第六十八部 塩を煮る火を、消さない話 ② 塩煮小屋の火と、続く学習
塩煮小屋は、岩場へ沿うように建っていた。
海側には浅い水場があり、満潮の時に入り込んだ海水を、一度、木製の槽へ溜める。砂や細かな海藻を沈め、上澄みを別の槽へ移し、最後に平たい鉄鍋へ入れて火へ掛ける。
小屋の中は、暑かった。
海風の冷たさが、戸をくぐった瞬間に消える。
薪の匂い。
濃い潮の匂い。
鉄鍋から上がる白い湯気。
壁へ染み付いた煙。
火の前では、痩せた老人が長い柄杓を使い、鍋の表面へ浮かぶ灰を取り除いていた。
髪は白い。
背も高くない。
けれど、火を扱う手には迷いがなかった。
「また来たのか、アーデルハイト」
老人は、柄杓を動かしたまま言った。
「前に来たのは、半年ほど前です」
「俺にとっては、つい最近だ」
「それは、歓迎されていると受け取ってよいですか」
「好きにしろ」
アーデルハイトの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
老人は、次にリヴィアへ目を向けた。
「海の姫もいるな」
「その呼び名を、ここまで広めたのは誰ですか」
「知らん」
「否定しないのですね」
「船を何隻も連れてくる女は、十分に姫だろう」
リヴィアは、困ったように笑った。
老人の視線が、レオンとカミラへ移る。
「そちらは?」
「客人です」
アーデルハイトが答えた。
「領内を見ていただいています」
「物好きだな」
老人は、レオンの顔をしばらく見た。
「鍋を覗き込むなら、近づきすぎるな。湯気も火傷する」
「分かっている」
「分かっている顔ではない」
「なぜ、初対面の人間まで俺を信用しない」
「鍋へ顔を近づける人間は、だいたい信用しない」
老人は、淡々と答えた。
カミラの口元が、わずかに緩む。
「笑った?」
「笑っていない」
「見れば分かる」
「塩を見ろ」
レオンは、鉄鍋へ視線を戻した。
海水は、まだ透明に近い。
だが、鍋の縁には、白い結晶が薄く付着している。
火へ薪を足す。
水を煮る。
時間を掛ける。
最後に残るものを掬い、乾かす。
言葉にすれば単純である。
しかし、薪も、人手も、時間も必要だった。
「老人」
レオンは尋ねた。
「名前は」
「ハインツ」
「ハインツ。南から運ぶ塩の方が、半分近く安いと聞いた」
「そうだ」
「それでも、ここで作り続ける理由は?」
ハインツは、柄杓を鍋の端へ置いた。
「火を消したら、次に必要になった時、誰が煮る」
問い返された。
「海水は、ある」
「鍋もある」
「薪も、探せばある」
「なら、作れるのでは?」
「今日から始めて、明日には足りると思うか」
レオンは、少しだけ黙った。
ハインツは、火の前へしゃがみ、燃え方を確かめながら続ける。
「海水を溜める槽は、放っておけば割れる。鍋も錆びる。薪も、濡れたものを燃やせば火力が足りん。誰が、どの水を使うか。どこで灰を取るか。どの程度まで煮詰めれば、焦がさずに済むか。知っている人間も、仕事がなければ別の場所へ行く」
「必要になってから、人だけ戻せばよいわけではない」
「戻る理由がないからな」
ハインツは答えた。
「安い塩が船で入る。それは悪くない。山側まで塩を運ぶなら、量も必要だ。だが、船は命令すれば、必ず着くものではない」
「嵐が来る」
リヴィアが言った。
「戦が起きることもあります。港が閉じる。船が別の場所へ回される。航路へ海賊が出る。川の水位が下がり、上流へ運べない」
「銀貨が、信用されなくなることもある」
カミラが付け加えた。
ハインツは、灰色の目を一度だけ細める。
「そうだな」
鉄鍋の中では、白い湯気が絶え間なく立ち上っている。
効率だけを考えれば、消してもよい火である。
南から安い塩が届く。
海路で大量に入る。
辺境伯府が、その塩を山側へ分ける。
小屋で煮るより、早い。
安い。
多い。
それでも、消してはいけない火がある。
「維持するために、辺境伯府が金を出しているのか」
レオンが尋ねると、アーデルハイトが頷いた。
「すべての費用を賄っているわけではありません。沿岸部で使う分は売ります。ただし、採算だけでは残せない部分について、辺境伯府が補っています」
「無駄だと言われない?」
「言われます」
アーデルハイトは、あっさりと答えた。
「安い塩を買える時に、高い塩を作る必要があるのか。別の仕事へ人を回した方がよいのではないか。毎年、意見は出ます」
「それでも残す」
「父が、残すと決めています」
「なぜ?」
アーデルハイトは、ほんの少しだけ考えた。
「困った時にしか価値が見えないものほど、困る前に残す必要があるからです」
昨日までに見たものと、つながっている。
一本だけの道へ頼らない。
橋が閉じれば、迂回路を使う。
荷車が通れなければ、人の背へ荷を分ける。
河川倉庫で記録が遅れるならば、荷と一緒に札を動かす。
銀貨が信用されないならば、受け取った者だけへ損を背負わせない。
安い塩が届く時にも、塩を煮る火を消さない。
「便利なものだけを残せば、国は強くならない?」
レオンが呟くと、カミラがこちらを見る。
「便利であることと、頼り切ることは違う」
「ああ」
レオンは、鉄鍋から上がる湯気を見た。
「不便を、少しだけ残す」
「必要な不便を見分ける」
アーデルハイトが言った。
「何でも残せばよいわけではありません。人も、金も、薪も有限です」
「簡単ではないな」
「簡単ならば、父上も悩みません」
レオンは、少しだけ笑った。
「そこは、似ていると言われてもよい?」
「いまは、構いません」
「珍しい」
「何ですか」
「認めるのだな」
アーデルハイトは、わずかに視線を逸らした。
「必要な部分まで、否定するつもりはありません」
リヴィアが、楽しそうに目を細める。
「少し素直になったわね、アーデル」
「リヴィア」
「褒めているの」
「その言葉は、便利に使いすぎです」
「便利なものだけへ頼るのは、よくないらしいわ」
アーデルハイトが、言葉へ詰まる。
カミラの口元に、今度は隠しきれない笑みが浮かんだ。
リヴィアが気付く。
「カミラさんも、そう思うでしょう?」
急に問われ、カミラの表情が一瞬だけ止まった。
「何が?」
「アーデルは、少し素直になったと思わない?」
カミラは、アーデルハイトを見る。
次に、リヴィアを見る。
どの答えを選んでも、簡単には逃げられない。
「……以前から、素直な人だと思う」
最後に、静かに答えた。
アーデルハイトが、わずかに目を瞬く。
「そう見えますか」
「ああ。必要なことを、必要だと言える。間違いがあれば、直す。簡単なことではない」
仕事について述べただけである。
少なくとも、カミラ本人は、そう考えているのだろう。
それでも、アーデルハイトの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「ありがとうございます」
リヴィアは、何も言わなかった。
ただ、満足そうに笑っている。
レオンも、余計な言葉を差し込まないことにした。
学習は、継続している。




