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第七十四部 森は、裏切り者の名を急がない話 ③ 並べられた持ち物と、まだ決めない名前

 バルドの持ち物は、すべて卓上へ並べられた。


 短剣。


 水袋。


 乾いた肉。


 銀貨。


 火打ち石。


 レイラの似顔絵。


 命令書。


 赤黒い組紐。


 そして、小さな木箱。


「これは」


 ガルムが蓋を開けようとする。


「触るな」


 バルドの声が初めて強くなる。


 全員の視線が向いた。


「命令ではないのか」


「違う」


「では、何だ」


「俺が受け取った物じゃない。内通者へ渡す物だ」


 箱は、手のひらへ収まる程度だった。


 封はされていない。


 ガルムが慎重に蓋を開ける。


 中には、銀髪が一房、緑色の糸で結ばれていた。


 さらに。


 小さな木の飾り。


 鳥の形。


 片方の翼だけが、赤く塗られている。


 ネリスの顔から、色が消えた。


「それを」


 声が掠れる。


「どこで手に入れた」


「仲介人から預かった」


「誰の物か知っているのか」


「知らん」


 ネリスは、木の鳥を手に取った。


 皺のある指が震えている。


「フィアの物だ」


 ドルンが言った。


 レイラは、名前を知らなかった。


 だが。


 昨年、南の薬草畑から二人が連れ去られた。


 一人は取り返した。


 もう一人は、まだ。


 ネリスが話していた。


「連れ去られた方ですか」


 レイラが尋ねる。


 ネリスは頷いた。


「私の姉の孫だよ」


 木の鳥。


 片方の翼だけ赤い。


「小さい頃、私が作った。色を塗る途中で飽きてね。片方だけでよいと言った」


 ネリスは、銀髪の束を見る。


「生きているのかい」


 バルドは答えなかった。


 ガルムが肩を掴もうとする。


「待ってください」


 レイラが言った。


 サリエルを見る。


「話してもよいですか」


 老女は、小さく頷いた。


「その箱を、内通者へ渡したあと、何を受け取る予定でしたか」


「次の道だ」


「それだけ?」


「女が森の奥へ入った証拠。白い羽根の所在。それから、森議会の決定」


「その対価が、この箱?」


「箱は証拠だ」


「何の」


 バルドは、嫌そうに顔を背けた。


「人質が生きているという証拠だ」


 ネリスの指が、木の鳥を強く握る。


「返すという約束は」


「王女の居場所を渡せば、女を返す」


「信じた者がいるのですね」


「いるから、道が開いた」


 裏切り者。


 その言葉は、先ほどまで単純だった。


 森を売った者。


 敵へ道を教えた者。


 誰か一人を捕らえ、罰すれば終わるように思えた。


 だが。


 その者は、フィアを取り戻そうとしている。


 森全体と、たった一人。


 比べて。


 選んだ。


 あるいは、選ばされた。


「誰だ」


 ネリスが、バルドへ詰め寄った。


「知らん」


「嘘を吐くな!」


「顔を見ていない。箱は、根道の先へ置けと言われただけだ」


「誰が来る」


「知らん」


「いつ」


「今夜。月が上がる前だ」


 ネリスが立ち上がる。


「行く」


「待て」


 ガルムが止める。


「待てるものか!」


「罠だ」


「分かっている!」


「なら」


「それでも行く!」


 ネリスの声が小屋へ響いた。


 怒り。


 恐怖。


 期待。


 すべてが混じっている。


「フィアが生きている。髪も、鳥も、本物だ。あの子がどこかで待っているなら、私は行く」


「相手が、その気持ちを使っているのです」


 レイラが言った。


「分かっているよ!」


 ネリスが振り返る。


「王女様には分からないだろうね。たった一人のために、森を危険へ晒す者の気持ちは」


「分かりません」


 レイラは答えた。


 ネリスの顔が強張る。


「ですが」


 逃げずに続ける。


「分からないまま、悪いことだと言って終わらせたくありません」


「道を開いた者を許せと?」


「いいえ」


「では」


「理由は、罪を消しません」


 レイラは、木の鳥を見る。


「ですが、理由を知らずに人だけを罰すれば、同じ方法でまた誰かが脅されます」


 二十三人の名を知らずに、王家の責任を語ることはできない。


 同じように。


 内通者が守ろうとした者を知らずに、裏切りだけを裁くことはできない。


「フィアを取り戻しましょう」


 レイラは言った。


 ネリスが目を見開く。


「内通者も探します。道を開いた責任も、問いましょう。ただし、その前に、相手が人質を使えない状態にします」


「簡単に言うね」


「簡単ではありません」


「森へ来たばかりのお前に、何ができる」


 ドルンが尋ねた。


「分かりません」


 今度も、正直に答えた。


「ですが、私の名を餌にしているなら、私は餌のまま隠れているより役に立てます」


「囮になるつもりか」


 ルーウェンの声が低くなる。


「まだ決めていません」


「決めるな」


「命令ですか」


「ああ」


「森では、命じないのでは」


「私は森ではない」


「では、何ですか」


 ルーウェンは、答えを止めた。


 ネリスが、こんな時にもかかわらず少しだけ目を細める。


「同行者だろう」


「それだけですか」


 レイラが尋ねる。


「いまは、それでいい」


 逃げた。


 だが、完全には逃げ切れていない。


 張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 サリエルは、卓上の命令書、木の鳥、銀髪、白い花を順番に見た。


「今夜の受け渡しは、予定どおり行う」


 全員が老女を見る。


「ただし、箱を取りに来る者を、その場で捕らえることはしない」


「なぜです」


 ガルムが尋ねる。


「その者が内通者とは限らぬ。さらに奥へ箱を運ぶ者かもしれない」


「見失う可能性があります」


「道へ森の印を付ける。追うのは、三人までだ」


 サリエルの視線が、ルーウェンへ向く。


「お前も行け」


「疑われている者を使うのか」


「疑っているから、目の届くところへ置く」


「合理的だな」


「レイラは残れ」


「ですが」


「これは命令だ」


「私は森の者ではありません」


「では、客人へ対する条件だ。従わなければ、三十日の滞在許可を取り消す」


 逃げ道がなかった。


「……分かりました」


「本当に?」


「不本意ですが、約束します」


 サリエルは頷いた。


「内通者の名を急ぐな。名を先に決めれば、証拠をその者へ合わせてしまう」


 書記が、その言葉を記録する。


 ルーウェンを含む十二人。


 フィア。


 木の鳥。


 銀髪。


 今夜の受け渡し。


 レイラは、矢に切られた白い花を拾い、卓上へ置いた。


 自分の髪へ挿されていた花。


 敵を導いた合図と同じ花。


 同じものでも、使う者によって意味が変わる。


 祝福にも。


 道標にも。


 裏切りにも。


 それを決めるのは、花ではない。


 人だった。


 だからこそ。


 その人の名を、まだ決めてはいけない。



 ──第七十四部 了


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