第七十四部 森は、裏切り者の名を急がない話 Another Side:テオ 船は、帳簿より正直な話
大陸西部。
グランデル帝国から見れば、西南西に当たる。
北東側にはヴェスタリア共和国、東側にはリヴェン伯国、さらに海を挟んだ南東にはレヴォナ自由都市同盟がある。その複数の国々と商業的に結ばれながら、大陸西端で海へ面しているのが、オーランド民主連合国だった。
広大な領土はない。
帝国のような大軍も持たない。
山から豊富な鉱物が採れるわけでも、肥沃な平原がどこまでも続くわけでもない。
いわゆる、大陸にひしめく多数の平凡な国の一つだった。
それでも、オーランドの名は、大陸のどこにいても商人たちの会話へ上がる。
理由は、海だった。
西岸へ入った船から荷が降りる。降ろされた荷は、陸路を通じて東側のリヴェン伯国や、海路と沿岸航路を通じてレヴォナ自由都市同盟方面へ運ばれ、そこから複数の国境を越えて大陸中央部へ流れていく。
塩、穀物、香辛料、薬草、染料、葡萄酒、鉄、銀。
そして、ときには、人。
表へ出せない荷まで含め、多くのものがこの国を通る。
船が入れば、荷が降りる。
荷が降りれば、商人が集まる。
商人が集まれば、金が動く。
金が動けば、議員も動く。
オーランド民主連合国は、名の通り、表向きは自由と議会政治を掲げていた。
王はいない。
辺境伯もいない。
複数の都市と商業団体から選ばれた議員が集まり、国の方針を決める。
少なくとも、建前はそうだった。
実際には、大きな船団と倉庫を持つ商人が議員へ金を渡し、都合のよい法律を作らせることもある。荷札を一枚書き換えるだけで、禁じられた荷が薬草へ変わる。港役人の帳面から数字を一つ消せば、昨夜入港したはずの船が、最初から存在しなかったことにもできる。
自由な商業国家。
そう呼べば、聞こえはよい。
だが、自由という言葉は、ときに責任を隠すためにも使われる。
その国の西岸最大の港には、朝から潮と油と香辛料の匂いが満ちていた。
荷揚げ用の滑車が軋み、石造りの岸壁では荷運び人たちが声を掛け合っている。穀物袋、塩樽、乾燥魚、薬草、染料、葡萄酒。船から陸へ、陸から倉庫へ、倉庫から街道へ、絶えず何かが運ばれていた。
その流れの中を、テオは一人で歩いている。
黒い外套。
革手袋。
装飾の少ない長靴。
正式な名は、セオドール・グラント。
海運・交易商社会長として、多くの船主や商人を束ねる立場にある。
顔を知っている者は道を空けるが、知らない者が見れば、少し裕福な若い商人にしか見えない。
ただし、歩きながら見ているものは多かった。
船体の沈み方。
岸壁へ残った水の跡。
積み下ろしを待つ木箱の数。
荷札。
縄の結び方。
荷運び人の顔。
見慣れない護衛。
港役人が帳面へ書く数字。
陸路で軽い銀貨が広がっているなら、その流れは、いつか港へ辿り着く。
逆に、港から内陸へ流されたのなら、船を見ればどこかに痕跡が残る。
帳簿は書き換えられる。
だが、船は違う。
荷を積めば沈む。
降ろせば浮く。
その重さだけは、誰にも誤魔化せない。
テオは、東側の岸壁へ停泊している中型船の前で足を止めた。
船名は、海燕号。
船体は古いが、手入れは悪くない。
船腹へ残された喫水線を見る限り、昨夜入港した時には相当量の荷を積んでいたはずだった。
だが、岸壁へ降ろされている木箱は少ない。
塩樽が十八。
薬草箱が九。
染料の袋が六。
港役人の帳面にも、同じ数字が並んでいる。
船は、帳簿よりも深く沈んでいた。
ならば、帳簿へ書かれていない荷がある。
「船長は」
テオが尋ねた。
隣へ立っていた年配の港湾監督が、顎で船を示す。
「朝から腹を壊したそうです」
「都合のいい腹だね」
「昨夜、飲みすぎたのでは」
「船から降りていないと聞いたけど」
「では、保存食に当たったのでしょう」
「同じものを食べた船員は?」
「元気に働いております」
テオは、海燕号を見上げた。
「船長だけを選ぶ保存食か。珍しいね」
「輸入品ですかな」
「高く売れるかもしれない」
「腹痛と引き換えに?」
