第六十八部 塩を煮る火を、消さない話 ⑤ 沿岸部の報告と、引き際の話
夕食の席で、コンラートは沿岸部の報告を黙って聞いた。
食卓には、山側の村で作られた乳酪、川魚の香草焼き、根菜と肉の煮込み、黒パン、春野菜の酢漬けが並んでいる。
薄い葡萄酒。
レオンの前にだけ、水。
明日までの辛抱である。
「塩煮小屋で、何を見た」
コンラートが尋ねた。
「残すべき不便」
レオンは答えた。
コンラートの青灰色の目が、わずかに細くなる。
「続けろ」
「南から塩を運ぶ方が、安い。量も多い。船が動き、銀貨が信用され、港も川も使えるなら、それでよい」
「なら、塩煮小屋は要らないか」
「要る」
レオンは答えた。
「必要になってから、火を戻すことはできない。鍋も、槽も、薪も、人も、残しておかなければならない」
「金が掛かる」
「掛かる」
「無駄だと言われる」
「言われる」
「それでも残す?」
「残す」
レオンは、少しだけ考えた。
「ただし、何でも残せばよいわけではない。どこまで残すかを決める。困った時に、最低限の塩を作れる程度に」
「悪くない」
コンラートは、短く答えた。
「国は、最も効率のよい日に合わせて作るものではない」
黒パンをちぎり、煮込みへ浸す。
「道が使えない日。船が来ない日。銀貨を信用できない日。誰かが、約束を守らない日。その日に、何が残るかを考える」
「不便を、残す」
「必要な不便を、選ぶ」
アーデルハイトが補足した。
コンラートは、娘へ視線を向ける。
「似てきたな」
「誰にですか」
「私に」
アーデルハイトは、少しだけ眉を寄せた。
だが、以前のようにすぐ否定はしなかった。
「必要な部分であれば」
静かに答える。
「悪いとは思いません」
コンラートは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
リヴィアも、満足そうに微笑む。
カミラは、卓上の杯へ目を落としながら、わずかに目元を和らげていた。
「もう一つ」
コンラートが言う。
「仲買所の印が残っていたそうだな」
空気が変わる。
アーデルハイトは、沿岸部から持ち帰った紙を卓上へ置いた。
「南側から来た塩。別の港を出た船。山側へ上がった塩。それぞれの記録に、同じ仲買所の印がありました」
「軽い銀貨は」
「現時点では、直接つながっていません」
カミラが答えた。
「ただし、同じ時期に、同じ場所を通った荷と銀貨の流れを確認する価値はある」
「確認しろ」
コンラートは言った。
「ただし、騒ぐな」
「はい」
アーデルハイトが頷く。
「帳面を見せないと言われれば?」
「見せない理由を聞け」
「帳面が消えれば?」
「消した者を探せ」
「仲買所が、正当な取引をしていれば?」
「謝れ」
返答は、短い。
けれど、迷いがない。
疑う。
だが、決め付けない。
正当であれば、認める。
間違えれば、直す。
アルムロイトで何度も見てきた考え方だった。
「明日の晩餐会には、仲買所の責任者も呼びますか」
アーデルハイトが尋ねた。
「呼ぶ」
コンラートは答えた。
「河川港、山側の中継所、沿岸部。関係者を揃える。話は、帳面を確かめてからだ」
「晩餐会の場で、問い詰める?」
レオンが尋ねる。
「食事の場で、帳面を振り回すつもりはない」
「それは、安心した」
「王子殿は、酒の方が気になるか」
「否定はしない」
「許可は?」
「一杯だけ」
「十分だ」
「コンラートまで、そちら側か」
「最初から、そちら側だ」
返答は、いつもと同じだった。
レオンは、水の杯へ口を付けた。
明日の夜。
正式な晩餐会。
久しぶりの葡萄酒。
一杯だけ。
カミラの監視付き。
不自由ではある。
だが、悪くない。
少なくとも、飲めないよりはよい。
「明日は、皆さんにも準備があります」
アーデルハイトが言った。
「準備?」
カミラが尋ねる。
「正式な晩餐会ですから」
「この服では、問題があるか」
カミラは、自分の上着へ視線を落とした。
旅をするための衣服。
監察官として歩くための衣服。
傷んだ部分は直されている。
清潔でもある。
だが、晩餐会へ出るために作られたものではない。
「問題があるわけではありません」
アーデルハイトは答えた。
「ただ、辺境伯府には、客人用の衣装もあります」
「必要ない」
カミラの返答は早かった。
「動きにくい服を着る理由がない」
「晩餐会で、剣を抜く予定はないでしょう?」
リヴィアが尋ねる。
「何が起きるかは、分からない」
「では、動けるものを選びましょう」
「選ぶ?」
カミラが、嫌な予感を覚えた顔をする。
「明日の午前中、被服庫へ行きませんか」
リヴィアは、穏やかに微笑んだ。
「アーデルも一緒に」
「私も?」
「主催者でしょう?」
「それは、そうですが」
「カミラさん一人だけへ選ばせるのは、不公平です」
「私は、必要ない」
「見るだけでも」
「必要ない」
「着るかどうかは、見てから決めればいいでしょう?」
以前、手袋を選んだ時と、ほとんど同じ流れだった。
カミラは、すぐには答えなかった。
アーデルハイトが、困ったような顔をしながらも、完全には拒んでいない。
リヴィアは、最初から引くつもりがない。
「……見るだけなら」
最後に、カミラが答えた。
リヴィアの笑みが、少しだけ深くなる。
「決まりね」
「着るとは言っていない」
「分かっています」
レオンは、何も言わなかった。
口へ出せば、明日の被服庫へ近づくこと自体を禁じられる可能性がある。
しかし、想像する。
正式な晩餐会。
久しぶりの酒。
いつもとは違う衣装を着たカミラ。
考えるだけで、胸の奥へ、妙な期待が生まれる。
「何だ」
カミラが、こちらを見る。
「いや」
「妙な顔をしている」
「明日の葡萄酒について考えていた」
「本当に?」
「もちろん」
嘘ではない。
全部でもない。
レオンは、水の杯を持ち上げた。
引き際は、覚えている。
少なくとも、今日までは。
──第六十八部 了




