第七十五部 二十三の名は、一人を捨てない話 ① 白い樺の下で待つ夜と、二十三枚の木札
夜の受け渡しが行われるまで、レイラには待つことしか許されなかった。
白い樺の根元へ、フィアの銀髪と木の鳥が入った箱を置く。
誰かが取りに来ても、すぐには捕らえない。
その者が次にどこへ向かうのかを追い、人質を置いている場所まで辿る。
ルーウェン。
ガルム。
エルナ。
三人が追跡へ出る。
ドルンは円堂と外縁の間に残り、道を閉じる役目を担う。
ネリスは行くと言い張ったが、サリエルに止められた。
「フィアの顔を見れば、追跡より先に飛び出すだろう」
「当たり前だよ」
「だから残れ」
「それでも、あの子を見捨てろというのかい」
「誰も言っていない」
サリエルは、白い髪を揺らしもせず答えた。
「見つけるために残れと言っている」
ネリスは納得しなかった。
それでも、最後には薬草籠を床へ強く置き、客人の家へ向かった。
「王女様」
呼び方に、かなり棘があった。
「はい」
「お前も来な」
「どこへですか」
「待つ場所だよ」
「待つだけなら、一人でも」
「黙って来な」
レイラは、ルーウェンを見る。
彼はすでに弓と短刀を確認していた。
「行ってください」
レイラが言う。
「ああ」
「気を付けて」
「ああ」
「必ず戻ってください」
ルーウェンの手が止まる。
「約束を求めているのか」
「はい」
「相手が何人いるか分からない」
「それでも」
「できない約束はしない」
レイラは、少しだけ眉を寄せた。
「では、努力してください」
「それならできる」
「それでは、足りません」
「先ほど、お前も努力すると言っていた」
「私は、森議会の命令へ従う努力です」
「同じだ」
「違います」
近くで準備していたエルナが、小さく息を吐いた。
「出発前に、あと半刻ほど続けますか」
「続けません」
レイラとルーウェンが、同時に答える。
エルナは、ほんの少しだけ笑った。
「息は合っていますね」
「合っていません」
また同時だった。
ルーウェンは、それ以上何も言わず、森の暗がりへ入っていった。
レイラは、三人の姿が見えなくなったあとも、しばらく道を見ていた。
「行くよ」
ネリスに袖を引かれる。
「本当に待つだけですか」
「森には、待ちながらできることもある」
「何をするのですか」
「名前を読む」
◇
外縁集落の北側。
白い布を掛けられていた二十三枚の木札は、客人の家へ運ばれていた。
森議会の決定により、レイラが読むことを認められたのだという。
ただし。
置かれていたのは、二十三の名前だけではなかった。
生まれた年。
家族。
役目。
好きだった食べ物。
苦手だった仕事。
森を出た時の年齢。
最後に確認された場所。
一人ずつの記録が、薄い木板と古い紙へ残されている。
レイラは、最初の札を手に取った。
「アレス・フェイン」
声に出す。
二十九歳。
川辺の集落で生まれ、水路を守る仕事をしていた。
泳ぎは得意。
魚を捕るのは下手。
酸味の強い木苺を好み、甘い菓子を嫌った。
妻と、一人の娘。
「英雄の記録ではないのですね」
レイラが言うと、ネリスは薬草を刻みながら答えた。
「英雄だったから残しているんじゃないよ」
「では」
「生きていたから残している」
短い言葉だった。
それ以上、何も必要なかった。
二枚目。
「ティナ・ロウェル」
二十二歳。
薬草採取。
高所が苦手。
鳥の声を聞き分けるのが得意。
子どもへ薬を飲ませる時だけ、甘い蜜を多く使う。
三枚目。
「ファルド・イーレン」
三十一歳。
狩人。
弓より罠を好む。
大酒飲み。
歌が下手。
酔うと同じ歌を三度繰り返す。
「ずいぶん、細かく残すのですね」
「忘れられたくないものほど、細かいからね」
「命日と功績だけでは、足りない?」
「それだけでは、立派な死人になってしまう」
ネリスは、刻んだ薬草を布へ広げた。
