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第七十部 幸せな夜は、別れを選べない話 ③ 踊りの輪と、全部俺の責任だ



 最初の数歩は、問題なかった。


 宴席で踊る曲は、王宮の舞踏会ほど難しくない。


 輪へ入り、隣の者と手を取る。


 二歩進む。


 少しだけ回る。


 足を踏み鳴らす。


 手を離す。


 また、取る。


 山側の者。


 港側の者。


 商人。


 荷運び人。


 役人。


 辺境伯家の娘。


 シーロ共和国の交易を担う女。


 監察官。


 亡国の王子。


 全員が、同じ曲へ合わせて笑っている。


 楽しかった。


 少し前まで、怪我で歩くことも制限されていた。


 酒も禁じられていた。


 追手から逃げていた。


 いまは。


 カミラと踊っている。


「笑っているな」


 レオンは言った。


「何が?」


「カミラ」


「笑っていない」


「口元が」


「前を見ろ」


「見れば分かる」


「前を見ろ」


 言われた直後。


 レオンの踵が、椅子の脚へ当たった。


 まずい。


 そう思った時には、もう遅かった。


 身体が傾く。


 咄嗟に、何かを掴む。


 掴んだのは、カミラの背中側へ結ばれていた細い飾り紐だった。


「待――」


 紐が解ける。


 本人が動きやすさを優先した結果、葡萄色の衣装は、腰の帯と背中の留め具を外せば、比較的素早く脱げる仕立てになっていた。


 短剣へ手を伸ばしやすくするためでもある。


 戦うためには、合理的だった。


 ただし。


 酔っ払った男が、転び掛けながら背中の紐を掴んだ場合については、誰も考えていなかった。


 葡萄色の外衣が、肩から滑る。


 腰へ掛かっていた帯も外れ、布地が床へ広がった。


 その場へ。


 薄い肌着姿のカミラが残った。


 時間が止まった。


 楽団の音だけが、少し遅れて消える。


 レオンは、床へ半分倒れ込みながら、目を見開いた。


 カミラも、動かなかった。


「事故だ」


 最初に出たのは、その言葉だった。


 カミラの顔が、ゆっくりと赤くなる。


「レオン」


 声は、低い。


「事故だ」


「分かっている」


「本当に?」


「だが」


 カミラは、床へ落ちた衣装を拾おうとする。


 その前に。


「カミラさん!」


 リヴィアが、外套を持って駆け寄った。


 同時に、レオンも立ち上がろうとした。


「見ない」


「見るな!」


「見ないために、立つ」


「立つな!」


 レオンは、足元の葡萄色の布を踏んだ。


 滑る。


 再び身体が傾く。


 咄嗟に伸ばした手が、今度はリヴィアの腰へ結ばれていた飾り帯へ掛かった。


 リヴィアが、動きを止める。


「レオン殿」


「違う」


「何が?」


「違う」


 帯が外れる。


 深い紺色の外衣が、肩から滑り落ちる。


「待ってください」


 リヴィアが声を上げる。


 遅い。


 紺色の布が、床へ落ちた。


 肌着姿のリヴィアが残る。


 食堂全体が、完全に沈黙した。


「事故だ」


 レオンは言った。


「二度目です」


 リヴィアの笑顔が消えている。


「連続事故だ」


「立たないでください」


「俺も、そう思う」


 レオンは、今度こそ床へ座り込もうとした。


 しかし。


「リヴィア!」


 アーデルハイトが、衝立代わりに使える大きな布を抱えて走ってくる。


 リヴィアへ掛けようとする。


 リヴィアも、カミラを庇おうとする。


 カミラは、レオンを睨みながら、自分の外衣を拾おうとする。


 全員が、同じ場所へ集まった。


 床には。


 葡萄色の布。


 紺色の布。


 外套。


 飾り帯。


 長い裾。


 そして。


 酔っ払ったレオン。


「動くな」


 カミラが言った。


「分かった」


「絶対に、動くな」


「分かった」


 レオンは、両手を床へ置いた。


 動かない。


 本当に。


 一歩も。


 問題は。


 レオンではなかった。


 リヴィアが、床へ落ちた自分の外衣を踏んだ。


「あっ」


 足が滑る。


 反射的に、隣にいたアーデルハイトへ手を伸ばす。


 しかし、指が掛かったのは、肩ではない。


 背中側へ結ばれた帯だった。


「リヴィア?」


「待って、アーデル」


「何が――」


 緑色の外衣が解ける。


 アーデルハイトの顔が固まる。


 深い緑色の布地が、床へ落ちた。


 肌着姿のアーデルハイトが残った。


 誰も。


 すぐには。


 言葉を出せなかった。


 大食堂の中央。


 床へ座り込んだ酔っ払い。


 その周囲に。


 肌着姿の女性が三人。


 落ちた衣装が、床へ広がっている。


 灯火。


 音楽の止まった食堂。


 固まった客人たち。


 杯を持ったまま、動かないコンラート。


 レオンは、状況を理解しようとした。


 理解した。


 理解したくなかった。


「待ってくれ」


 レオンは言った。


「俺は、最後の一人には、何もしていない」


