第六部 助産婦リータと、止められない坑道の話 ④ 〜五つ目〜
その夜、俺は眠れなかった。
理由は、カミラの言葉だった。
国家を信じている。
だから、毎日疑っている。
国家を失った俺には、少し嫌な言葉だった。
失った国を信じることと、疑うことは、もう同じ場所にない。
信じるには遠すぎる。
疑うには、もう焼けすぎている。
そのせいか、俺は夜中に水を飲みに出た。
宿屋の廊下は暗かった。
監察団の部屋は二階の奥にある。
俺の部屋から井戸へ行くには、本来、階段を下りればよかった。
だが、廊下の途中で、床板の軋みを避けようとして、なぜか逆側へ曲がった。
寝不足のせいだ。
たぶん。
たぶん、という言葉は、俺の人生でだいたい信用ならない。
「っ、あぁ……」
曲がった先で、細い声が聞こえた。
声、というより、息だった。
「うんっ、あ、あぁ、はあぁ……」
扉の向こうで、押し殺しきれなかったような声が、短く漏れた。
昼のカミラなら絶対に出さない、頼りない女の声だった。
俺の足が止まった。
まずい。
これは、見てはいけないやつだ。
いや、聞いてもいけないやつだ。
俺は静かに一歩下がった。
床板が、ぎゅう、と鳴った。
その音は、世界で一番余計な音だった。
扉の向こうの空気が止まった。
「……」
次の瞬間、扉が少しだけ開いた。
隙間から、カミラの目が見えた。
髪はほどけていない。
服も乱れてはいない。
ただ、昼の監察官の顔ではなかった。
役割を脱ぐ直前の顔だった。
それを見てしまった。
いや、見たというほどではない。
見ていない。
ほとんど見ていない。
だが、見ていないと言い張るには、俺の沈黙が長すぎた。
「……何をしている」
カミラの声は低かった。
ただし、いつもの低さより、半分だけ上擦っていた。
「水を探していた」
「井戸は反対側だ」
「……心の水を」
「貴様、殴るぞ」
「もう殴る声だ」
「……見たのか」
「見てない!」
「返答が早すぎる。見た者の速度だ」
「見ていない者も、時に早く答える」
「ない」
「大陸には、いろんな文化が」
「黙れ!!」
俺は黙った。
扉の隙間の向こうで、カミラが深く息を吸った。
吸った息を、監察官の形に整えているのが分かった。
彼女は、役割へ戻ろうとしていた。
戻ろうとしているのに、頬の端だけが、わずかに赤かった。
その赤さを見てはいけない。
そう思った瞬間、背後から足音がした。
「殿下」
リューリックだった。
この男は、こういう時だけ必ず来る。
「夜分に、女性の私的領域で遭難なさる王族は、史料上かなり珍しいかと」
「記録するな」
「記録ではなく、戒めでございます」
「二人とも」
カミラの声が低く落ちた。
「黙れ」
次の瞬間、扉が開いた。
カミラの拳は、昼の政治判断より速かった。
俺の頬で、ガリレオの小さな革命が起きた。
「痛っ!」
「見ていないなら、痛みもなかったことにしろ」
「無茶を言うな」
「国家は、時に無茶を言う」
「いま国家関係あるか?」
「黙れ」
扉が閉まった。
廊下に、俺とリューリックだけが残った。
俺は頬を押さえた。
「リューリック」
「はい」
「俺は覗いたわけじゃない」
「畏まっております」
「本当に、偶然だ」
「女性の私的領域に偶然遭難する殿下の確率については、別途検討が必要です」
「検討するな」
「では、今夜の件は、未記録扱いで」
「最初からそうしろ」
「ただし、殿下」
「何だ」
「明日の朝、カミラ監察官と目を合わせる時は、お気をつけください」
「なぜ」
「国家より先に、拳が来る可能性がございます」
「……あり得る」
俺は、その夜、井戸の水を飲み忘れた。
◇
翌朝、カミラは完全に監察官の顔だった。
宿屋の食堂で、彼女は監督官と短く話していた。
書類を見て、数字を確認し、護衛に指示を出す。
声は低く、硬い。
昨日の夜など、どこにもなかった。
なかったことにされていた。
ただ、俺が通りかかった瞬間だけ、カミラの指先が止まった。
ほんの一拍。
