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第七十部 幸せな夜は、別れを選べない話 ④ 杯を置いた指摘と、留置房の壁



 笑い声が、少しずつ収まり始めた頃。


 コンラートが、杯を卓へ置いた。


 それまで、何も言わなかった。


 娘の衣装が落ちた瞬間も。


 レオンが正座させられた時も。


 三人から説教されている間も。


 ただ、静かに見ていた。


 それが。


 一番、怖かった。


「王子殿」


 コンラートが呼ぶ。


「何だ」


「目を開けろ」


「よいのか」


「三人は、外套を着た」


 レオンは、恐る恐る目を開いた。


 カミラは、葡萄色の衣装を整え直すことができず、濃い外套を羽織っている。


 顔は赤い。


 怒っている。


 かなり。


 リヴィアも、紺色の外套を羽織っていた。


 普段より、少しだけ笑顔が硬い。


 アーデルハイトは、緑色の衣装を何とか整え直している。


 顔は赤い。


 耳まで赤い。


 目は。


 明らかに怒っている。


 そして、上座には。


 アーデルハイトの父親。


 アルムロイト辺境伯。


「王子殿」


「何だ」


「娘に、恥をかかせたな」


「事故だ」


「分かっている」


「本当に?」


「故意ならば、話はもっと簡単だった」


「簡単?」


「斬る」


 返答は、短かった。


 レオンは、背筋を伸ばした。


「事故でよかったと思う」


「私もだ」


 コンラートは答えた。


「だが、事故であれば、何をしてもよいわけではない」


「反省している」


「足りん」


「三人から、かなり説教された」


「足りん」


「公開で?」


「足りん」


 コンラートは、護衛兵へ顔を向けた。


「西棟の留置房へ入れろ」


 大食堂が、一瞬だけ静かになる。


「待ってくれ」


 レオンは言った。


「留置房?」


「一晩だ」


「俺は、いまは客人では?」


「客人だ」


「客人を留置房へ?」


「娘の衣装を落とす客人を、自由に歩かせる気はない」


「三人とも、事故だと理解している」


「関係ない」


「酔いも、かなり醒めた」


「明日の朝、女医に判断させる」


「床で反省することと、留置房で反省することに、大きな差はないと思う」


「ある」


「何が?」


「私の気分だ」


 コンラートの返答に、迷いはなかった。


「私情では?」


「そうだ」


 堂々としている。


「辺境伯が、私情で客人を留置房へ入れてよいのか」


「娘の父親として入れる」


「権限の使い方が、少し危険では?」


「王子殿」


「何だ」


「歩け」


 護衛兵が、レオンの左右へ立った。


 大食堂には、再び笑いが広がる。


「待ってくれ」


 レオンは、最後の希望を探した。


「カミラ」


「何だ」


「止めない?」


「一晩、反省しろ」


「リヴィア」


「酔いを醒ました方がよいと思います」


「アーデルハイト」


 アーデルハイトは、しばらくレオンを見た。


 深く息を吐く。


「私も、父上の判断を支持します」


「全員?」


「全員です」


「味方がいない」


「行動に基づいている」


 カミラの返答は、いつもと同じだった。


 レオンは、護衛兵に連れられ、大食堂を出た。


 背後からは、笑い声が聞こえる。


 宴席の音楽も、少しずつ戻り始める。


 一晩の留置房。


 理不尽である。


 だが。


 完全には、否定できない。



 ◇


 西棟の留置房は、簡素な造りだった。


 厚い石壁。


 鉄格子。


 細い寝台。


 毛布。


 水差し。


 小さな机。


 街道で騒ぎを起こした者や、酒場で暴れた者を、事情が分かるまで短時間だけ留め置くための場所である。


 反省するには、十分だった。


 護衛兵が、鉄格子を閉じる。


「朝までです」


「分かっている」


「何かあれば、呼んでください」


「酒は?」


「ありません」


「訊いただけだ」


 鍵が掛かる。


 護衛兵は、笑いを堪えながら廊下へ戻っていった。


