流れを変える」
「ルーウェンと同じです」
森へ入った日。
彼は木へ命じなかった。
西の根を借りると言った。
道を借り。
通ったら返す。
森の力は、従わせるものではない。
頼み。
借り。
返すもの。
「この情報を、どう伝えますか」
ルーウェンたちは、すでに南根へ向けて出発している。
木笛では、複雑な内容を送れない。
追い付く使者を出せば、時間が掛かる。
レイラは、胸元の革袋へ触れた。
白い羽根。
「森へ、頼めますか」
書記が目を細める。
「白羽を使うつもりか」
「使えるのですか」
「知らぬ」
「知らない?」
「白羽は、王家が森へ命じるための物ではない。声を聞かせるための印だ」
「なら」
レイラは、羽根を取り出した。
「声を、聞いてもらいます」




