表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

33/75

第五部 獣医ハンナと、まっすぐ死ぬ場所の話 ⑥ 〜馬蹄鉄〜

 別れは、翌々日の朝だった。


 鉱山警備の契約は終わった。


 町は、事故の処理と、支柱の点検と、警告者の葬儀でざわついていた。


 ハンナの納屋では、ラバが前脚をかばいながら立っていた。


 牝馬も、腹の具合を取り戻しつつあった。


 俺を見ると、鼻を鳴らした。


「おい」


 俺は馬に言った。


「お前が暴れたせいで、俺の社会的生命が薬草まみれで死んだ」


 馬は、まったく反省していない目で俺を見た。


 ハンナが後ろで笑った。


「動物は、あんたの品位までは気にしない」


「姐さんは気にしてくれ」


「気にしたよ。だから誰にも言ってない」


「リューリックが見てた」


「じゃあ手遅れだ」


「ひどい」


 ハンナは、また笑った。


 ただし、その笑いはすぐに止まった。


 彼女は、納屋の奥から古い馬蹄鉄をひとつ持ってきた。


 黒く焼け、端が少し歪んでいる。


「持っていきな」


「馬蹄鉄?」


「うちの息子が最後に打ったやつだ」


 俺は、手を出しかけて止めた。


 重そうだった。


 鉄の重さではない。


「いいのか」


「いいから渡してる」


「なぜ、俺に」


「間違えそうだから」


「俺が?」


「あんたは、死ぬ場所をよく間違えそうな男だ」


「……」


「動物は、まっすぐ死ぬ。人間は、まっすぐ死ねない。あんたは人間のくせに、動物みたいに死に場所だけまっすぐ選ぼうとする」


「……」


「それは、やめな」


 ハンナの声は低かった。


 笑っていなかった。


「死ぬときは、せめて、ちゃんとした獣医を呼びな」


「人間用の医者じゃなくて、獣医?」


「動物のほうが、まっすぐ死なせてくれる。あんたの死に方には、その方が合ってる」


 俺は笑いそうになった。


 笑えなかった。


 ハンナの目が、笑っていなかったからだ。


 彼女は犬の頭に手を置いた。


 それから、低く呟いた。


「もう、誰も、まっすぐに死ぬ場所はない」


 誰に向けたものでもない言葉だった。


 強いていえば、十年前の息子と、昨日の警告者と、その妻と、五歳と三歳の子供と、それから彼女自身に、まとめて向けられたものだった。


 まとめて向けるしかなかったのは、彼女がもう、向けるべき一人だけを選べないからだった。


 俺は、馬蹄鉄を革袋にしまった。


 青銅の札が、馬蹄鉄に軽く当たる。


 札の音と鉄の音が重なった。


 重なった音は、調和しなかった。


 ただ、別々に革袋の中に収まった。



 ◇



 リューリックが、後ろで低く頭を下げた。


「ハンナ姐さん、お世話になりました」


「あんたもお世話になった。動物の世話、上手かった」


「家令の家系の副業でございます」


「家令、ね」


「左様で」


 ハンナは、しばらくリューリックの目を見ていた。


 長くはなかった。


 ただ、その間に、彼女の中で何かが最後にひとつ決まったらしい。


「もし、いつか」


「はい」


「その家令の主人が、王宮に戻ったら」


「……」


「私の息子の墓に、一輪、花を置いてくれ」


 俺の中で、何かが冷えた。


 ハンナは、俺の方を見なかった。


 リューリックにだけ頼んだ。


 なぜ彼に頼んだのか。


 答えは簡単だった。


 その王宮に戻る可能性のある人間が、俺よりリューリックだと見抜いていたからだ。


 あるいは、俺が王宮に戻る前に死ぬ可能性も、彼女は計算に入れていたのかもしれない。


 彼女の計算は、いつもの観察結果だった。


 観察結果は、たぶん外れない。


 リューリックは、ほんの一拍、ハンナの目を見た。


 それから、深く頭を下げた。


「畏まりました」


 それだけ言った。


 ハンナは頷いた。


 最短の頷きだった。


 その中に、十年分の息子へのありがとうが入っていた。


 入っていたかどうかを確かめる手段はない。


 ない方が、たぶんよかった。



 ◇



 俺たちは街道に出た。


 町の外に、北の街道がまっすぐ伸びていた。


 春の終わりの風が、もう夏の側の温度を少しだけ持ち始めている。


 風の中には、麦の青さの匂いが混じっていた。


 リューリックが低く言った。


「殿下」


「うん」


「あのお人、気付いておりましたな」


「だろうな」


「我らの出自に」


「ああ」


「それでも、何も言わなかった」


「ああ」


「重いお人だな」


「ああ」


「お懐、また重くなりましたな」


「馬蹄鉄の話か」


「いいえ。約束の話でございます」


「……うるさい」


「家令の家系の副業の本義として、主君の懐の重さの内訳を把握しております」


「お前、いつも把握しすぎだ」


「把握しないと、いつ革袋が破裂するか計算できません」


「破裂するのか」


「いずれ、なさいます」


「家令が本気で心配してるのか」


「左様で」


「……ありがとう」


「お礼は、家令の家系の副業の本義として不要でございます」


「不要でも言う」


「……左様で」


 リューリックは馬の口元を軽く撫でた。


 いつもの最短の動きだった。


 ただし、いつもよりほんの一拍だけ長く、馬の鼻先に触れていた。


 その一拍の長さの中に、彼の中の王宮馬丁の本義の出どころが、わずかに見えた気がした。


 見えた気がしたが、訊かなかった。


 訊くと、彼の中の何かがまた表に出る。


 表に出さない方が、長旅では互いに楽だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