 レオンは、寝台へ腰を下ろした。


 透明な酒。


 踊り。


 三人の衣装。


 正座。


 公開説教。


 留置房。


 順番に思い返す。


 途中で、頭を抱えた。


「どうして、こうなった」


 始まりは、水と間違えただけだった。


 少なくとも。


 始まりだけは。


 しばらくすると、廊下の向こうから足音が近づいた。


 護衛兵ではない。


 軽い。


 けれど、迷いがない。


 鉄格子の前へ、カミラが立つ。


 葡萄色の衣装は、外套の下へ残っているらしい。


 灰色の髪も、晩餐会のために整えられたままだった。


 右手には、濃灰色の手袋。


 アーデルハイトから受け取ったもの。


「何だ」


 カミラが尋ねる。


「いや」


「何だ」


「怒っている?」


「怒っている」


「当然だと思う」


「反省している?」


「している」


「本当に?」


 レオンは、少しだけ口元を緩めた。


「信用が足りない」


 カミラの灰色の目が、わずかに細くなる。


「その言葉を使える程度には、酔いが醒めたようだな」


「かなり」


「そうか」


 カミラは、鉄格子の隙間から、小さな布包みを差し出した。


 黒パン。


 乳酪。


 水。


 レオンは、素直に受け取る。


「ありがとう」


「夜中に、腹が減ると思った」


「よく分かっている」


「あんたは、食事のことだけは分かりやすい」


 少しだけ間が空いた。


 晩餐会で、あれほどの騒ぎを起こしたあとである。


 鉄格子越しでなければ、まともに顔を見ることも難しかったかもしれない。


「カミラ」


「何だ」


「本当に、悪かった」


 今度は、冗談へ逃げなかった。


「衣装を選んだことも、着てくれたことも、嬉しかった。だから、台無しにして悪かった」


 カミラは、すぐには答えなかった。


 灰色の目が、ほんの少しだけ揺れる。


「事故だったことは、分かっている」


「許してくれる?」


「明日、リヴィアと、アーデルハイトさんにも、もう一度謝れ」


「もちろん」


「それから」


 カミラは、鉄格子へ少しだけ近づいた。


「透明なものほど、先に確かめろ」


「守る」


「酔った状態で、踊るな」


「守る」


「女性の衣装を、支えにするな」


「それは、意識して避ける」


「当然だ」


 カミラの口元が、わずかに緩む。


 レオンも、笑った。


「ただ」


「何だ」


「似合っていた」


 カミラの動きが止まる。


「忘れろ」


「衣装が落ちたことは、努力する」


「全部だ」


「綺麗だったことまで、忘れるのは難しい」


「レオン」


「本当に」


 今度も、冗談ではなかった。


 カミラは、鉄格子の向こうで少しだけ黙った。


「……それは、好きにしろ」


 低い声だった。


 拒絶ではない。


「明日の朝には、出られる?」


 レオンが尋ねる。


「女医と、コンラートが許せば」


「カミラは?」


「私は」


 カミラは、少しだけ考えた。


「明日、ちゃんと戻ってくれば、それでいい」


「ああ」


 レオンは答えた。


「戻る」


「本当に?」


「守る」


 カミラは、鉄格子の向こうで、ほんの少しだけ目元を和らげた。


「では、休め」


「おやすみ」


「ああ」


 足音が、廊下の奥へ遠ざかる。


 レオンは、寝台へ腰を下ろした。


 黒パン。


 乳酪。


 水。


 一晩の留置房。


 かなり酷い夜だった。


 かなり楽しい夜でもあった。


 明日の朝には、また笑われる。


 リヴィアとアーデルハイトへ、改めて謝る。


 コンラートから、反省できたかと訊かれる。


 ゲルダやハインツにも、透明な酒を水と間違えた王子として、しばらく揶揄われるだろう。


 カミラとは、また歩く。


 市場。


 河川港。


 山道。


 塩煮小屋。


 引換札。


 まだ見ていないものも多い。


 そんな時間が、続くと思っていた。



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