第六十九部 夜更けの茶には、少しだけ本音を混ぜる話 ① 夕食の話題と、引き際の話
晩餐会を翌日に控えた夜、アルムロイト辺境伯府の食事室では、いつもより少しだけ長く話が続いた。
河川港の仲買所へ残されていた印。
山腹中継所で始めた引換札の試験運用。
沿岸部の倉庫へ入る塩。
燻製小屋で減り始めた保存食。
明日の晩餐会へ招く者。
帳面を確認する順番。
どこまでを通常の記録確認として扱い、どこから先を調査として切り分けるか。
軽い銀貨が、意図的に流されたものなのか。
それとも、複数の場所で偶然が重なっただけなのか。
まだ、断定できることは少ない。
だからこそ、急ぎすぎない。
疑う。
記録を見る。
しかし、決め付けない。
アルムロイトへ来てから何度も繰り返されてきた判断が、ここでも必要だった。
「明日の午前中に、仲買所の帳面を確認します」
アーデルハイトは、食卓の端へ置いていた紙をまとめながら言った。
「通常の在庫確認として入ります。塩だけではなく、油、穀物、薬箱も、同じ期間の記録を見ます」
「船側の記録は、私が照合します」
リヴィアが答える。
「出港地の異なる塩袋が、同じ仲買所を経由した理由があるかもしれません。普通の取引ならば、それで終わります」
「普通でなければ?」
レオンが尋ねる。
「普通ではない理由を、探します」
リヴィアの返答は穏やかだった。
けれど、目元には、海路で何隻もの船を動かしてきた者らしい鋭さが戻っている。
カミラも、卓上へ置かれた紙を見た。
「仲買所へ入る前に、港の記録を先に確かめた方がいい。入荷量と、仲買所から出た量が合っていなければ、その時点で見るべき場所が変わる」
「分かりました」
アーデルハイトは、すぐに頷いた。
「それから、明日の晩餐会では、この話を表へ出しすぎないようにします。山道の応急処置と、引換札の試験運用について共有する場ですから」
「帳面の話をしながら食べる飯は、美味くない」
コンラートが言った。
「父上が、それを言いますか」
アーデルハイトが顔を上げる。
「食卓へ帳面を持ち込んでいるのは、父上でしょう」
「まだ開いていない」
「端へ置いてあります」
「置いただけだ」
「食事が終わる前から、次の仕事へ戻る準備をしているように見えます」
コンラートは、娘の顔を見た。
少しだけ間を置き、黒パンをちぎる。
「誰かに似てきたな」
「誰にですか」
「リヴィア殿に」
予想していなかった名前だったらしい。
アーデルハイトが、一瞬だけ言葉へ詰まる。
「私?」
リヴィアも目を瞬いた。
「顔色を見て、食事を取れと止めるところがだ」
「それは、必要だからです」
「そうか」
「父上まで、そちら側へ回らないでください」
「最初から、こちら側だ」
いつもの返答だった。
レオンは、水の杯を手へ取りながら、少しだけ口元を緩めた。
明日の晩餐会では、ようやく葡萄酒を一杯だけ飲める。
年配の女医は、薄い葡萄酒を通常の杯で一杯までと、極めて具体的に制限した。
水で割るならば構わない。
ただし、総量は増やさない。
小さな杯を使って回数だけ増やすことも認めない。
香りを確かめる名目で、別の酒へ手を出すことも認めない。
本人が何も言っていない段階から、あまりにも多くの逃げ道を塞がれている。
信用が足りない。
しかし、飲めないよりはよい。
「王子殿」
コンラートが呼んだ。
「何だ」
「顔が緩んでいる」
「明日の予定を考えていた」
「酒か」
「否定はしない」
「一杯だ」
「知っている」
「増やすな」
「俺は、成人した男だ。自分の限界くらい理解している」
隣に座るカミラが、葡萄酒の杯を置いた。
「その言葉を、明日の夜まで覚えておけ」
「信用が足りない」
「過去の行動に基づいている」
返答には、迷いがなかった。
食卓の向かい側では、アーデルハイトが口元へ手を添えている。
笑いを隠しているらしい。
「アーデルハイト」
「何でしょう」
「いま、笑った?」
「いいえ」
「こちらを見てくれ」
「明日の準備について考えています」
「便利な言葉だな」
「レオン殿から、学んだのかもしれません」
穏やかな声だった。
だが、少しだけ踏み込んでいる。
レオンが、意外そうに顔を上げると、リヴィアが楽しそうに目を細めた。
「アーデルは、もともとこういうところがあるの」
「初めて聞いた」
「必要な時にだけ、出すのよ」
「俺は、必要な相手として認識されたのか」
「少なくとも、放っておいてよい相手ではないと思っています」
アーデルハイトは、何事もなかったように答えた。
隣で、カミラの口元にも、わずかな笑みが浮かんでいる。
アルムロイトへ着いた頃には、見られなかった光景だった。
誰かの言葉へ反応する。
軽く言い返す。
笑いを完全には隠さない。
カミラが、自分の周囲へ置いていた壁は、まだ消えていない。
けれど、以前より少しだけ低くなっている。
レオンは、そのことへ気付いた。
何も言わなかった。
言えば、すぐに壁を戻す。
引き際は、覚えている。
少なくとも、今日までは。