「死人になる前は、皆、面倒な生き物だったんだよ」
四枚目。
五枚目。
六枚目。
レイラは、一人ずつ名前を読んだ。
字だけを追わない。
声にする。
その者が確かにいたことを、部屋の中へ戻すように。
十枚目を越えた頃には、外は完全に暗くなっていた。
油灯が二つ。
窓の向こうでは、森の枝が月明かりを細かく割っている。
「疲れたかい」
ネリスが尋ねる。
「少し」
「休む?」
「もう一人だけ」
「その一人が、二十三人続くんだよ」
「では、二十三人続けます」
「無理をするところが、王家らしいね」
「褒めていますか」
「半分は」
「残りは」
「馬鹿だと思っている」
レイラは、少しだけ笑った。
「それも、よく言われます」
「兄に?」
「はい」
「生きているのかい」
突然の問いだった。
レイラの指が、木札の上で止まる。
「分かりません」
「そうかい」
ネリスは、それ以上訊かなかった。
レイラも、兄の話を続けなかった。
分からない。
それは、いないという意味ではない。
帰らない。
それは、死んだという意味ではない。
フィアも。
兄も。
いまは、まだ。
名前を閉じる時ではない。
「次を」
レイラが言った。
ネリスが一枚を差し出す。
「ミレア・セイン」
ドルンの母。
三十八歳。
南側の薬草畑を預かり、森の外へ出る者の傷薬を作っていた。
縄を結ぶのが苦手。
火を起こすのも遅い。
怒ると誰より声が大きい。
ただし、泣く時は一人になる。
夫を早くに亡くし、息子を一人で育てた。
リュカリオンが崩れ始めた時、森の案内役として外へ出た。
最後に確認された場所。
隠し道の東口。
王国側が石門を閉じたあと、帰還せず。
レイラは、文章を読み終えたあとも、しばらく札を置けなかった。
ドルンの母。
火傷を負った息子を残した女。
王国の者たちを逃がすため、森の外へ出た。
「ミレアさんは」
レイラが言う。
「なぜ、王国の人たちを助けたのですか」
「困っていたからだよ」
「それだけ?」
「それ以上、必要かい」
レイラは答えられない。
王国から何かを受け取ったわけでもない。
忠誠を誓っていたわけでもない。
王家から命じられたわけでもない。
ただ。
困っている人がいた。
だから出た。
「王国側は、戻っていないと知りながら道を閉じた」
「そう記録されている」
「ミレアさんは、怒ったでしょうか」
「本人へ訊きな」
「できません」
「だから、勝手に立派な人へするんじゃないよ」
ネリスの声は厳しかった。
「怖かったかもしれない。逃げたかったかもしれない。王国の奴らを呪ったかもしれない。それでも、戻らなかった」
「戻れなかった」
「そうだね」
「違いはありますか」
「大きいよ」
ネリスは、ミレアの札を指で軽く叩いた。
「戻らなかった、と書けば、本人が選んだように見える。戻れなかった、と書けば、帰りたかったことが残る」
レイラは、もう一度札を見た。
記録の一行。
帰還せず。
その文字だけでは、帰りたかったことまで分からない。
「書き直してよいですか」
「何を」
「最後の部分を」
「お前が?」
「はい」
「誰の許可で」
レイラは、言葉を止めた。
王女として。
王家の責任として。
正したいと思った。
だが。
それは、自分が決めてよいことなのか。
「ドルンさんへ、訊きます」
「それがいい」
「本人が望まなければ」
「そのままだ」
「間違っていても?」
「記録は、正しい言葉だけでできているわけじゃない。残された者が、どの言葉なら読めるかもある」
難しかった。
けれど。
難しいまま残してよいこともある。
すぐに正解へ直すことが、正しいとは限らない。
レイラは、ミレアの札を両手で持ち、静かに言った。
「覚えます」
「何を」
「帰りたかったかもしれないことも」
ネリスは、しばらく黙っていた。
「それなら、覚えておきな」




