第六部 助産婦リータと、止められない坑道の話 ① 〜白いエプロン〜
坑道は、止まらない。
人が死んでも、止まらない。
支柱が軋んでも、止まらない。
岩盤に亀裂が走っても、坑夫が咳き込んでも、妻たちが朝の玄関で夫の背中を見送るたびに唇を噛んでも、坑道は止まらない。
止まれば、石が出ない。
石が出なければ、割当が満たせない。
割当が満たせなければ、配給が減る。
配給が減れば、子どもが腹を空かせる。
だから坑道は止まらない。
止める理由は山ほどあるのに、止める権限は、いつも誰かの机の奥に置かれている。
ガリレオという町は、そういう町だった。
イタリカ共産国北部。
カステリオから北へ二日の、鉛と銅の鉱山町。
人口二千に満たない小さな町で、煙突は黒く、石畳は粉塵で薄く汚れ、朝の空気には油と煤と、湿った地下水の匂いが混じっていた。
そこに、ひとりの助産婦がいた。
リータ。
彼女は生まれてくる命を取り上げ、坑夫の傷も縫い、坑夫の妻たちの沈黙を束ねていた。
そして、もうひとり。
監察官カミラ・パヴェル。
革命で奴隷から監察官になった女。
国家を信じ、だからこそ毎日疑っている女。
この二人が、坑道を三日だけ止めた。
三日だけ。
たった三日。
だが、その三日は、ガリレオという町にとって、国家を相手に息を吸った最初の三日だった。
俺の名は、レオン。
便宜上は、ただの傭兵。
二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。
趣味、惚れること。
専門、惚れた相手からいろいろなものを受け取って、街道で勝手に重くしていくこと。
この町では、俺は誰にも惚れなかった。
ただ、助産婦に頭を下げ、監察官に殴られ、坑夫の妻たちの前に立った。
それだけだ。
それだけのはずなのに、懐はまた重くなった。
◇
カステリオを北へ発って、二日。
街道の左右には、低い丘陵が続いていた。
時折、坑夫の馬車とすれ違った。荷台には、砕かれた石が積まれている。石の山は灰色で、ところどころに鈍い銀色の筋が走っていた。
馬車を引くラバの足取りは重い。
御者の顔も重い。
道端の草は、粉塵を浴びて、緑というより灰色に近かった。
夜は、街道沿いの小屋で一晩過ごした。
馬は二頭。
俺たちは馬の歩幅に合わせて、ゆっくりと進んだ。
革袋の中で、ハンナの馬蹄鉄が、馬の揺れに合わせてわずかに鳴っていた。
「殿下」
「うん」
「ガリレオの煙が見えてきました」
俺は顔を上げた。
地平線の向こうに、黒い煙が低く立ち昇っていた。
カステリオの煙より薄い。
ただし、立ち上っている方向は同じだった。
同じ方角から、同じ種類の重さが来る。
煙は、そういう顔をしていた。
「また鉱山か」
「また鉱山でございます」
「俺たち、最近、地下に縁がありすぎるな」
「殿下の旅程は、地上を歩いているようで、かなり地下に吸われております」
「吸われるのは女の視線だけで十分なんだが」
「その視線も、だいたい殿下が自分から浴びに行っておられます」
「うるさい」
「左様で」
ガリレオの城門は朽ちかけていた。
石造りの門柱の片側が欠けている。修理した跡はない。
検問もない。
商隊もほとんど出入りしていない。
カステリオより小さく、カステリオより寂れていた。
町に入ると、空気が変わった。
黒煙、粉塵、油の匂い。
石畳は薄い黒い粉で覆われている。窓辺に干された布も、どこか灰色だった。
町の中央には、坑夫宿、酒場、雑貨屋。
そして、助産院があった。
「殿下、あれが助産院だそうです」
二階建ての石造りの建物だった。
戸口に、白い布が一枚下げてある。
風で揺れるたび、その白さだけが町の中で浮いて見えた。
「助産院に、傭兵が入るのか」
「他に医者がいない、と聞きました」
「……俺の肩を助産婦に診せる日が来るとはな」
「殿下は、これまで看護師、町医者の娘、薬師、外科医、獣医に診られております」
「並べるな」
「残るは助産婦でございます」
「人生の医療職図鑑を埋めに来たわけじゃない」
「ですが、順調に埋まっております」
「うるさい」
俺の左肩は、いまは痛んでいなかった。
代わりに、右の掌に薄い擦り傷がある。街道で馬の手綱を握りすぎた跡だ。
