第六十八部 塩を煮る火を、消さない話 ① 海沿いの集落と、沿岸倉庫
アルムロイト辺境伯府から海沿いの集落までは、馬車で半刻ほどだった。
河川港へ向かう道を途中で外れ、なだらかな丘陵地を南へ回り込む。山々の間を流れてきた川は、やがて幅を広げ、低い岩礁の間から海へ注いでいた。
窓を開けると、空気の匂いが変わる。
濡れた土。
川底の泥。
荷車へ使われる油。
乾燥させた魚。
潮。
ひとつの領地の中でありながら、山腹の村とは別の暮らしがあることを、鼻が先に教えてくれた。
「海が見えた」
レオンは、子どものように窓の外へ顔を向けた。
遠くには、灰青色の水面が広がっている。
水平線まで遮るものはない。
沖合では、三本の帆柱を持つ交易船が、ゆっくりと河口へ向かっていた。その周囲を、漁へ出た小舟が幾つも動いている。
「初めて見るような顔をしているな」
向かい側へ座るカミラが言った。
「海そのものは、初めてではない」
「では、なぜ落ち着かない」
「山道を歩いた翌日に、窓の外へ海が現れれば、多少は気分も変わる」
「泳ぐつもりではないだろうな」
「まだ、何も言っていない」
「あんたは、何も言わない時の方が危ない」
「評価が不当だ」
カミラは答えなかった。
右手には、アーデルハイトから受け取った濃灰色の革手袋を着けている。手の甲側だけを薄い布で二重にした作りであり、山道だけでなく、海風の中でも傷跡を冷やさずに済むらしい。
最初は借りると言い張っていた。
いまも、贈られたと認めているわけではない。
ただし、今日も自然に使っている。
レオンは、そのことを口へ出さなかった。
指摘すれば、返却を思い出させる可能性がある。
人間には、黙って見守るべき変化もある。
馬車の反対側では、アーデルハイトが、今日訪れる場所を帳面で確かめていた。
「最初に、沿岸倉庫へ寄ります。そのあと、燻製小屋と塩煮小屋を見ます」
「塩煮小屋?」
レオンが尋ねる。
「海水を煮詰め、塩を作る場所です」
答えたのは、アーデルハイトの隣へ座るリヴィアだった。
シーロ共和国の船団を預かる女として、海側の視察では、いつも以上に表情が生き生きとしている。
「アルムロイトへ入る塩の大半は、海路で運ばれてきます。南側の塩田で大量に作られたものを船へ載せた方が安い。けれど、沿岸部では、いまも小規模な塩作りを続けています」
「高い塩を作る理由があるのか」
「見れば分かります」
アーデルハイトが答える。
「父上からも、先に説明しないよう言われています」
「コンラートの影響が強くなっていないか」
「父ですから」
「似ていると言われるのは嫌ではなかったのか」
「嫌だとは言っていません」
「褒め方を変えてほしいだけ?」
リヴィアが楽しそうに尋ねる。
アーデルハイトは、少しだけ眉を寄せた。
「リヴィア」
「図星なのね」
「話を戻してください」
返答には困ったような響きがあったが、本気で嫌がっているわけではない。
カミラは、二人のやり取りを聞きながら、口元をかすかに緩めていた。
数日前までならば、一歩引いた場所から眺めていただろう。
いまも、古くからの友人同士と同じように振る舞うわけではない。
けれど、同じ馬車へ座り、自然に会話を聞き、その空気を拒んでもいない。
急がない。
関係は、歩いた距離に合わせて少しずつ変わればよい。
◇
沿岸倉庫は、河口から少し離れた岩場の上に建っていた。
厚い石壁。
低い屋根。
海側へ向いた小さな窓。
外壁には、風と塩を受け続けた跡が白く残っている。
倉庫の前には、大きな木箱、塩袋、縄、魚籠、樽が、通路を塞がないよう種類ごとに並べられていた。
海へ近い場所では、油断すれば、何もかもが湿る。
濡れた魚。
海水を含んだ縄。
船板へ塗る樹脂。
燻製小屋から流れてくる煙。
港とは違う。
だが、生活と仕事の匂いが濃いことは同じだった。
アーデルハイトが倉庫へ入ると、責任者らしい男がすぐに歩み寄った。
五十歳を少し越えた頃だろう。
海風へ晒され続けた顔には深い皺が刻まれ、厚い手袋の指先には、縄を扱ってきた者らしい硬さがある。
「アーデルハイト様。お待ちしておりました」
「急に時間を作っていただき、ありがとうございます」
「道が崩れ、山側の荷を止めたと聞きました。こちらで確認できるものがあれば」
「塩の動きを見せてください」
「こちらです」
男は、倉庫の奥へ案内した。
壁際には、塩袋が積まれている。
山腹の村で見た共同倉庫より、はるかに多い。
大きさも揃っていた。
縄で口を縛り、表面へ産地と搬入日を示す印を付けている。
南側から海路で入った塩。
王国側の河港を経由して運ばれた塩。
沿岸部で作られた塩。
置かれる場所も、印の形も違う。
「こちらが、南側から入ったものです」
責任者が言った。
「量が多いな」
レオンは、積まれた袋を見上げた。
「安いのです」
「どの程度?」
「沿岸部で煮たものと比べれば、半分近い値段になることもあります」
「それほど違うなら、すべて船で運べばよいのでは?」
問い掛けると、責任者はすぐには答えなかった。
アーデルハイトも、説明しない。
コンラートの教育方法が、周囲へ広がっている気がする。
「まず、塩煮小屋へ行きましょう」
リヴィアが言った。




