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第七十五部 二十三の名は、一人を捨てない話 ② 十七人目の木笛と、助けに行ってくださいという願い

 十七人目を読み終えた頃、窓の外で木笛が鳴った。


 一度。


 短く。


 少し間を置いて、二度。


 ネリスが立ち上がる。


「何の合図ですか」


「箱が動いた」


 受け渡し場所へ置かれた箱を、誰かが取った。


 ルーウェンたちは追跡を始めた。


 レイラも立ち上がろうとする。


「座っていな」


「ですが」


「約束しただろう」


「ここで待つと」


「そうだよ」


「何か手伝えることは」


「名前を読む」


「いまも?」


「いまだからだ」


 ネリスは、次の木札をレイラの前へ置く。


「誰か一人を助けるために、森全体を危険へ晒した者がいる」


 声は震えていない。


 けれど、薬草を握る手には力が入っていた。


「その者を責める前に、森が過去に何をしたのか読んでおきな」


「二十三人を、見捨てたこと?」


「森は、見捨てられた側だよ」


「はい」


「けれど、その痛みを知りながら、いま一人を切り捨てれば」


 ネリスは、窓の外を見る。


「森も同じになる」


 フィア一人。


 森全体。


 簡単には比べられない。


 それでも。


 一人は、数字の一ではない。


 名があり。


 好きなものがあり。


 誰かへ作ってもらった木の鳥がある。


「読みます」


 レイラは、十八枚目の札を手に取った。


 その時。


 扉が叩かれた。


 三度。


 森人の合図ではない。


 ネリスの表情が変わる。


「誰だい」


 返事はない。


 レイラは、胸元の革袋へ手を置いた。


 白い羽根。


 武器にはならない。


 守ってもくれない。


 それでも、なぜか確かめずにはいられなかった。


 ネリスは、壁へ立て掛けてあった杖を取る。見た目はただの木杖だが、先端には細い刃が仕込まれていた。


「奥へ」


「私も」


「奥へ行きな」


「ですが」


「王女様」


 低い声だった。


「いまは、言うことを聞きな」


 レイラは反論を飲み込み、木札を抱えて部屋の奥へ下がった。


 ネリスが扉の横へ立つ。


「入るよ」


 外から男の声がした。


 聞き覚えはない。


 扉がゆっくり開く。


 入ってきたのは、四十歳ほどの森人だった。


 暗い緑の外套。


 銀髪。


 頬には古い傷。


 腰へ短剣を下げている。


 レイラは、集落で一度だけ見たことがあった。


 水路の横で、木材を運んでいた男。


「セルノ」


 ネリスが名を呼んだ。


「ここへ来る許可は」


「ない」


「では、出ていきな」


「その前に」


 セルノの目が、レイラへ向く。


「王女と話したい」


「話すことはない」


「フィアのことだ」


 ネリスの杖が、わずかに下がる。


「何を知っている」


「俺が道を開けた」


 部屋の音が消えた。


 油灯の火だけが揺れる。


 ネリスは、すぐには動かなかった。


「もう一度、言いな」


「根道を開けたのは、俺だ」


「なぜ」


 分かっている。


 それでも、訊かずにはいられない。


「フィアを返すと言われた」


「誰に」


「顔は見ていない。手紙だけだ」


「なぜ、私へ言わなかった」


「言えば、止めただろう」


「当たり前だ!」


 ネリスの杖が床を打つ。


「森へ帝国の者を入れたのかい! 子どもへ矢が飛んだ! 王女が撃たれかけた! それで、フィアが戻ると思ったのか!」


「思っていない」


「では!」


「思いたかったんだ!」


 セルノの声が、ネリスより大きくなった。


 拳が震えている。


「一年だ。あの子が連れていかれてから、一年だ。助けに行くと言って、誰も場所を見つけられなかった。南の道を探す。交易商を調べる。カラン側の荷を追う。全部、待てと言われた」