大したことはない。
ただ、この町に入る前から、俺は助産院に行く理由を探していたのかもしれない。
理由というのは、だいたい後から見つかるものだ。
助産院の戸を軽く叩いた。
返事はない。
代わりに、中から女の悲鳴が聞こえた。
俺は一瞬、戸の前で固まった。
戦場の叫びとは違う。
死に近づく叫びではなく、生まれるものを押し出す叫びだった。
俺が戸を開けるより早く、奥の部屋から低い声が響いた。
「静かに、して」
挨拶ではなかった。
俺たちに向けられた声でもなかった。
手元の命に向けられた声だった。
俺とリューリックは、戸口で立ち止まった。
悲鳴がもう一度。
その奥で、低い女の声が何かを静かに命じている。
押す。
止める。
息を吸う。
もう一度。
言葉は短い。
だが、その短さの中に、何度も人を生まれさせてきた人間の呼吸があった。
しばらく待った。
長くはなかった。
やがて、新しい命の産声が聞こえた。
弱い、震える、小さな声。
それから、力を得て大きくなった。
泣き声が、石造りの助産院の壁に跳ね返り、外の黒い粉塵の空気まで少しだけ薄くしたように感じた。
しばらくして、女が奥から出てきた。
四十前後。
中肉中背。
黒い髪を後ろで結っている。
淡い色の目。
白いエプロンには、血と、羊水と、洗っても落ちきらない古い染みがついていた。
その白は、汚れているのに清潔だった。
矛盾しているが、そう見えた。
「あんた達、誰?」
「傭兵だ」
「産婆に来てる傭兵、珍しいな」
「他に医者がいない、と聞いた」
「いない。よく調べたね」
「相棒が調べた」
「ふん」
女はエプロンで手を拭いた。
俺の掌を見た。
「それ、馬の手綱だね」
「ああ」
「大したことはない。でも診ておく。座んな」
俺は木の椅子に座った。
「あたしはリータ。この町で長年、助産婦をしている」
「俺はレオン。傭兵だ」
「リューリック、と申します」
「ふん。家令の家系の傭兵か」
リューリックの肩が、わずかに上がった。
「なぜ、そうお思いに」
「手の指の合わせ方が、立ったまま物を持つ職の指じゃない。あんた、屋敷で銀器を磨いてた口だね」
「……」
「冗談だ。気にするな」
「冗談の精度が高すぎます」
「助産婦は、男の嘘もだいたい分かる。赤ん坊の父親が誰か分からない顔を何度も見てきたからね」
「殿下」
「俺を見るな」
リータは、俺の掌に軟膏を塗った。
手の動きは静かで、無駄がない。
ハンナの手とは違う。
ハンナは速い。
リータは遅い。
けれど、迷いがない。
生まれてくる命は、急がせても早くならない。
だから、彼女の手は急がない。
急がないまま、必要な場所には確実に届く。
「カステリオから?」
「ああ」
「ハンナ姐さんは、達者か」
俺はリータの顔を見た。
リータは俺の掌を見ていた。
「ああ、元気だったよ」
「そう」
それだけ言った。
軟膏が塗り終わった。
布で軽く巻く。
「治療代、銅貨三枚」
「安いな」
「馬の手綱に銅貨十枚は取れない」
「ふん」
「それと、坑夫の傷を診るときは銅貨をもらわないことも多いんだ。代わりに薬草をもらうことがある」
「……」
「なぜならこの町には、医療代を払えない奴が半分だ」
リータはそれだけ言って、エプロンを外した。
「産婦の様子を見てくる。あんたら、もう行きな」
「ありがとう」
「礼はいい、お代はもらったからな」
俺たちは助産院を出た。
外で、リューリックが低く言った。
「殿下」
「うん」
「あの方も、観察眼の鋭い方ですね」
「ああ」
「ハンナ姐さんと知り合いらしい」
「ああ」
「この町、思っていたより繋がっています」
「だろうな」
「それから、もう一つ」
「うん?」
「あの白いエプロンの血の量。今日の出産だけの量ではありません」
「……」
「この町は、出産だけではなく、別の傷も診ている。たぶん、坑夫の傷を」
「つまり、助産婦じゃなく、町医者ということか」
「助産婦もしています。だが、それだけではない」
「観察眼、鋭いな。お前も」
「家令の家系の副業の本義として、血の種類はある程度」
「その本義、どこまで行くんだ」
「地下まで行きそうです」
「嫌な予告をするな」




