↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

366/446

第七十部 幸せな夜は、別れを選べない話 ② 一杯の葡萄酒と、正常なつもり



 最初のうちは、何の問題もなかった。


 レオンは、葡萄酒を一杯だけ飲んだ。


 料理を食べる。


 ゲルダから、山腹の村へ置いた引換札について話を聞く。


 ハインツから、塩煮小屋の鍋へ不用意に顔を近づけるなと、改めて注意される。


 エルナから、薬箱へ付ける札の輪を、さらに少し大きくしたいと言われる。


 帳面を開いて数字を並べるわけではない。


 それでも、誰かの顔を見ながら話すことで、見えるものがある。


「王子様」


 ゲルダが、向かい側から声を掛けた。


「何だ」


「今日は、黒パンを切らなくていいのかい」


「すでに切られている」


「残念だね」


「俺へ仕事を渡したかった?」


「少しは働かせた方が、酒へ手を伸ばさずに済むだろう」


「一杯しか飲んでいない」


「顔が、少し赤いよ」


「灯火の影響だと思う」


「酒の影響だ」


 カミラが、迷いなく断定する。


「葡萄酒一杯で?」


「あんたは、しばらく飲んでいなかった」


「俺は、酒へ弱い男ではない」


「以前のあんたと、いまのあんたは、同じ身体ではない」


 怪我。


 療養。


 禁酒。


 連日の視察。


 女医の忠告。


 すべてを考えれば、カミラの言葉は正しい。


 だが、素直に認めるのは少し癪だった。


「問題ない」


「酔った人間は、だいたい、そう言う」


 ゲルダが笑った。


 周囲にも笑いが広がる。


 問題が起きたのは、その直後だった。


 給仕が、空いた皿を下げ、新しい料理を運ぶ。


 水差し。


 葡萄酒。


 透明な酒を入れた細長い瓶。


 沿岸部で祝いの席へ出される蒸留酒だった。


 見た目は、水とほとんど変わらない。


 ただし、薄い葡萄酒とは比べものにならないほど強い。


 本来ならば、食事の後半に、小さな杯へ少量だけ注ぐ。給仕も、そのつもりだったのだろう。


 しかし、客人が多い。


 料理も多い。


 誰かに呼ばれた給仕が、透明な酒を入れた瓶を、水差しの隣へ置いた。


 ほんの少しだけ。


 あとで、すぐに戻るつもりで。


「喉が渇いた」


 レオンは言った。


「水を飲め」


 カミラが答える。


「そのつもりだ」


 レオンは、透明な液体を杯へ注いだ。


 何の疑いもなかった。


 だから。


 一息で飲んだ。


 口へ入れた瞬間。


 おかしいと思った。


 喉が焼ける。


 胸が熱い。


 胃へ、火の塊が落ちる。


「何だ、これは」


 レオンは、盛大に咳き込んだ。


 カミラの灰色の目が、杯へ向く。


 次に、瓶へ。


「レオン」


「水ではない」


「見れば分かる」


「見た目では、分からなかった」


 リヴィアも、瓶を確かめる。


「沿岸部の火酒ですね」


 声は穏やかだった。


 だが、目元には、はっきりと不安が浮かんでいる。


「どのくらい飲みましたか」


「水だと思った」


「量を訊いています」


「一杯」


「一杯?」


 アーデルハイトの声が、珍しく高くなる。


「通常は、小さな杯で少しずつ飲むものです」


「先に言ってほしかった」


「飲む前に、確かめてください」


「水差しの隣にあった」


「子どものような言い訳をするな」


 カミラが、酒瓶を取り上げる。


「吐けるか」


「そこまでではない」


「本当に?」


「少し、身体が温まっただけだ」


「顔が赤い」


「葡萄酒も飲んだ」


「それが問題だと言っている」


 レオンは、深く息を吐いた。


 喉が熱い。


 胸も熱い。


 だが、歩けないほどではない。


 むしろ、気分は悪くなかった。


 かなり、よかった。


「問題ない」


 レオンは言った。


「まったく信用できない」


 カミラは答えた。



 ◇


 それから半刻ほど、レオンは、自分では極めて正常に振る舞っているつもりだった。


 ゲルダと話す。


 ハインツの蜂蜜菓子を食べる。


 塩煮小屋の火を消してはいけない理由について、改めて頷く。


 アーデルハイトへ、引換札の切れ目は少し深い方がよいと伝える。


 リヴィアへ、透明な火酒を水差しの隣へ置く場合は、船で使う赤い印を付けるべきだと提案する。


 どれも、極めて適切な会話だった。


 少なくとも、本人は、そう考えていた。


「王子様」


 ゲルダが、笑いながら尋ねる。


「何だ」


「顔が、だいぶ赤いよ」


「灯火だ」


「昼より、灯火が強いのかい」


「宴席だからな」


「目も、少し座っているね」


「塩について、真剣に考えている」


「塩を見る目ではないよ」


 周囲へ笑いが広がる。


「酔っていない」


 レオンは言った。


「酔った人間は、だいたい、そう言う」


 カミラの返答は、早かった。


「不当な評価だ」


「あんたは、今日はもう座っていろ」


「座っている」


「立つな」


「なぜ」


「踊り始めそうだからだ」


「まだ、何も言っていない」


「顔が言っている」


 その時。


 楽団が、少し明るい曲を奏で始めた。


 大食堂の端では、港側から来た者たちが椅子を寄せ、踊るための場所を作っている。


 手拍子。


 足踏み。


 笑い声。


 祝いの席で踊る。


 自然な流れだった。


「一曲だけ」


 レオンは言った。


「駄目だ」


「まだ、誰を誘うとも言っていない」


「誰を誘っても、駄目だ」


「宴席で、女性へ一曲願うことは礼儀だと思う」


「礼儀を理由にするな」


 レオンは、立ち上がった。


 床が、ほんの少しだけ柔らかい。


 だが、問題はない。


 王宮で舞踏を習った。


 傭兵として各地を歩いた頃にも、酒場で踊ったことはある。


 山道も歩けるようになった。


 長椅子へ座り続ける理由はない。


「レオン」


 カミラが、低い声で呼ぶ。


「一曲だけだ」


「座れ」


「文化への理解を――」


「座れ」


 それでも。


 レオンは、カミラへ手を差し出した。


「カミラ」


「断る」


「一曲」


「断る」


「その衣装で、まったく踊らないのは、もったいない」


 カミラの目が、細くなる。


「酒の勢いで、余計なことを言うな」


「酒の勢いではない」


「本当に?」


「綺麗だと思っている」


 言葉だけは、真っすぐだった。


 カミラは、すぐには答えなかった。


 ゲルダが、面白そうに見ている。


 ハインツも、杯を持ったまま、口元をわずかに緩めている。


 リヴィアとアーデルハイトは、止めるべきか、見守るべきか迷っているらしい。


「転ぶな」


 最後に、カミラが言った。


「転ばない」


「足を踏むな」


「踏まない」


「一曲だけだ」


「もちろん」


「それから」


 カミラは、灰色の目を細める。


「妙なことをするな」


「信用が足りない」


「過去の行動に基づいている」


 カミラは、差し出された手を取った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。