「だから森を売ったのか」


「俺の娘だ」


 レイラは、息を止めた。


 フィア。


 セルノの娘。


 ネリスの姉の孫。


「ほかの子どもなら、待てたのですか」


 レイラが尋ねた。


 セルノの目が向く。


「何だと」


「フィアさんではなく、別の方の娘なら。一年待てと言えましたか」


「王女に何が分かる」


「分かりません」


「なら、黙っていろ!」


「分からないから、訊いています」


 レイラは、抱えていた木札を卓へ戻した。


「あなたが一人を救いたいことは、分かります。私にも兄がいます。生きているかどうか、分かりません」


「同じにするな」


「同じではありません」


 レイラは認めた。


「私は、兄を救うために森へ敵を入れていません。だから、あなたの苦しみを分かったとは言えません」


「なら」


「ですが」


 逃げずに続ける。


「フィアさんを救うために、別の誰かが死んでもよいと思ったのですか」


 セルノは答えない。


「外で、少女へ矢が飛びました」


「聞いた」


「私が庇わなければ、当たっていたかもしれません」


「俺は、矢を射ろとは言っていない」


「道だけを開けた?」


「ああ」


「王国側が道を閉じた時も」


 セルノの顔が変わる。


「門を閉じただけだったのかもしれません」


 二十三人を殺せと命じた者はいない。


 ただ、追手を止めるために石門を閉じた。


 戻っていない者がいると知りながら。


「したことは、小さく見えるのでしょう」


 レイラは言った。


「道を開けただけ。門を閉じただけ。ですが、その先で誰が死ぬのかは、命じた者には選べません」


「俺を裁きたいのか」


「いいえ」


「では、許すと?」


「それも違います」


「なら、何をしに来た」


「来たのは、あなたです」


 セルノが、一瞬だけ言葉を失う。


 レイラは、少しだけ呼吸を整えた。


「なぜ、ここへ来たのですか」


 受け渡しは始まっている。


 箱を取った者を、ルーウェンたちが追っている。


 セルノが内通者なら。


 本来、箱を取りに行く側にいるはずだった。


「受け渡しの指示が変わった」


 セルノが答えた。


「いつ」


「夕方だ。根道へ、新しい紙があった」


「何と」


 男は、外套の内側から折り畳んだ紙を出した。


 ネリスが奪うように受け取り、開く。


 そこには、短い文章だけが書かれていた。


箱は不要。

白羽を持つ娘を、南根の出口へ。

連れてくれば、フィアを返す。


 ネリスの顔が、怒りで歪む。


「最初から、そのつもりだったのかい」


「分からない」


「分からない?」


「俺は、王女を連れていくつもりで来た」


 セルノは、レイラをまっすぐ見た。


 短剣へ手は掛けていない。


 だが。


 その目には、まだ迷いが残っている。


「では、なぜ話したのですか」


 レイラが尋ねる。


「お前が」


 セルノの声が掠れた。


「子どもを庇ったと聞いた」


「それで?」


「娘を助けるために、お前を連れていく」


 苦い笑いを浮かべる。


「それをしたら、俺は何を助けたことになる」


 レイラは答えなかった。


 答えは、セルノ自身が知っている。


 だから。


 ここへ来た。


 連れ去るためではなく。


 告白するために。


「フィアさんの居場所は」


「南根の出口から半日。森を出た先に、焼けた水車小屋がある」


「本当に、そこへ?」


「二日前、声を聞いた」


 ネリスが一歩近づく。


「声?」


「根道の向こうで、聞かされた。姿は見ていない。だが、あの子の声だった」


「何と言った」


 セルノは、顔を歪めた。


「父さん、来ないで、と」


 ネリスが目を閉じる。


 娘は。


 助けを求めなかった。


 来ないで。


 罠だと。


 父へ伝えようとした。


 それでも父は、道を開けた。


「馬鹿だろう」


 セルノが言った。


「分かっている。あの子が止めたのに、俺は信じたいものだけを信じた」


「はい」


 レイラが答える。


 ネリスが驚いたように彼女を見る。


 セルノも。


「否定しないのか」


「しません」


「慰めもしない?」


「いま必要ですか」


 セルノは、しばらくレイラを見たあと、ほんのわずかに笑った。


「王女というのは、もっと優しい嘘を吐くものだと思っていた」


「私も、以前はそうしていたかもしれません」


 レイラは、二十三枚の木札を見る。


「ですが、知らなかったと言って許されるとは、今日、思えなくなりました」


 セルノは、腰の短剣を外した。


 床へ置く。


 次に、根道を開けるための木札を出した。


 葉を二枚重ねた印。


 それも床へ置く。


「俺を議会へ渡せ」


「フィアさんを助けたあとです」


 ネリスが言った。


 セルノが顔を上げる。


「許すのか」


「許すわけがないだろう」


 ネリスの声は震えていた。


「だが、フィアが帰ってきた時、父親が牢へ入る理由を本人へ説明させる」


「生きていれば」


「生きている!」


 杖が、再び床を打つ。


「生きていると言いな!」


 セルノの唇が動く。


 だが、声にならない。


 代わりに。


 レイラが言った。


「生きています」


 証拠はない。


 それでも。


 いまだけは。


 そう言う必要があると思った。


「フィアさんは生きています。だから、迎えに行きましょう」


「王女が決めるのか」


「いいえ」


 レイラは、白い羽根へ触れた。


「お願いします」


 命令ではなく。


 願う。


「森の皆さんで、助けに行ってください」



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