第五部 獣医ハンナと、まっすぐ死ぬ場所の話 ⑥ 〜馬蹄鉄〜
別れは、翌々日の朝だった。
鉱山警備の契約は終わった。
町は、事故の処理と、支柱の点検と、警告者の葬儀でざわついていた。
ハンナの納屋では、ラバが前脚をかばいながら立っていた。
牝馬も、腹の具合を取り戻しつつあった。
俺を見ると、鼻を鳴らした。
「おい」
俺は馬に言った。
「お前が暴れたせいで、俺の社会的生命が薬草まみれで死んだ」
馬は、まったく反省していない目で俺を見た。
ハンナが後ろで笑った。
「動物は、あんたの品位までは気にしない」
「姐さんは気にしてくれ」
「気にしたよ。だから誰にも言ってない」
「リューリックが見てた」
「じゃあ手遅れだ」
「ひどい」
ハンナは、また笑った。
ただし、その笑いはすぐに止まった。
彼女は、納屋の奥から古い馬蹄鉄をひとつ持ってきた。
黒く焼け、端が少し歪んでいる。
「持っていきな」
「馬蹄鉄?」
「うちの息子が最後に打ったやつだ」
俺は、手を出しかけて止めた。
重そうだった。
鉄の重さではない。
「いいのか」
「いいから渡してる」
「なぜ、俺に」
「間違えそうだから」
「俺が?」
「あんたは、死ぬ場所をよく間違えそうな男だ」
「……」
「動物は、まっすぐ死ぬ。人間は、まっすぐ死ねない。あんたは人間のくせに、動物みたいに死に場所だけまっすぐ選ぼうとする」
「……」
「それは、やめな」
ハンナの声は低かった。
笑っていなかった。
「死ぬときは、せめて、ちゃんとした獣医を呼びな」
「人間用の医者じゃなくて、獣医?」
「動物のほうが、まっすぐ死なせてくれる。あんたの死に方には、その方が合ってる」
俺は笑いそうになった。
笑えなかった。
ハンナの目が、笑っていなかったからだ。
彼女は犬の頭に手を置いた。
それから、低く呟いた。
「もう、誰も、まっすぐに死ぬ場所はない」
誰に向けたものでもない言葉だった。
強いていえば、十年前の息子と、昨日の警告者と、その妻と、五歳と三歳の子供と、それから彼女自身に、まとめて向けられたものだった。
まとめて向けるしかなかったのは、彼女がもう、向けるべき一人だけを選べないからだった。
俺は、馬蹄鉄を革袋にしまった。
青銅の札が、馬蹄鉄に軽く当たる。
札の音と鉄の音が重なった。
重なった音は、調和しなかった。
ただ、別々に革袋の中に収まった。
◇
リューリックが、後ろで低く頭を下げた。
「ハンナ姐さん、お世話になりました」
「あんたもお世話になった。動物の世話、上手かった」
「家令の家系の副業でございます」
「家令、ね」
「左様で」
ハンナは、しばらくリューリックの目を見ていた。
長くはなかった。
ただ、その間に、彼女の中で何かが最後にひとつ決まったらしい。
「もし、いつか」
「はい」
「その家令の主人が、王宮に戻ったら」
「……」
「私の息子の墓に、一輪、花を置いてくれ」
俺の中で、何かが冷えた。
ハンナは、俺の方を見なかった。
リューリックにだけ頼んだ。
なぜ彼に頼んだのか。
答えは簡単だった。
その王宮に戻る可能性のある人間が、俺よりリューリックだと見抜いていたからだ。
あるいは、俺が王宮に戻る前に死ぬ可能性も、彼女は計算に入れていたのかもしれない。
彼女の計算は、いつもの観察結果だった。
観察結果は、たぶん外れない。
リューリックは、ほんの一拍、ハンナの目を見た。
それから、深く頭を下げた。
「畏まりました」
それだけ言った。
ハンナは頷いた。
最短の頷きだった。
その中に、十年分の息子へのありがとうが入っていた。
入っていたかどうかを確かめる手段はない。
ない方が、たぶんよかった。
◇
俺たちは街道に出た。
町の外に、北の街道がまっすぐ伸びていた。
春の終わりの風が、もう夏の側の温度を少しだけ持ち始めている。
風の中には、麦の青さの匂いが混じっていた。
リューリックが低く言った。
「殿下」
「うん」
「あのお人、気付いておりましたな」
「だろうな」
「我らの出自に」
「ああ」
「それでも、何も言わなかった」
「ああ」
「重いお人だな」
「ああ」
「お懐、また重くなりましたな」
「馬蹄鉄の話か」
「いいえ。約束の話でございます」
「……うるさい」
「家令の家系の副業の本義として、主君の懐の重さの内訳を把握しております」
「お前、いつも把握しすぎだ」
「把握しないと、いつ革袋が破裂するか計算できません」
「破裂するのか」
「いずれ、なさいます」
「家令が本気で心配してるのか」
「左様で」
「……ありがとう」
「お礼は、家令の家系の副業の本義として不要でございます」
「不要でも言う」
「……左様で」
リューリックは馬の口元を軽く撫でた。
いつもの最短の動きだった。
ただし、いつもよりほんの一拍だけ長く、馬の鼻先に触れていた。
その一拍の長さの中に、彼の中の王宮馬丁の本義の出どころが、わずかに見えた気がした。
見えた気がしたが、訊かなかった。
訊くと、彼の中の何かがまた表に出る。
表に出さない方が、長旅では互いに楽だった。




