第六部 助産婦リータと、止められない坑道の話 ③ 〜血で買った国〜
翌朝、助産院の戸を叩いた。
リータが開けた。
「昨夜、見たね」
「見た」
「でも、誰にも言うな」
「言わない」
「約束だ」
「ああ」
「入んな。傷、もう一度見る」
「掌、もういい」
「いいから、入んな」
俺は入った。
リータは戸を閉めた。
それから、俺の掌を見た。
掌は、もうほとんど塞がっていた。
リータはそれでも、軽く軟膏を塗り直した。
手は震えていなかった。
「明後日の朝、私たち、座り込む」
「ああ」
「邪魔はしないでくれ」
「しない」
「助けも、いらない」
「分からない」
「……」
「お前らの戦いだ。俺たちは傭兵だ。雇われているのは鉱山の警備だ。鉱山が止まれば、警備はいらなくなる」
「ふん。あんた、頭が回るね」
「ただ、もし、誰かが座り込みを強引に止めようとするなら」
「するなら?」
「そこに傭兵が立っていることくらいはできる」
リータは、しばらく俺の目を見た。
それから、今日初めて軽く笑った。
「それは警備じゃないだろ」
「警備のついでだ」
「ついでにしては、面倒な方へ立つんだね」
「俺は昔から、道を間違えるのが上手い」
「ハンナ姐さんが好きそうな男だ」
「やめてくれ。あの人に好きそうと言われると、死に場所を診られそうだ」
「もう診られてるだろ」
「……たぶん」
リータは軟膏の瓶を閉じた。
「行きな。こっちは、明後日までに女たちの腹を決める」
「腹はもう決まってるんじゃないのか」
「決まってても、朝になると揺れる。子を産む前の腹も、そうだ」
「……」
「だから、助産婦がいる」
◇
昼過ぎ、町の中央通りで、酔った坑夫の喧嘩が起きた。
坑夫の喧嘩は、たいてい石と酒と不安でできている。
片方が「お前の班の支柱が先に折れる」と言い、片方が「お前の班の死人が先だ」と返し、その次の瞬間には拳が飛ぶ。
俺とリューリックが仲裁に入った。
二人の坑夫がナイフを抜いていた。
俺は一人の手首を押さえた。
リューリックがもう一人の肩を押さえる。
ナイフが地面に落ちた。
その時、押さえた坑夫の鼻から血が噴き出した。
別の坑夫に殴られた跡だった。
血が、俺の上着に跳ねた。
顔にも少し、かかった。
喧嘩は終わった。
俺は上着の襟元の血を軽く拭いた。
傭兵宿に戻ろうとしたところで、宿屋の戸口にカミラが立っていた。
灰色の上着。
短く切った黒い髪。
俺の上着の血を見た。
「その血は、あんたのか」
「半分くらい違う」
「ふん」
カミラは少しだけ目を細めた。
「洗え。血のついた男と話すと、部屋が臭う」
「話す?」
「ええ。少し訊きたいことがある」
「俺に」
「ああ、外国人傭兵に」
俺はリューリックの顔を見た。
リューリックは低く頷いた。
俺は宿屋の井戸で顔を洗った。
上着は脱いだ。
襟元をもう一度絞る。
血の色が、半分くらい薄くなった。
それから、カミラの後を追った。
宿屋の二階の部屋。
カミラが椅子に座っていた。
窓の外に、坑道の入口が見える。
俺は向かいの木の椅子に座った。
「訊きたいこと、というのは」
「あんた、外国人だろう」
「ええ」
「どこの国」
「今は、どこの国でもない」
「ふん」
カミラは、しばらく俺の目を見た。
「訊きたかったのは、それだけだ」
「……それだけ?」
「それだけ」
「それだけで、血の匂いを理由に俺を洗わせたのか」
「汚い男と話す趣味はない」
「俺はわりと清潔な傭兵だぞ」
「傭兵の清潔は、国家基準ではなく傭兵基準だ」
「厳しいな、国家」
「国家は厳しくないと残らない」
そこで、沈黙が落ちた。
窓の外で、坑夫が馬車に石を積んでいる。
馬車の車輪が軋んでいた。
その音は、坑道そのものの軋みに似ていた。
俺は、自分から口を開いた。
「カミラ監察官、ひとつ訊いてもいいか」
「ふん、短ければかまわない」
「この鉱山、危ないと分かっているのに、なぜ止めない」
カミラは、しばらく黙った。
それから、低く言った。
「この国を、私たちは血で買った」
「……」
「血で買った国は、配給を止められない。配給を止めれば、人民が、また奴隷に戻る」
「奴隷に戻るより、坑夫が死ぬ方がまし、と?」
カミラは答えなかった。
しばらく、窓の外を見ていた。
馬車が走り去った。
それから、低く、もう一度言った。
「この国を、私たちは血で買った。だから、止め方が分からない」
「……」
「毎日、自分に訊いている問いだ。だから、私はここに来ている」
「監察官として、生産割当を確認しに」
「ああ。建前は、そうだな」
「建前?」
カミラは答えなかった。
答えない沈黙が、答えより濃いことがある。
いまがそうだった。
彼女は国家を守りに来た。
同時に、国家が人を潰しているかを見に来た。
その二つを同じ鞄に入れて、ここまで来た女だった。
「もうひとつ、言っておく」
「うん?」
「国家を信じすぎるな」
「あんたは信じてるだろ」
「信じている」
カミラの目が、わずかに揺れた。
「信じている。だから、毎日疑っている」
「……」
「信じている者が疑わなくなった時、国家は人を潰す。私はそれを革命戦争で見た」
俺は何も言えなかった。
国家を失った男に、国家を信じて疑う女が、そう言った。
その言葉は、俺の胸のどこかに、静かに刺さった。
「話は、これで終わりだ。出ていけ」
「ああ」
俺は立ち上がった。
戸口で一拍止まる。
振り返らずに言った。
「カミラ監察官」
「うん?」
「この町の妻たちが、明後日の朝、鉱山入口に座り込むらしい」
カミラは、しばらく黙った。
「……ふん。よく調べたな」
「相棒が調べた」
「家令の家系の相棒か」
「よくご存知で」
「この町で、立ったまま物を持つ職の指ではない男は目立つ」
「……」
「明後日、私も現場に行く」
「監察官として?」
「それは、その時に決める」
「ああ」
俺は部屋を出た。