「買い手次第だね」
監督は、皺の深い顔へ笑みを浮かべた。
「会長も、少しは商人らしく笑った方がよいのでは」
「笑っているよ」
「それで?」
「もちろん」
「昔から、愛想だけは足りませんな」
「帳簿が合っていれば、愛想は少なくて済む」
「帳簿が合っていないから、朝から歩いているのでしょう」
「それは痛いところだね」
テオは渡し板へ足を掛け、船へ乗り込んだ。
◇
船長室には、薬草茶の匂いが充満していた。
寝台へ横たわっている船長は、大柄な男だった。顔色は悪いが、死にかけているわけではない。額へ濡れた布を載せ、毛布を胸元まで引き上げている。
「腹を壊したと聞いたよ」
「会長」
船長は、掠れた声を出した。
「申し訳ありません。昨日から、どうにも」
「昨夜は船から降りていないそうだね」
「保存食が、少し傷んでいたのかもしれません」
「同じものを食べた船員は?」
「運がよかったのでしょう」
「船長だけを選ぶ保存食か。さっきより価値が上がった」
テオは、卓上へ目を向けた。
水差し。
薬草茶。
小さな木皿。
食べかけの黒パン。
干した果実。
黒パンを指で押す。
硬い。
ただし、傷んでいる様子はない。
「積荷を見る」
船長の目が、わずかに動いた。
「帳面は役人へ提出しました」
「帳面の話はしていない」
「では」
「船を見る」
「会長自ら?」
「僕は、船を見るのが好きでね」
「その必要は」
「ある」
テオは、寝台へ横たわる船長を見た。
「海燕号は、昨夜の入港時に帳面の量より深く沈んでいた」
「波の影響では」
「内湾で、昨夜ほど静かな日に?」
「船底へ水が入った可能性も」
「なら修理記録も見る」
船長は、すぐには答えなかった。
テオも急かさない。
沈黙が長くなるほど、相手は自分の言葉を思い返す。
最初に折れたのは、船長だった。
「少しだけ」
言う。
「荷札へ記載していない荷があります」
「少しだけ、は商人が一番信用しない言葉だね」
「預かっただけです」
「誰から」
「仲買人です」
「名前は」
「言えません」
「なぜ」
船長は、苦い顔をした。
「言えば、私だけでは済まない」
テオは、表情を変えなかった。
「それほど危ない荷を、僕の港へ入れたのかい」
「断れなかった」
「商人は、それをよく使う」
テオは、卓上の干した果実を一つだけ手に取り、すぐ戻した。
「断れなかった。知らなかった。仕方がなかった。三つ揃うと、だいたい高くつく」
「会長には分からない」
「分かるよ」
声は穏やかだった。
「分かった上で、聞いている」
船長は、しばらく黙った。
やがて、壁際の収納箱へ視線を向ける。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
「床板を見て」
テオが言った。
扉の外へ待機していた港湾監督と警備兵が、室内へ入ってくる。
船長が起き上がろうとする。
「待ってくれ」
「腹が痛いんじゃなかった?」
「それと、これは別だ」
「元気そうで安心したよ」
「会長」
「横になっていてくれ」
テオは、わずかに口元を緩めた。
「奇跡が起きるまで」
◇
床板の下から見つかったのは、十二個の薬草箱だった。
帳面へ記載されていない荷。
表面には、乾燥させた薬草の名前が書かれている。
睡眠を助けるもの。
熱を下げるもの。
痛みを抑えるもの。
どれも、港へ入れること自体は禁止されていない。
港湾監督が木箱の一つを開き、上へ積まれていた乾燥葉を退ける。
その下から、小さな革袋が現れた。
口を解く。
黒に近い樹脂状の塊。
独特の甘い匂い。
テオの表情が、初めて変わった。
ごくわずかに。
けれど、明確に。
「会長」
監督が、低い声で言った。
「これは」
「分かっている」
テオは、革袋へ触れなかった。
触れる必要もない。
何度も見た。
匂いも覚えている。
妹の部屋。
震える指。
汗。
眠れない夜。
薬を断ったあとの苦しみ。
治療を始めてからも、突然戻ってくる恐怖。
忘れられる匂いではなかった。
監督は、木箱の奥から荷札を取り出した。
