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第七十五部 二十三の名は、一人を捨てない話 Another Side:リューリック 痛いと言っていい場所の話

 灰十字医療団への襲撃から三日後。


 割れた窓は、新しい板で塞がれていた。


 矢の刺さった木壁にも補修材が打ち付けられ、床へ残っていた血は洗い流されている。


 それでも。


 襲撃がなかったことにはならない。


 夜になると物音へ目を覚ます患者がいた。


 食堂の入口を避ける子どももいる。


 外へ出る時、後ろを確認するようになった医療団員もいた。


 記録も同じだった。


 紙を直せば元へ戻るわけではない。


 破られた頁。


 血の染み。


 焦げた端。


 誰かが奪おうとした事実まで含めて、記録になる。


「そこを、もう少し右へ」


 エルゼが言った。


 リューリックは、木板を持ったまま右へ動かした。


「こちらでしょうか」


「行きすぎです」


「では」


「少し左へ」


 戻す。


「そこです」


「最初の位置と同じでは」


「違います」


「どの程度」


「指一本分です」


「必要でしょうか」


「帳面の棚です」


 エルゼは、当然のように答えた。


「傾けば、頁が傷みます」


「承知いたしました」


 リューリックは、壁へ新しい棚を固定した。


 剣を持つ手。


 鍵を開ける手。


 人を倒す手。


 いまは、棚を打ち付けている。


 役に立つなら、特に異論はない。


 ただし。


「少し高いですね」


 エルゼが言った。


 リューリックの手が止まる。


「先ほど、この位置と」


「帳面を載せると、上段へ届きません」


「では、下げます」


「お願いします」


 壁から外す。


 釘を抜く。


 下げる。


 再び固定する。


 近くで薬瓶を整理していたヴェロニカが、しばらく見ていたあと口を開いた。


「記録係」


「はい」


「最初から高さを測れ」


「測りました」


「誰に合わせた」


「リューリックさんです」


「届いて当然だろう」


 エルゼは、自分とリューリックの身長差を見た。


「失念していました」


「珍しいな」


「記録します」


「何を」


「棚の高さを決める際、使用者の身長を確認すること」


「人間関係まで記録で直そうとするな」


 ヴェロニカが呆れる。


 リューリックは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「笑いましたか」


 エルゼが尋ねる。


「いいえ」


「笑いました」


「記録しますか」


「必要であれば」


「不要でお願いいたします」


 襲撃のあと。


 初めて。


 救護所の中に、穏やかな笑いが戻っていた。



 ◇


 棚を直し終えたあと、エルゼは写しの作業へ戻った。


 右腕の傷は浅い。


 それでも、長く筆を持つと引きつれる。


 本人は問題ないと言う。


 ただし。


「休んでください」


 リューリックが言った。


「まだ三頁です」


「三頁書いたのでしょう」


「通常は十頁です」


「今日は通常ではありません」


「腕は動きます」


「痛みは」


 エルゼは黙った。


「エルゼさん」


「少しです」


「休んでください」


「命令ですか」


「お願いです」


 彼女は筆を置いた。


 以前より、少しだけ早く言うことを聞くようになった。


 その代わり。


「では、代わりに書いてください」


「私が?」


「前回も書きました」


「あれは持ち物の一覧です」


「今回は襲撃者の証言です」


「公的記録では」


「読める字でした」


「それは、褒められておりますか」


「事実です」


 褒め言葉ではないらしい。


 リューリックは、彼女の隣へ座った。


「どこからでしょうか」


「ここです」


 捕らえた襲撃者の一人が話した内容。


 依頼を受けた場所。


 受け取った銀貨。


 目的。


 指示。


 そして。


 彼らは、患者を殺すために来たのではなかった。


 薬を奪うためでもない。


 青い線の入った移送札。


 薬箱の荷札。


 納品記録。


 それらを回収することが目的だった。


「記録係を連行せよ、という命令について」


 リューリックが読み上げる。


「依頼主から、理由は説明されなかった。ただし、偽造した帳面を見抜ける者を残すな、と伝えられた」


 筆が止まる。


「エルゼさん」


「はい」


「いまの部分を、どのように」


「そのまま書いてください」


「偽造した帳面を見抜ける者を残すな」


「はい」


 リューリックは書いた。


 言葉にすれば。


 改めて重い。


 彼らは、記録そのものだけではなく。


 記録を読む人間を消そうとした。


「怖くありませんか」


 リューリックが尋ねる。


「怖いです」


 即答だった。


 以前なら。


 問題ありません、と言っていたかもしれない。


「それでも、残るのですか」