持っていた紙束の一枚だけが、逆さまになった。
彼女はすぐにそれを戻した。
「外国人傭兵」
「はい」
「昨夜の件は、議題にない」
「まだ何も言ってない」
「顔が言っている」
「俺の顔は腫れているだけだ」
「私が腫らした」
「そうでした」
監督官が、何の話か分からない顔で俺たちを見た。
リューリックが、隣で完璧な無表情を保っている。
腹が立つほど完璧だった。
カミラは、何事もなかったように書類を整え直した。
その一枚だけ、また少しだけ、ずれていた。
俺は見ないふりをした。
見ないふりは、時に礼儀であり、時に生存戦略だった。
◇
その夜、助産院の戸を、また誰かが叩いた。
軽く、慎重に。
リータが戸を開けた。
戸口に、男が立っていた。
四十前後。
痩せて、目が落ちくぼんでいる。
胸の左に、何かの形が、上着の下から透けて見えた。
俺は、たまたまその場にいた。
昼間の血をもう一度洗ってもらおうと、助産院に寄っていたのだ。
リータが男を見て、低く言った。
「……あんた」
「リータさん、薬を」
「入んな」
男は入った。
ガリレオの坑夫の顔ではなかった。
外から流れてきた顔。
胸の左の影が、ほんの一瞬、上着の襟元から覗いた。
円の中の目。
刺青だった。
俺はリューリックの顔を見た。
リューリックは低く頷いた。
五つ目だった。
ただし、生きていた。
男は痛み止めの薬を受け取り、それからリータに低く言った。
「リータさん」
「何」
「これを預かってくれ」
男は懐から折りたたまれた紙を出した。
古い、薄い紙だった。
「地図だ」
「何の」
「下の道」
「なぜ、私に」
「あんたの家には、男が踏み込みにくい」
「……」
男の視線が一瞬、俺に向いた。
俺は何も言わなかった。
男は続けた。
「追わないでくれ。俺は、自分の都合で消える」
「追われているのか」
「少し」
「誰に」
「誰でもない。誰かにだ」
答えになっていない。
だが、答えになっていない言葉ほど、追い詰められた人間の本音に近いことがある。
「もし戻らなかったら、その傭兵に渡してくれ」
「俺に?」
「覚えている顔だ」
「どこで見た」
「見られる側は、見ている側の顔を覚える」
「……」
「地図の意味は、追えば分かる。だが、追わない方が賢い」
それだけ言って、男は助産院を出ていった。
戸が閉まった。
しばらく、誰も口を利かなかった。
リータが地図をテーブルに置いた。
「……これ、どうする」
「見せてくれ」
リューリックが地図を広げた。
ランプの灯りの下で、紙の線をしばらく追う。
それから、低く言った。
「殿下」
「うん」
「カステリオの坑道の奥が、地下でガリレオに繋がっています」
「……」
「ハンナ姐さんの息子が、最後に降りた坑道です」
「……」
「それから、もうひとつ」
「うん?」
「ガリレオから、さらに北西の地下へ、もう一本、線が伸びています」
「どこに」
「地図の端で切れています。続きは見えません」
「……」
「ただし、北西の方角と距離から察するに」
「オストマルク方面か」
「かもしれません」
リータが低く言った。
「これ、私にはできない」
「しなくていい」
リューリックが地図をたたんだ。
「私がお預かりします」
「……」
リータは何も言わなかった。
リューリックは地図を革袋にしまった。
その時、奥の部屋から赤子の泣き声が聞こえた。
リータが立ち上がった。
「昼間、生まれた子だ」
「ああ」
「布を替えてくる」
リータは奥の部屋に入っていった。
しばらくして戻ってきた。
手に、新しい白い布を抱えている。
もう一方の手には、汚れた古い布。
「今、寝た」
「……」
リータは椅子に座り直した。
ランプの灯りが、彼女の手の中の新しい白い布をわずかに揺らした。
それから、低く、ぽつりと言った。
「この子の父親も、明日、坑道に降りる」
「……」
「だから、私は座る」
俺は何も言えなかった。
リューリックも何も言わなかった。
ランプの油が、ゆっくりと減っていた。