「印があります」
紙の端。
青い線が二本、引かれている。
テオは荷札を受け取った。
「ほかの箱も見て」
「すべて?」
「すべてだ」
「会長」
船長が寝台から身体を起こした。
「私は、荷の中身までは」
「知らなかった?」
「本当だ」
「そうか」
「信じてくれ」
「信じるよ」
船長の顔へ、ほんの少しだけ安堵が浮かぶ。
「ただし、僕が信じることと、君が責任を払わずに済むことは別だ」
安堵が消えた。
「海燕号を出港停止にする」
「待ってくれ」
「乗組員は全員、話を聞く。帳面、荷札、寄港地、荷を積んだ者、仲買人。全部だ」
「船が止まれば、俺は終わる」
「港へ麻薬を入れれば、誰かが終わる」
テオは、青い線の入った荷札を折らずに持った。
「君ではない、誰かがね」
◇
午前の確認を終えたあと、テオは港近くの屋敷へ戻った。
海運・交易商社会長として使う執務室と、私的な住居を兼ねた建物だった。表側には商談用の広間、帳簿を収める書庫、会議室があり、奥へ進めば家族のために整えられた静かな部屋へ出る。
扉を開ける前に、テオは一度だけ足を止めた。
深く息を吐く。
それから、部屋へ入った。
妹は、窓辺の椅子へ座っていた。
以前より顔色はよい。
髪も整えられている。
膝の上には読み掛けの本があり、卓上には温かい茶が置かれている。
ただし、右手の指先は、ほんのわずかに震えていた。
「お戻りでしたか、兄上」
「ああ」
「朝から港へ出ておられたのですね」
「少しだけだよ」
「兄上の少しだけは、あまり信用できません」
「今日だけで、二人目だね」
「同じことを言われたのですか」
「僕は、思っていたより分かりやすいらしい」
「昔からです」
「商人としては致命的だな」
「いま気付かれたのですか」
「今日、初めて知った」
妹は、少しだけ笑った。
笑えるようになった。
それだけで、以前よりはよい。
テオは外套を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。
「薬は?」
「飲みました」
「食事は」
「いただきました」
「眠れた?」
「少しは」
「少し?」
「兄上」
妹は、困ったように目を伏せた。
「私は患者ですが、囚人ではありません」
「確認だよ」
「その確認の顔が、尋問に見えます」
「気を付ける」
「できれば、もう少しだけ柔らかく」
「努力する」
「兄上の努力は、時々、帳簿より硬いです」
テオは返事に迷った。
妹は、そこでまた小さく笑った。
しかし、その笑みは長く続かなかった。
妹の視線が、テオの外套へ向く。
次に、袖口。
手袋。
最後に、顔。
「港で、何か見つけたのですね」
「なぜ分かる」
「匂いがします」
テオの動きが止まった。
「触れてはいない」
「分かっています。でも、荷箱の近くにあったのでしょう。あれは、近くにあるだけで分かる時があります」
「……そうか」
「嫌ですね」
「ああ」
「しばらく、忘れていたのに」
妹は、震える右手を左手でそっと押さえた。
責めてはいない。
ただ、身体が覚えている。
忘れたくても、消えないものがある。
「悪い」
テオが言うと、妹は首を横へ振った。
「兄上が謝ることではありません」
「でも」
「そこまで背負わないでください」
テオは、返事をしなかった。
「また、危ない場所へ踏み込むのですね」
「帳簿を見るだけだ」
「兄上が帳簿を見るとおっしゃる時は、たいてい誰かが破滅します」
「破滅させるつもりはない」
「本当に?」
テオは少しだけ考えた。
「必要があれば」
「やはり」
「ただし、順番は守る」
「順番、ですか」
「潰す前に、話を聞く」
妹は、呆れたように息を吐いた。
「兄上」
「何だ」
「怒ってよいと思います」
テオは答えない。
「私のために、とは申しません。けれど、同じものに苦しむ人がまた増えるのなら、怒ってください」
右手の震えを、左手で押さえる。
「ただし、怒りだけで動かないでください」
「分かっている」
「本当に?」
「皆、同じことを聞くね」