「はい」


「なぜ」


「記録する者がいなくなれば、偽造した者の記録だけが残ります」


「ですが」


「それに」


 エルゼは、リューリックが持つ筆を見る。


「いまは、一人ではありません」


 リューリックの指が、ほんの少し止まった。


「私が、記録係として数えられておりますか」


「字は読めます」


「そこからですか」


「まだ三頁目ですから」


「評価が厳しいですね」


「十頁書けば、再評価します」


「努力いたします」


 エルゼは、少しだけ笑った。



 ◇


 午後。


 ヴェロニカが、リューリックの肩の包帯を外した。


 弩の矢が掠めた傷。


 浅い。


 だが、腕を動かすたびに布が擦れる。


「腫れはない」


「はい」


「熱もない」


「はい」


「痛みは」


「少しです」


 ヴェロニカが手を止める。


「学習したな」


「指導がよかったのでしょう」


「私の?」


 ヴェロニカが尋ねる。


 リューリックは答えなかった。


 近くで帳面を整理していたエルゼが、こちらを見る。


 目が合う。


 彼女は、すぐに帳面へ戻った。


「なるほど」


 ヴェロニカが言った。


「何がでしょうか」


「薬が効いている」


「また、その表現ですか」


「よく効く」


「私は薬ではありません」


 エルゼが言う。


「本人が否定しているぞ」


「何を、私へ報告しているのですか」


「治療経過だ」


「それなら記録へ」


「やめてください」


 リューリックは、珍しく早く止めた。


 ヴェロニカが笑う。


「肩を出せ」


「すでに出しております」


「反対側もだ」


「なぜ」


「身体の動きを見る。上衣を脱げ」


 リューリックは、わずかに動きを止めた。


 患者がいる場所で、身体を見せること自体には慣れている。


 だが。


 エルゼが近くにいる。


「何だ」


「いえ」


 外套を脱ぐ。


 上衣を外す。


 肩。


 胸。


 背中。


 古い傷が、いくつも残っている。


 剣。


 矢。


 鞭。


 火傷。


 消えないもの。


 エルゼの筆が止まった。


 リューリックは、それへ気付いたが、何も言わなかった。


「腕を上げろ」


 ヴェロニカの指示へ従う。


「後ろへ」


 動かす。


「問題ないな」


「はい」


「服を着ろ」


「承知いたしました」


 上衣へ腕を通そうとする。


 だが、肩へ布が触れた瞬間、わずかに顔が動いた。


「痛みますか」


 エルゼが訊く。


「少し」


「手伝います」


「必要ございません」


「痛いのでしょう」


「一人で着られます」


「全部、一人で解決するつもりですね」


 何度目かの言葉だった。


 リューリックは、反論を諦めた。


「お願いいたします」


 エルゼが上衣の片側を持つ。


 傷へ触れないよう、ゆっくり袖を通す。


 距離が近い。


 彼女の髪が、リューリックの腕へ少し触れた。


 二人とも。


 同時に動きを止める。


「続けろ」


 ヴェロニカが言う。


「診察中だ」


「分かっております」


「では、なぜ止まった」


「布が」


 リューリックが答える。


「引っ掛かりました」


「どこに」


「……分かりません」


「ない、では記録できません」


 エルゼが小さく言う。


 自分で言ってから。


 少しだけ頬を赤くした。


 ヴェロニカは、笑いを堪えなかった。


「仲がよいのは結構だが、患者が待っている」


「違います」


 リューリックとエルゼが、同時に答える。


「息も合っているな」


「合っておりません」


 また同時だった。


 ヴェロニカは、さらに笑った。



 ◇


 日が傾く頃。


 西側の街道から、一台の小さな荷車が救護所へ到着した。


 御者は、黒い外套の男ではない。


 年配の商会員だった。


 灰色の髪。


 革の帽子。


 胸元には、波と三枚帆を組み合わせた商会印がある。


「灰十字医療団の記録係へ」


 男は、油紙に包んだ文書を差し出した。


 ヴェロニカが先に受け取る。


「誰からだ」


「セオドール・グラント会長です」


 リューリックの目が、わずかに動く。


「テオ殿から?」


「お知り合いですか」


 商会員が尋ねる。


「ブリエンで、少し」


「でしたら、話が早い」


 油紙を開く。


 中には、三枚の写しが入っていた。


 青い二重線が引かれた薬箱の荷札。


 海燕号の寄港記録。


 偽造された灰十字医療団の移送札。


 エルゼの顔から、表情が消える。


「私たちの形式です」


「本物ですか」


 リューリックが尋ねる。


「いいえ」


 彼女は、偽の移送札を光へ透かした。


「紙が違います。記入欄の間隔も、わずかに狭い。ですが」


「知らない者には、見分けられない?」


「はい」


 商会員は、テオからの手紙も差し出した。


 文章は短い。


港側で、青い二重線と偽造移送札を確認。

軽い銀貨、正規銀貨の回収、麻薬原料、死者名義が同一流通網で動いている可能性あり。