 アーデルハイトの目が、ゆっくりと細くなる。


「最初の二人には、何かしたと認めるのですか」


「事故だ」


「二度も?」


「連続事故だ」


「レオン殿」


 リヴィアの声は、普段と変わらず穏やかだった。


 それが、むしろ怖い。


「目を閉じてください」


「閉じている」


「開いています」


「いまから閉じる」


「早く」


 レオンは、両手で顔を覆った。


「見ていない」


「指の隙間を閉じろ」


 カミラが言う。


「閉じている」


「開いている」


「周囲の安全を確認するために――」


「閉じろ」


「分かった」


 両手を強く押し付ける。


 視界が消える。


 衣擦れの音。


 何かを拾う音。


 リヴィアが、アーデルハイトへ外套を渡す声。


 アーデルハイトが、カミラへ布を回す声。


 カミラが、低い声で何かを言う。


 聞き取れない。


 聞き取りたくない。


 食堂の端から。


 誰かが、吹き出した。


 次に、ゲルダ。


 ハインツ。


 港側の荷運び人。


 河川倉庫のエルナ。


 笑いは、少しずつ周囲へ広がっていく。


 最初は、堪えていた。


 だが、無理だった。


 大食堂の中央で起きた事故は、あまりにも大きい。


 あまりにも馬鹿馬鹿しい。


 本人たちにとっては、まったく笑い事ではない。


 それでも。


 誰かが笑えば。


 止まらない。


 大食堂全体へ、笑いが広がった。


「笑わないでください!」


 アーデルハイトの声が響く。


 普段の穏やかな口調ではない。


 さらに笑いが増えた。


「笑わないでください!」


「アーデル」


 リヴィアが、何とか宥めようとする。


「リヴィアも、笑いを堪えないでください!」


「ごめんなさい」


「謝りながら笑わないでください!」


「だって」


「だって、ではありません!」


 アーデルハイトの声が、明らかに裏返る。


 カミラは、何も言わなかった。


 静かに外套を羽織る。


 床へ落ちていた短剣を拾う。


 次に。


「レオン」


 低い声で呼んだ。


 笑い声が、少しだけ小さくなる。


「何だ」


「目を閉じたまま、そこへ正座しろ」


「正座?」


「正座しろ」


「床が冷たい」


「正座しろ」


「分かった」


 レオンは、目を閉じたまま姿勢を整えた。


 大食堂の中央。


 床へ正座する。


「レオン」


「何だ」


「事故だな」


「ああ」


「わざとではないな」


「もちろん」


「本当に?」


「信用が足りない」


 少しだけ間が空いた。


「その言葉を、いま使うな」


「分かった」


 次の瞬間。


 頭へ、柔らかな衝撃が落ちた。


「痛い」


 何かを丸めた布で叩かれたらしい。


 柔らかい。


 だが、勢いは強い。


「事故だから、これで済ませる」


「済んでいない気がする」


「まだだ」


 別の足音が近づく。


「レオン殿」


 アーデルハイトだった。


「何だ」


「私には、何もしていないとおっしゃいましたね」


「ああ」


「原因は、誰ですか」


 答えに迷う。


「透明な酒?」


「誰が飲みましたか」


「俺だ」


「誰が立ち上がりましたか」


「俺だ」


「誰が、カミラさんの紐を掴みましたか」


「俺だ」


「誰が、リヴィアの帯を外しましたか」


「事故だが、俺だ」


「原因は?」


「俺だと思う」


「そうですね」


 穏やかな声だった。


 次に。


 頭へ、もう一度、柔らかな衝撃。


「痛い」


「反省してください」


「している」


「足りません」


 さらに、別の足音。


「レオン殿」


 リヴィアだった。


「何だ」


「私も、事故だとは理解しています」


「よかった」


「ですが、次からは、透明な液体を一気に飲まないでください」


「分かった」


「水かどうか、確かめてください」


「分かった」


「酔った状態で踊らないでください」


「分かった」


「女性の衣装を、支えにしないでください」


「最後は、不可抗力だった」


「反省してください」


「分かった」


 頭へ、三度目の衝撃。


「痛い」


 今度は、少しだけ軽かった。


 だが、公開説教は終わらない。


 飲み方。


 確認不足。


 判断力。


 足元。


 踊る必要性。


 女性の衣装へ対する注意。


 そもそも、女医から一杯だけと命じられていた意味。


 水と間違えたとしても、一気に飲む必要があったのか。


 言い訳を重ねるたび、説教は長くなる。


「王子様」


 ゲルダが、笑いながら声を掛けた。


「何だ」


「もう、言い訳しない方がいいよ」


「俺も、そう思い始めた」


「遅いね」


「学びは、継続している」


「今日の授業料は、高かったね」


「俺だけの責任ではないと思う」


 三人の視線が、同時に向いた気配がした。


「俺の責任だ」


 レオンは、すぐに訂正した。


「全部、俺の責任だ」



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