「兄上が、いつも同じ答えをなさるからです」
「努力する」
「努力ではなく、約束してください」
テオは、妹を見た。
指先は、まだ小さく震えている。
だが、目は逸らしていなかった。
「分かった。約束する」
妹は、ようやく小さく頷いた。
「では、お戻りください」
「まだ出てもいないよ」
「先に申し上げておきます」
「用意がいいね」
「兄上が戻る約束を忘れないように」
「商人に、契約を忘れるなと?」
「ご家族との約束だけは、よく忘れます」
「耳が痛いな」
妹は、少しだけ笑った。
その顔を見てから、テオは再び外套を取った。
◇
午後。
港の西側倉庫街では、普段どおり荷運び人たちが働いていた。
海燕号の荷札には、倉庫番号が残っている。
西側第七倉庫。
表向きは、薬草と染料を扱う保管庫だった。
テオは、港湾監督と警備兵を連れ、倉庫の前へ立った。
扉の前には、細身の男がいる。
倉庫番。
ただし、手は商人のものではない。
指の付け根に硬い皮膚。
剣を握る者の手。
「セオドール・グラント会長」
男は笑みを浮かべた。
「事前にご連絡いただければ、帳面を準備いたしました」
「準備していない帳面を見たいんだ」
「どういう意味でしょうか」
「そのままの意味だよ」
「倉庫へ入る許可状は」
「監督」
テオが軽く声を掛けると、港湾監督が紙を出した。
男は一度だけ目を落とし、わずかに身体の重心を変える。
逃げる。
あるいは、何かを隠す。
テオは、男の背後にある扉を見た。
「中で火を使っているね」
男の目が動く。
「何を」
「煙だよ」
扉の下から、ほんのわずかに灰色の煙が漏れている。
「開けて」
「中では、薬草を乾燥させています」
「薬草を燃やして?」
「事故です」
「便利な言葉だね」
テオは、港湾監督へ視線を向けた。
「裏手へ回って。水桶も」
「承知しました」
監督が動く。
倉庫番は、腰へ手を伸ばした。
短剣。
抜く。
速い。
ただし、港湾警備の男はもっと速かった。
手首を掴み、捻る。
短剣が落ちる。
倉庫番が肘を入れようとするが、もう一人の警備兵が肩へ体重を掛け、石壁へ押し付けた。
「離せ!」
「テオ会長」
警備兵が尋ねる。
「どうしますか」
「怪我はさせないで。話を聞く」
「俺は何も知らない!」
「そうか」
テオは扉へ手を掛けた。
「なら、知っている方へ会うよ」
扉を開く。
煙。
熱。
焦げた紙の匂い。
倉庫の奥では、別の男が火鉢の前へしゃがみ込み、帳面を燃やしていた。
テオを見る。
立ち上がる。
逃げ道を探す。
裏口は、すでに港湾監督が塞いでいる。
「続けて」
テオが言った。
男の動きが止まる。
「燃やしたいんだろう」
「何を」
「帳面を」
テオは火鉢を見る。
「続けていいよ」
男は、理解できないような顔をした。
「止めないのか」
「うん」
「証拠だぞ」
「燃やした紙は戻らない」
テオは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「でも、船は燃えていない」
男の顔から血の気が引く。
「海燕号の喫水線。入港記録。荷揚げされた箱の数。積まれていた縄。船員の人数。昨夜、船から降りた者。岸壁へ残った車輪の跡」
一歩、倉庫の中へ入る。
「帳簿を燃やせば、帳簿しか見ない者は困るだろうね」
火鉢の近くへ立つ。
「残念だけど、僕は船を見る」
男は、火鉢の中へ帳面を投げ込もうとした。
その前に、警備兵が腕を掴む。
紙が床へ落ちた。
端だけが焦げている。
テオは屈み、拾い、開いた。
頁の半分は、まだ読める。
船名。
寄港地。
荷の数。
支払われた銀貨。
薬草。
樹脂。
塩。
保存食。
別の欄には、回収、交換、再鋳造。
さらに、紙の端へ青い線が二本、何度も引かれている。
「青線」
港湾監督が、低い声で言った。
「何の印です」
「まだ断言はできないね」
テオは焦げた帳面を読む。
軽い銀貨が流れた場所。
薬箱が送られた場所。
麻薬原料が積み込まれた船。
別々の取引。
別々の荷。
けれど、同じ仲買所。
同じ倉庫。
同じ印。