灰十字医療団側の記録と照合したい。

西から東へ向かう。第二宿駅で待つ。


帳簿を預けるには向かない剣士へ。

人は預けられるので、できれば来てほしい。


テオ。


 リューリックは、最後の二行を二度読んだ。


「褒められておりますか」


 エルゼが尋ねる。


「半分ほどでしょうか」


「残りは」


「帳簿を預けられないと言われております」


「正確な評価ですね」


「エルゼさんまで」


 商会員が、少し笑った。


「会長は、かなり高く評価しておりましたよ」


「どの辺りを」


「人を預けても、自分より先に逃げないところを」


 リューリックは黙った。


 褒め言葉のはずだ。


 だが。


 それは、自分が逃げないことを前提にしている。


「それは、高い評価でしょうか」


「商人にとって、人を預けるのは帳簿を預けるより重いそうです」


 テオらしい。


 リューリックは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「会長は、いつこちらへ」


「三日後には、第二宿駅へ到着します」


 第二宿駅。


 救護所から、西へ一日半。


 港と鉱山街道の中間にある。


 そこへ行けば。


 海側と陸側の記録を重ねられる。


 青い二重線。


 軽い銀貨。


 偽造移送札。


 麻薬。


 死者の名前。


 進むべき道は、明確だった。


「行くのですね」


 エルゼが言った。


 問いではなかった。


「はい」


 リューリックは答えた。


 約束どおり。


 先に伝える。


「明朝、出発いたします」


「そうですか」


 エルゼは、写しへ視線を落とした。


「私は残ります」


「はい」


「患者と、医療団の記録があります」


「承知しております」


「一緒には行けません」


「分かっております」


 正しい。


 すべて。


 分かっている。


 それでも。


 二人の間へ、短い沈黙が落ちた。



 ◇


 その夜。


 エルゼは、リューリックの旅装へ入れる写しを作った。


 青い線。


 移送札。


 襲撃者の証言。


 支払われた重い銀貨。


 海鳥の印。


 港から届いた偽造書類。


 一枚ずつ。


 丁寧に。


 右腕が痛むはずだった。


「私が書きます」


「これは、私が書きます」


「ですが」


「渡す記録です」


「はい」


「私が、あなたへ」


 エルゼの筆が止まる。


 言い直す。


「私が作成した記録として、渡します」


「承知いたしました」


 リューリックは、それ以上止めなかった。


 代わりに、彼女の裂けた袖へ目を向ける。


 襲撃の時に傷付いた布。


 応急で縫われているが、糸が少し緩んでいる。


「袖を」


「何ですか」


「直します」


「リューリックさんが?」


「野営では、衣服も修繕いたします」


「字よりは得意ですか」


「おそらく」


「では、お願いします」


 エルゼが外套を脱ぎ、裂けた袖を差し出す。


 腕から外す必要はない。


 袖口を少し捲り、布だけを重ねる。


 それでも距離は近かった。


 リューリックは、糸を通す。


 一針。


 二針。


 三針。


 戦場で外套を縫う時より、なぜか緊張する。


「力が入っています」


 エルゼが言う。


「ほどけないように」


「布が寄っています」


「申し訳ありません」


「罠を解除する時も、その顔ですか」


「見たことが?」


「いま、見ています」


 エルゼは、ほんの少し笑った。


「修繕係としては、まだ三頁目ですね」


「評価基準が、同じなのですか」


「十回縫えば、再評価します」


「袖を十回裂かないでください」


「努力します」


「約束してください」


 二人は、同時に言葉を止めた。


 これまで。


 何度も交わした言葉。


 努力ではなく。


 約束。


「約束します」


 エルゼが言った。


「ですから」


 視線を上げる。


「リューリックさんも、戻ってください」


「はい」


「努力ではなく」


「約束いたします」


「本当に?」


「はい」


 リューリックは、縫い終えた糸を切った。


 少し歪んでいる。


 だが、ほどけない。


「それから」


 エルゼは続けた。


「戻った時に、聞きます」


「何をでしょうか」


「襲撃の時」


 声が少しだけ小さくなる。


「なぜ、私の名前を呼んだのか」


 リューリックの手が止まった。


「呼ぶ必要がありましたので」


「エルゼさん、ではありませんでした」


「緊急時でした」


「では、なぜ敬称が落ちたのですか」


「それは」


 答えが出ない。


 考える前に。


 声が出た。


 身体が動いた。


 理由は。


 分からないのではない。


 言葉へすることを。


 まだ避けている。


「戻った時に」


 リューリックは答えた。


「お話しいたします」


「本当に?」


「はい」


「では、空欄にしておきます」


