↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

365/446

第六十九部 夜更けの茶には、少しだけ本音を混ぜる話 ⑦ 中庭を眺める廊下と、選ばされる別れ



 被服庫の外では、レオンが廊下の窓から中庭を眺めていた。


 衣装選びには参加させてもらえない。


 戸へ近づこうとすれば、被服庫を預かる年配の女から、静かに追い返された。


 女性だけで選ぶ。


 終わるまで待つ。


 極めて明確な指示だった。


「長い」


 レオンは呟いた。


 廊下の向こうから、コンラートが歩いてくる。


 手には、仲買所から届いた帳面がある。


「王子殿」


「何だ」


「何をしている」


「待っている」


「何を」


「明日の――いや、今日の晩餐会の準備が終わるのを」


「必要か」


「客人として、状況を把握する必要がある」


「被服庫の前で?」


「どこで待つかは、自由だと思う」


 コンラートは、閉じられた戸を一度見た。


 次に、レオンを見る。


「離れろ」


「なぜ」


「邪魔だ」


「まだ、何もしていない」


「何かをする前に止める」


 年配の女医と、似た考え方だった。


「辺境伯府では、予防が徹底している」


「困る前に、止める」


「学んだことを、俺へ使わないでほしい」


「使えるものは、使う」


 コンラートは、淡々と答えた。


 その時、被服庫の戸が少しだけ開いた。


 レオンが、反射的に顔を向ける。


 しかし、出てきたのはリヴィアだった。


「レオン殿」


「終わった?」


「まだです」


「少しくらい――」


「駄目です」


「何も言っていない」


「聞かなくても分かります」


 カミラと同じ返答だった。


 リヴィアは、少しだけ笑う。


「晩餐会まで、楽しみにしていてください」


「そこまで言われると、期待してしまう」


「期待してよいと思います」


 珍しく、明確な答えだった。


 レオンは、少しだけ目を細めた。


「本当に?」


「はい」


 リヴィアは、戸を閉じる。


 その向こうから、アーデルハイトの声と、少しだけ困ったようなカミラの声が聞こえた。


 何を話しているのかまでは、分からない。


 レオンは、閉じた戸を見た。


 今日の夜。


 正式な晩餐会。


 久しぶりの葡萄酒。


 いつもとは違う衣装を着たカミラ。


 河川港。


 山側の中継所。


 沿岸部。


 交易商人。


 仲買所の責任者。


 話すべきことも多い。


 考えるべきことも多い。


 それでも、いまは、少しだけ楽しみにしてもよいと思えた。


「王子殿」


 コンラートが呼んだ。


「何だ」


「顔が緩んでいる」


「今日の予定を考えている」


「酒か」


「それだけではない」


「珍しいな」


「評価が低い」


 レオンは、廊下の窓から中庭へ視線を向けた。


 晩餐会の準備が、少しずつ進んでいる。


 食堂へ運ばれる卓。


 磨かれる杯。


 沿岸部から届いた魚。


 山側から届いた乳酪。


 河川港へ入った葡萄酒。


 花。


 灯火。


 客人の名簿。


 給仕の確認。


 穏やかな一日だった。


 少なくとも、その時のレオンには、そう見えた。



 ◇


 夕刻。


 アルムロイト辺境伯府の大食堂では、灯火へ火が入れられた。


 長い卓。


 白い布。


 磨かれた杯。


 沿岸部の魚。


 山側の肉。


 村で作られた乳酪。


 川沿いで採れた春野菜。


 海から届いた塩。


 晩餐会へ招かれた者たちが、少しずつ席へ着き始める。


 河川港の責任者。


 山腹中継所の管理人。


 沿岸倉庫の責任者。


 塩煮小屋のハインツ。


 共同倉庫を預かるゲルダ。


 シーロ共和国の船員。


 役人。


 商人。


 仲買所の責任者。


 コンラートは、卓の上座へ座った。


 アーデルハイトは、まだ姿を見せていない。


 リヴィアも。


 カミラも。


 レオンの前には、葡萄酒の杯が置かれている。


 ようやく。


 長かった。


 怪我。


 女医。


 禁止。


 水。


 薬草酒を奪われた山腹中継所。


 料理へ使われた酒の香りで、わずかな慰めを得た海側の食堂。


 そのすべてを越え、いま、正真正銘の葡萄酒が目の前にある。


 ただし、一杯だけ。


 まだ手を付けてはいけない。


 乾杯まで待つ。


 成人した男として、当然のことだった。


「王子殿」


 コンラートが呼んだ。


「何だ」


「杯を見るな」


「見ているだけだ」


「飲むな」


「乾杯までは、飲まない」


「乾杯のあとも、一杯だ」


「分かっている」


「本当に?」


 何度も聞かれた問いだった。


「信用が足りない」


「過去の行動に基づいている」


 レオンは、葡萄酒から視線を外した。


 その時だった。


 大食堂の扉が開く。


 最初に入ってきたのは、リヴィアだった。


 海の色を思わせる、深い紺色の衣装。


 次に、アーデルハイト。


 山側の春を思わせる、落ち着いた緑色の衣装。


 そして。


 二人の少し後ろから、カミラが歩いてくる。


 レオンは、言葉を失った。


 葡萄酒のことも。


 一杯だけという制限も。


 帳面も。


 仲買所も。


 明日の予定も。


 一瞬だけ、すべて忘れた。


 カミラが、こちらを見る。


 灰色の目が、わずかに細くなる。


「何だ」


 いつもと同じ声だった。


 けれど、いつもと同じではなかった。


 レオンは、ようやく口を開いた。


「いや」


 珍しく、言葉が出ない。


 大食堂では、楽団が静かに音を鳴らし始める。


 灯火が揺れる。


 人々の声が重なる。


 正式な晩餐会が、始まる。


 そして、その夜が終わる頃。


 レオンたちは、誰も想像していなかった形で、別れを選ばされることになる。



 ──第六十九部 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。