第六部 助産婦リータと、止められない坑道の話 ② 〜夫を死なせない相談〜
ガリレオの鉱山事務所は、町の北側、坑道の入口に近かった。
石造りの低い建物。
扉の脇には、鉛筆で書かれた生産表が貼られている。数字は新しいが、紙は古い。何度も裏返して使っているらしかった。
中に入ると、雇い主の五十代の男がいた。
痩せていて、眉間に深い皺が刻まれている。
革命後に「人民代表」と呼ばれるようになった種類の男だ。
机の上には書類が積まれていた。
書類は多い。
だが、インクは薄い。
ここでは紙もインクも惜しいのだろう。
「カステリオから来た傭兵か」
「ああ」
「警備が今空いている。日当は銅貨七枚だ」
「カステリオより安いな」
「この町は、金がないんだ」
「……」
「やるか、やらないか」
「やる」
「よし、それと鉱山には入らない方がいい。中の警備は別の連中だ」
俺はリューリックの顔を見た。
リューリックは低く頷いた。
カステリオと同じ構造。
外の警備と、中の警備が別。
外から見える部分と、地下にある部分が別。
国というものは、いつもそうだ。
表と裏がある。
裏のことを「構造」と呼ぶと、少し賢く聞こえるだけだ。
「もうひとつ、訊いていいか」
「うん?」
「この鉱山、もう危ないと分かっているな?」
雇い主は、しばらく黙った。
それから、短く答えた。
「ああ。だが、それでも止められない」
「生産割当か」
「ああ。それと配給制。それと、もうひとつ」
「もうひとつ?」
「カステリオの事故の補填を、この町が肩代わりさせられている」
「……」
「カステリオが三日止まった。その分の生産を、ガリレオが出さなければならない。つまり割当が上がったわけだ」
「人民の鉱山が、人民をすり潰す、というやつか」
「そうだ。同じ構造だ」
雇い主は、書類に印を押した。
「では警備、頼む。ただし、何か見ても、聞かなかったことにしてくれ」
「了解」
聞かなかったことにしてくれ。
この言葉は、どこの国でもだいたい同じ匂いがする。
言う側は、まだ自分を悪人だとは思っていない。
聞く側も、それを責められるほど清潔ではない。
だから、書類の上でだけ、静かに腐っていく。
◇
俺たちは傭兵宿に入った。
部屋は二人で銅貨六枚。
窓の外に、坑道の入口が見える。
そこでは馬車が出入りしている。
中には馬とラバが混ざっている様子も見える。
よく見ると、ラバの歩幅は短い。そして、馬車の車輪は軋んでいた。
坑夫たちは、朝から既に疲れた顔をしていた。
「殿下」
「うん」
「この町、もう火種が燻っております」
「だろうな」
「ハンナ姐さんの言葉が、響いてきますな」
「『動物のほうが、まっすぐ死ぬ』か」
「人間は、危ないと知っていても行く」
「ああ」
「それから、もうひとつ」
「うん?」
「先ほどのリータさんのエプロンの血。坑道の事故の血に見えました」
「小さな事故は、もう起きてる」
「左様で」
「大きいのが来る前に、小さいのが先に来る」
「家が倒れる時と同じでございます」
「家令の家系らしい例えだな」
「本義でございます」
その夕方、視察団がガリレオに到着した。
馬車が二台。
護衛が二人。
馬車から降りてきたのは、一人の女だった。
三十代後半。
痩せ型。
黒い髪を短く切っている。
灰色の軍服のような上着。
左の手首から、袖口の隙間に、薄い、消えかけの印が見えた。
奴隷の烙印の跡だった。
消し切れていないのではない。
たぶん、消していない。
彼女は、傭兵宿の前で足を止めた。
俺たちを見た。
「ほぉ、外国人傭兵か」
声は低かった。
淡々としていた。
「ええ」
「目的は」
「日銭を稼ぐためです」
「ふん」
女は、しばらく俺の目を見た。
目の奥に、疲れはある。
だが、濁っていない。
疲れても濁らない目は、たいてい厄介だ。
「人民監察局の監察官、カミラ・パヴェルだ」
「カミラ……監察官?」
「貴様ら、生産割当を邪魔するな」
それだけ言って、奥に消えた。
護衛二人が後を追った。
俺とリューリックは、しばらく戸口に立っていた。
「……強烈なお方ですな」
「革命の英雄、らしい」
「らしいですな」
「だが、左手首の印を消していない」
「わざと、らしいです」
「わざと?」
「消すと、過去を忘れる。残せば、忘れない、と。革命派の流儀だそうです」
「お前、またどこでそんな情報を」
「酒場のドワーフの女将に会いました。ガリレオにも似た人がおりまして」
「お前、酒場、好きすぎないか」
「情報の坑道は、酒場から掘り始めます」
「……そのうち酒場の女将に国を売りそうだな」
「殿下が国を取り戻してからご検討ください」
「重い冗談を軽く言うな」
「左様で」
◇
夜、傭兵宿の窓から外を見ていた。
助産院の二階の窓に、灯りが点いている。
いつもの夜より長い灯りだった。
いつもの夜より、人影が多い。
「リューリック」
「はい」
「助産院、行ってみるか」
「お一人で?」
「ああ。お前はここで見張ってろ」
「何を見張りますか」
「監察官の動きと、街道の方」
「畏まりました」
「お前、俺が女の集まりを見に行くと言っても止めないんだな」
「殿下が下心で動く時は歩幅が違います。今回は違うようですので」
「俺の歩幅を分類するな」
「家令の家系の副業の本義として、歩幅は重要でございます」
「本義が便利すぎる」
俺は上着を羽織って外に出た。
助産院の戸は、夜だが、わずかに開いていた。
戸口の前まで進み、足を止める。
中から、女たちの声が漏れていた。
低い声。
押し殺した声。
泣いているのではない。
怒鳴っているのでもない。
ただ、誰かの明日を数えている声だった。
人数は多い。
三十人はいる。
俺は戸口の脇の塀の影にしゃがんだ。
しばらく聞いていた。
声の中の一つが、リータの声だった。
「夫を降ろさないで、と言うしかない」
「でも、配給が減るのは困る」
「夫が死ぬのは、もっと困る」
「カステリオでは五人出た」
「ここでも、いつ出てもおかしくない」
「監察官が来てるのは、止めるためじゃなく、生産を上げるためだ」
「……どうすれば」
「明後日の朝、鉱山入口に座り込もう」
「全員で?」
「全員で」
「夫が坑道に降りる前に」
「ええ。降りてからじゃ、間に合わない」
俺は、戸口から離れた。
ゆっくりと、塀の影から抜け出す。
その時、戸口の中から、リータの目がわずかにこちらを向いた。
俺は足を止めた。
リータは何も言わなかった。
ただ、こちらを見ていた。
俺は軽く頭を下げた。
それから、傭兵宿に戻った。
新しい命を取り上げる家の二階で、女たちは夫を死なせない相談をしていた。
この町では、生まれることと、死なせないことが、同じ屋根の下にあった。