「偶然で済ませるには、高すぎる」
倉庫の奥から、警備兵が別の木箱を運んできた。
「会長。こちらにも、妙なものが」
箱の中に入っていたのは、薬でも銀貨でもなかった。
紙。
大量の空白書類。
上部には、灰色の十字を模した印。
患者名。
年齢。
搬送元。
搬送先。
症状。
治療上の注意。
医療団が使う移送札の形式だった。
「本物ですか」
監督が尋ねる。
テオは、一枚を光へ透かした。
紙質が違う。
透かしもない。
ただし、形式だけは精巧に写されている。
「偽物だね」
「なぜ、この倉庫に」
「人として荷を通すためだろう」
薬箱なら、関所で開けられる。
銀貨なら、秤へ載せられる。
だが、病人であれば止めにくい。
急患。
感染症。
移送中。
医療団の名と印があれば、関所の者は近づくことさえ避けるかもしれない。
書類の束の下には、小さな蝋型があった。
灰十字医療団の印を、浅く写したもの。
「誰かが、医療団の印を取っています」
港湾監督が言った。
「そうみたいだね」
テオは、偽の移送札を一枚だけ抜き取った。
紙の端。
青い二重線。
そこには、搬送先として内陸側の宿駅名が記されている。
ブリエン方面から続く街道。
鉱山町。
救護所。
以前、一人の剣士と道を分けた地域だった。
「会長」
「何だい」
「顔に出ています」
「今日は、よく言われるな」
「何が見えたのです」
テオは、偽の移送札と青い荷札を重ねた。
「港から出た荷が、薬箱へ入り、患者の名前を借りて、内陸へ運ばれている」
「麻薬も?」
「軽い銀貨も、正しい銀貨も、同じ道を通っているかもしれない」
「誰が止めます」
「港側は僕たちだ」
テオは、帳面を閉じる。
「内陸側には、僕より向いている者がいる」
「誰です」
「ブリエンで会った剣士だよ」
「信用できるのですか」
テオは少しだけ考えた。
「帳簿を預けるには向いていないね」
「駄目では」
「でも」
偽の移送札を指先で持ち上げる。
「人を預けるには、信用できる」
港湾監督は、ほんの少しだけ目を細めた。
「随分と高い評価ですな」
「本人へは言わないで」
「なぜ」
「たぶん、恐縮する」
倉庫の外では、日が傾き始めている。
海から来た荷。
青い二重線。
軽い銀貨。
麻薬原料。
偽造された患者名。
灰十字の印。
陸で記録を追っている者たちは、自分たちが港から見られていることをまだ知らない。
テオもまた。
同じ印を見つけた剣士が、すでに血を流していることを知らなかった。
「東へ使いを出して」
テオが言った。
「宿駅と灰十字医療団を調べる。海燕号の寄港記録も、過去一年分」
「会長は?」
「僕も行くよ」
「ご自身で?」
「船を見たあとは、人の顔を見ないとね」
「危険です」
「知っている」
「護衛を」
「連れていく」
監督は、少しだけ意外そうな顔をした。
「一人で行くとは言わないのですな」
「僕は剣士じゃない」
「それだけですか」
テオは、青い二重線が残る偽の移送札を見た。
「一人で全部やると、妹に怒られる」
「それは怖い」
「兄上、と呼んでから怒るからね。逃げにくいんだ」
港湾監督が笑った。
テオも、ほんの少しだけ口元を緩める。
その直後、偽の移送札の一番下に書かれた名前が目へ入った。
患者名。
年齢。
搬送元。
使われている名前は、すでに死亡した水夫のものだった。
死者の名を。
患者へ変え。
荷へ貼る。
テオの笑みが消える。
「監督」
「はい」
「海燕号だけでは足りない」
「何を止めます」
「港を出る、すべての患者移送だ」
「本物も?」
「本物を止めれば、救える者が死ぬ」
テオは、偽の紙束を見る。
「だから、止めずに見分ける」
「できますか」
「できなければ、彼らは何度でも使う」
病人を守る仕組み。
死者の名。
商人の信用。
軽い銀貨。
人を救うために作られたものばかりが、荷を隠すために使われている。
船は、嘘を吐かない。
だが。
人は、紙へ嘘を書ける。
ならば。
紙を書いた者の顔を、見に行かなければならない。
──Another Side 了




