第五部 獣医ハンナと、まっすぐ死ぬ場所の話 ⑦ 〜ガリレオの煙〜
街道脇の岩陰に、小さな一団が立っていた。
女が二人。
子供が三人。
荷車が一台。
事故で死んだ坑夫の家族らしかった。
二人の母親は、互いに肩を寄せ合っていた。
子供たちは、まだ泣いていない。
ただ、目が赤かった。
赤さは、昨夜泣いた赤さだった。
昨夜、母親が眠ったあとで、子供だけが自分の毛布の中で声を出さずに泣いた。
声を出さなかったのは、母親を起こしたくなかったからだ。
子供は、五歳と三歳でも、母親の睡眠の貴重さをもう知っている。
悲しい知識だった。
俺たちが近づくと、母親は軽く頭を下げた。
俺も頭を下げた。
リューリックも馬を止めて頭を下げた。
何も言わなかった。
母親も何も言わなかった。
ただ、子供の一人が、俺の腰の革袋を見た。
革袋の中で、馬蹄鉄がわずかに鳴った。
鳴ったのは、たぶん子供にだけ聞こえた音だった。
俺とリューリックには聞こえなかった。
ただ、子供の目だけが、革袋の音の方角を追っていた。
子供は何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
二十八年生きてきても、言うべき言葉はまだ見つかっていなかった。
俺は馬を進めた。
すれ違った後、振り返らなかった。
リューリックも振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん馬を降りる。
馬を降りたら、革袋の中の何かを、子供の手に押しつける。
押しつけたら、それはもう俺たちの旅ではなくなる。
俺たちは、別の人間の、別の旅を始めることになる。
始める権利は、いまの俺たちにはない。
ない理由は、まだ王宮に戻っていないからだ。
◇
しばらく進んで、岐路に出た。
西へ進めば、オストマルク辺境伯領。
北へ進めば、もう一つのイタリカの鉱山町。
「殿下」
「うん」
「次の口を選ばないといけません」
「西へ行きたいって、お前が言ってたな」
「言いました」
「だが」
「だが、です」
「……」
「補給係から、もう一つ聞きました」
「うん?」
「カステリオの北、二日のところに、もう一つ鉱山町があります。ガリレオ」
「また鉱山か」
「そこは、ハンナ姐さんの息子が最後に降りた坑道が伸びている町です」
「……は?」
「坑道は地下で繋がっています。事故の坑道、ガリレオまで伸びていた、と」
「……」
「ガリレオでも、近々、何か起こると聞いております」
「警告は出ているのか」
「出ております。何人かの坑夫から」
「対応は」
「取られていない、と」
「……」
「同じ構造でございます」
俺はしばらく黙った。
懐の馬蹄鉄が、馬の歩みに合わせて揺れていた。
揺れる音は、青銅の札と軽く当たり、二種類の音を刻んでいた。
二種類の音は、二種類の質問を俺に出している。
馬蹄鉄は訊いていた。
お前は、生き物の重さを覚えているか。
覚えているなら、ガリレオに行け。
青銅の札は訊いていた。
お前は、敵か味方かを決めない側に留まる権利を、まだ持っているか。
持っているなら、ガリレオに行け。
二つの音は、別の方角から同じ場所を指していた。
「オストマルクは」
「後にできます」
「ガリレオで、また誰かに頭を下げることになるのか」
「たぶん」
「俺は傭兵だ」
「左様で」
「傭兵が、どこで傭兵をやるかは、傭兵が決める」
「ご賢明です」
「うるさい」
俺は馬の脇腹を軽く蹴った。
馬は、街道の北側へ歩を進めた。
リューリックも続いた。
◇
俺は懐の中の重みを確かめた。
ハンナの馬蹄鉄。
ヴェラの止血粉と痛み止め。
マレーナの薬草袋。
ニーナの鎮痛剤の最後の一本。
青銅の札、三枚。
補給路の地図。
そして、リューリックへの「王宮に戻ったら、息子の墓に花を」という約束。
懐は、毎回重くなっていく。
新しい革袋が要る。
ハンナの「もう、誰も、まっすぐに死ぬ場所はない」が、まだ耳の奥に残っていた。
俺は馬上で、一度だけ左肩を回した。
肩の傷は軽く引きつったが、もう開かなかった。
ハンナの縫合は、ヴェラのそれとも、マレーナのそれとも違う質感だった。
ヴェラの糸は、まっすぐ切れない方向に強く張った糸だった。
マレーナの糸は、ゆっくり馴染ませる方向に緩く結んだ糸だった。
ハンナの糸は、動物の体にいつでも合わせ直せるように、結び目をわずかにゆるく残した糸だった。
三人の糸が、俺の体の別々の傷の中に入っている。
疼くたびに、三人の町と、三人の手を思い出す。
思い出すうちは、生きている。
生きているうちは、街道をまた進める。
進める先に、ガリレオがあった。
ガリレオの鉱山の煙だった。
カステリオの煙より薄い。
ただし、立ち上っている方向は同じだった。
◇
──Another Side──
晩夏の風が、納屋の戸を軽く叩いていた。
ハンナは、薬瓶の蓋を閉めながら、戸口を見ていた。
誰もいない。
ラバは眠っている。
牝馬は、もう腹の痛みを忘れたように干し草を噛んでいた。
あの馬鹿傭兵の匂いも、もう薄い。
それでも床の一部には、まだ薬草の染みが残っている。
ハンナは、それを見て低く笑った。
「人間一匹、洗浄完了、か」
自分で言って、自分でまた笑った。
馬鹿な男だった。
顔から薬草まみれになって、犬に舐められて、それでも最後は、ラバの脚をきちんと押さえた。
ああいう男は、死に場所をよく間違える。
間違えるくせに、誰かの死に場所だけは、必死でまっすぐにしようとする。
だから困る。
だから、馬蹄鉄を渡した。
ハンナは、納屋の奥の棚へ行った。
息子の小さな木箱が置いてある。
その隣に、今日、余った銅貨を一枚置いた。
薬代ではない。
あの馬鹿傭兵が置いていった銅貨でもない。
ただ、彼が馬蹄鉄を持っていった日の納屋の重さを、少しだけ形にしておきたかった。
「行ったよ」
ハンナは、箱に向かって言った。
「あの馬鹿傭兵と、変な家令が、北へ行った」
箱は答えない。
答えないものに話すのは、人間だけだ。
動物は、死んだものに長く話しかけない。
人間は話しかける。
まっすぐ死ねないからだ。
ハンナは、息を吐いた。
「もし、あの家令が本当に王宮に戻るなら、あんたの墓にも花が来るよ」
言ってから、少しだけ笑った。
「王宮から花だってさ。大出世だね」
涙は出なかった。
涙が出ないことに、もう罪悪感もなかった。
十年も経てば、悲しみは涙ではなく、毎日の手の動きに変わる。
薬を煮る。
布を畳む。
動物を撫でる。
死んだ坑夫の子供を見る。
それから、時々、薬草まみれになった馬鹿な男の顔を思い出して笑う。
それくらいは、許されてもいい。
ハンナは、ろうそくを吹き消した。
納屋の中に、夏の夜の青い空気がゆっくり満ちていった。
動物たちは、まっすぐ眠っていた。
人間のハンナだけが、少しだけ遠回りをしてから、目を閉じた。
──第五部 了




