第六十九部 夜更けの茶には、少しだけ本音を混ぜる話 ③ 客室の茶と、柔らかくなった沈黙
リヴィアの客室には、三人分の茶と、小さな焼き菓子が用意された。
海側の倉庫から届いた乾燥果実。
山側で採れた胡桃。
蜂蜜。
薄く焼いた生地。
市場で何度か食べたものより、少しだけ小さい。
夕食後でも、手を伸ばせる大きさだった。
窓の外には、夜の谷が広がっている。
月明かりを受けた川が、山々の間を細く流れていた。
昼間には絶えず荷車と驢馬が動いている道も、いまは静かである。
遠くから、水の音だけが届く。
リヴィアは、外套を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。
アーデルハイトも、抱えていた紙を卓の端へ置く。
完全に手放すつもりはないらしい。
リヴィアは、その紙を見た。
「読まないでね」
「読むとは言っていません」
「目が、読もうとしているわ」
「目は、自由です」
「身体の扱い方を考えなさいと言ったでしょう?」
「紙を見ることまで禁じられるとは思いませんでした」
「今夜だけ」
リヴィアは、紙の上へ小さな焼き菓子の皿を置いた。
読むためには、皿を動かさなければならない。
アーデルハイトは、少しだけ眉を寄せる。
「強引です」
「必要な時だけ」
リヴィアは笑った。
カミラは、二人のやり取りを見ながら、椅子へ腰を下ろした。
新しい濃灰色の革手袋を外し、膝の上へ置く。
包帯の外れた右手。
まだ赤みの残る傷跡。
以前より自然に動くようになった指。
それでも、温かい茶の器を持つ時には、ほんの少しだけ慎重になる。
リヴィアは、そのことに気付いた。
何も言わなかった。
代わりに、湯気の立つ器を、カミラが取りやすい位置へ置く。
「どうぞ」
「ありがとう」
カミラは、短く答えた。
受け取る。
ただ、それだけだった。
けれど、数日前までの彼女ならば、必要ないと言ったかもしれない。
誰かから差し出された温かい茶を、自分のために受け取る。
小さな変化である。
「明日は、どのような衣装がよいと思いますか」
アーデルハイトが尋ねた。
仕事の話ではない。
そのためか、カミラは、少しだけ考える時間を必要とした。
「動きやすいもの」
「それは、聞きました」
「派手すぎないもの」
「それも、分かります」
「ほかに、何が必要だ」
「着たいものは?」
リヴィアが尋ねた。
「必要なものではなく、着たいもの」
カミラは、答えなかった。
茶の器へ視線を落とす。
「考えたことがない」
やがて、静かに言った。
驚くほど率直な返事だった。
「晩餐会へ出たことは?」
アーデルハイトが尋ねる。
「ある」
「その時は?」
「必要な服を着た」
「自分で選ばなかったのですか」
「選ぶ理由がなかった」
カミラは、茶へ口を付けた。
「革命のあとにも、監察官として正式な場へ出ることはあった。服は、用意された。場に合っていれば、それでよかった」
「明日は?」
リヴィアが、穏やかに尋ねる。
「仕事の場でもある」
「それだけ?」
問い詰めるような声音ではない。
逃げ道を塞ぐような言葉でもない。
ただ、少しだけ考える余地を置く。
カミラは、窓の外へ視線を向けた。
月。
川。
夜の山。
昼間には見えなかったものが、静かな時間の中で浮かび上がっている。
「……分からない」
低い声だった。
「では、明日、見ながら考えましょう」
アーデルハイトが言った。
「一度で決める必要はありません」
「時間が掛かる」
「午前中は、衣装を見るために空けています」
「仲買所へ行くのでは?」
「帳面の確認は、役人へ任せます」
カミラが、少しだけ目を瞬いた。
「自分で行かないのか」
「行きたいとは思います」
アーデルハイトは答えた。
「ですが、父から、全部を自分で見るなと言われました。人へ任せることも、必要だと」
「コンラートが?」
「はい」
「守るのか」
「努力します」
即答ではなかった。
そのことが、少しだけ可笑しかったらしい。
カミラの口元が、わずかに緩む。
リヴィアは、その笑みを見逃さなかった。
「カミラさんも、明日は仕事を少しだけ休みましょう」
「晩餐会には出る」
「そういう意味ではなく」
「何だ」
「自分のために、服を選びましょう」
カミラは、すぐには答えなかった。
けれど、拒みもしない。
以前より、その沈黙が柔らかい。