 エルゼは、新しい頁を開いた。


 細い文字で書く。


リューリック。

海運側記録との照合のため、西方第二宿駅へ出立。

帰還予定――


 そこで筆を止める。


「未定です」


「不完全な記録ですね」


「戻った時に、本人へ書いていただきます」


「承知いたしました」


 リューリックは、その余白を見た。


 帰還予定。


 空欄。


 埋めなければならない場所がある。


 それは。


 戻る理由として、十分だった。



 ◇


 翌朝。


 救護所の前には、宿駅へ向かう商人の荷車が止まっていた。


 護衛は二人。


 ヴェロニカが手配した。


「一人で行かない」


「はい」


「途中で怪しい荷車を見つけても、勝手に追わない」


「はい」


「困っている者を見つけても、全部抱えるな」


「努力いたします」


「守れ」


「……承知いたしました」


 ヴェロニカは、深く息を吐いた。


「エルゼ」


「はい」


「この男の返事は信用できるか」


 エルゼは、少しだけ考える。


「半分ほど」


「低いな」


「以前よりは高いです」


「成長しているのか?」


「記録上は」


 リューリックは、何も言えなかった。


 エルゼは、油紙に包んだ写しを差し出す。


「濡らさないでください」


「はい」


「失くさないでください」


「はい」


「必要のない方へ渡さないでください」


「承知しております」


「痛い時は」


「痛いと言います」


 エルゼの表情が、ほんの少し和らぐ。


「誰へ?」


「その場にいる方へ」


「いなければ」


「記録へ残します」


「それでよいです」


 リューリックは、油紙の包みを胸元へ収めた。


「エルゼさん」


「はい」


「いつでも、お読みください」


「何を」


「私が戻りましたら」


 一度、言葉を選ぶ。


「理由も、記録も。隠さずに」


 エルゼは、すぐには答えなかった。


 それから。


 小さく頷く。


「では、戻ってください」


「はい」


 荷車が動き出す。


 車輪が土を噛む。


 リューリックは、荷台へ乗る前に一度だけ振り返った。


 エルゼは、救護所の前に立っている。


 右腕には帳面。


 袖には。


 リューリックが縫った、少し歪んだ縫い目。


 隠していない。


 そのことが。


 なぜか、ありがたかった。


 荷車が西へ進み始める。


 エルゼの姿が、小さくなる。


 やがて。


 救護所も、見えなくなった。



 ◇


 昼前。


 最初の宿駅で馬へ水を飲ませていると、駅番の少年が荷車へ近づいてきた。


「剣士さん」


「私でしょうか」


「ほかに剣を持った人はいないよ」


 護衛も持っている。


 だが、少年は気にしていないらしい。


「西から来た商会の一団が、あなたを探していた」


「名前を?」


「リューリック。丁寧に話す。帳簿は向いていないって」


 かなり限定されている。


「誰が」


「黒い外套の若い会長」


「名は」


「セオドール・グラント」


 予定より早い。


 テオは。


 すでに第二宿駅を越えて、こちらへ向かっている。


「どちらへ」


 少年が西の街道を指した。


「一刻前に出たよ。灰十字の救護所へ行くって」


 すれ違った。


 リューリックが西へ。


 テオが東へ。


 同じ街道を。


 互いに相手を探しながら。


「追いますか」


 護衛が尋ねる。


 リューリックは、すぐには答えなかった。


 一人で走れば。


 追いつけるかもしれない。


 だが。


 一人で行かない。


 勝手に追わない。


 約束した。


「いいえ」


 リューリックは答えた。


「ここで待ちます」


「よいのですか」


「彼も、私がいないと分かれば戻るでしょう」


「信用しているのですね」


「帳簿を預けるには、向いております」


「剣士さんより?」


「おそらく」


 宿駅の少年が笑った。


 リューリックも、ほんの少しだけ口元を緩める。


 その時。


 西の街道から。


 荷馬の音が聞こえた。


 一頭。


 二頭。


 三頭。


 黒い外套。


 装飾の少ない長靴。


 先頭の若い男が、リューリックを見る。


 少しだけ目を細めた。


「やはり」


 テオが言った。


「待っていたね」


「テオ殿こそ」


 リューリックは一礼した。


「戻られると思っておりました」


「僕を信用していた?」


「帳簿を預けるには」


「向いている?」


「はい」


 テオは、ほんの少し笑った。


「君には、人を預けられる」


「過分でございます」


「やはり恐縮したね」


 二人の間に。


 海運側の帳簿。


 陸側の記録。


 青い二重線。


 軽い銀貨。


 偽造移送札。


 死者の名。


 別々に追ってきたものが。


 ようやく。


 同じ卓へ載る。



 ──Another Side 了


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