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第六十七部 助けるための札で、恥をかかせない話 Another Side:レイラ

 ローヴィク港の音は、岩礁の向こうへ入ると、急に遠くなった。


 秤の錘が木台へ落ちる乾いた音。


 魚籠を運ぶ者たちの声。


 縄を巻き取る音。


 記録小屋の老人へ、追跡者が何かを問い詰める声。


 どれも、狭い水路の奥へ進むにつれて、潮騒の中へ溶けていく。


 ヨルンの小舟は、左右へ突き出した岩の間を、ゆっくりと抜けていた。


 干潮の時にだけ現れる水路である。


 海藻が、水面の下で長く揺れている。少しでも進路を誤れば、舟底が岩へ触れる。昨夜、ルーウェンが亀裂を塞いだ板も、必要以上の衝撃へ耐えられるわけではない。


 ヨルンは、櫂を大きく動かさなかった。


 潮へ船首を合わせる。


 波が押す方向を読む。


 岩へ近づきすぎた時だけ、櫂の先を海水へ入れ、ほんの少し角度を変える。


 急がない。


 けれど、止まらない。


 六日間の海路でも、何度も見た背中だった。


 舟の前側では、エッダが身を乗り出し、水面の色を確かめている。赤茶色の髪は頭巾の下へ押し込まれていたが、横から吹き込む風を受け、短い毛先だけが頬へ触れていた。


「少し右」


 エッダが言う。


 ヨルンは、短く頷く。


「もう少し」


 櫂が一度だけ動く。


 舟底のすぐ近くを、暗い岩が通り過ぎた。


 レイラは、知らず知らずのうちに止めていた息を吐いた。


「息を止めても、舟は軽くならない」


 向かい側へ座るルーウェンが言った。


 昨日までと同じ、厚い毛織りの上着。


 同じ淡い金髪。


 同じ深い緑色の目。


 ただし、腰には細身の杖がある。


 胸元の革袋には、百年近く使わなかったという白金色の徽章が入っていた。


「止めていましたか」


「顔を見れば分かる」


「それほど、分かりやすい顔をしていたとは思いません」


「分かりにくいと思っているのは、自分だけだ」


 レイラは、少しだけ黙った。


 似たようなことを、エッダにも言われた気がする。


「ルーウェンさん」


「何だ」


「本当に、道は分かるのですか」


「知っている」


 答えは早かった。


「百年前と、森の入口が同じ場所にあるならば」


 レイラは、ルーウェンを見る。


「変わっている可能性があるのですか」


「森は動く」


「動く?」


「人間の城壁とは違う。古い道を残すこともあれば、忘れさせることもある。門を閉じれば、何度歩いても同じ場所へ戻される」


「それは、困りますね」


「困るな」


 ルーウェンは、淡々と答えた。


「だが、森が閉じているならば、無理に入るべきではない」


「三百年前の誓約があっても?」


「誓約は、扉を壊すための槌ではない」


 腰へ結んだ杖へ、ルーウェンの指先が一度だけ触れる。


「中にいる者へ、扉を開けるかどうか考えさせるための印だ」


 レイラは、胸元の革袋へ手を置いた。


 白い羽根。


 アルストラの修道女から渡された、本物の誓約の印。


 持っているだけで、道が開くわけではない。


 名前を明かしただけで、味方が増えるわけでもない。


 森へ着いたあと、何を求めるのか。


 何を渡せるのか。


 自分で答えなければならない。


 兄が生きていれば、もっと軽い言い方をしたかもしれない。


 扉は、叩かなければ開かない。


 壊したら怒られる。


 たぶん、その程度の言葉で。


 舟が、最後の岩礁を抜けた。


 目の前へ、少し広い海面が現れる。


 西側には、低い崖が続いていた。その間に、外からは見落としてしまいそうなほど細い入り江が開いている。


 ヨルンは、舟をそちらへ向けた。


「降りる場所?」


 レイラが訊くと、エッダが頷く。


「ここから先は、舟より歩いた方が早い。海沿いを西へ進めば、森へ近づく道があるって」


「昔はな」


 ルーウェンが言う。


「いまもあるかは、歩いて確かめる」


「先生」


「何だ」


「さっきから、不安になることばかり言ってない?」


「間違ったことは言っていない」


「そういうところ」


 エッダは、呆れたように息を吐いた。


 ヨルンの口元が、ほんの少しだけ動く。


 笑ったらしい。



 ◇


 入り江には、桟橋も、港務番の小屋もなかった。


 波へ削られた岩場の間へ、小舟を寄せられる程度の平地があるだけである。


 海風を避けるように低い木が生え、その奥には、山裾へ続く細い獣道が伸びていた。


 ヨルンが舟を岩へ寄せる。


 エッダが先に降り、濡れた縄を太い根へ回した。


「滑るから、ゆっくり」


「大丈夫です」


 レイラが答えると、エッダは顔を上げた。


「六日前にも、似たことを言ってた」


「今回は、本当に」


「なら、急がなくても降りられるよね」


 言い返せない。


 レイラは、舟の縁へ手を置き、慎重に岩へ足を下ろした。


 身体は、以前より船の揺れへ慣れている。


 ただし、陸へ立つと、足元がほんの少しだけ頼りない。


 エッダは、手を掴まなかった。


 必要であれば支えられる距離へ立つ。


 それだけだった。


 レイラが自分の足で岩場へ降りると、満足そうに頷く。


「立てた」


「立てると言いました」


「歩ける?」


「歩けます」


「なら、少し安心」


 ヨルンとルーウェンも舟を降りた。


 ルーウェンは、腰へ結んでいた杖を外し、石の上へ先端を置く。


 歩くために必要としているようには見えない。


 百年ぶりに戻すことを決めた、古い旅道具。


 森へ近づくための印。


 そのどちらでもあるのだろう。


 エッダは、舟の中から布袋を一つ取り出した。


 乾燥魚。


 黒パン。


 水を入れた小さな革袋。


 薄い毛布。


 必要最低限の荷である。


「持っていって」


「十分に助けていただきました」


 レイラは答えた。


「ここから先は、自分で――」


「森に着く前に、お腹が空いたら困る」


「ですが」


「返したいなら、戻ってきた時に返して」


 エッダは、少しだけ笑った。


「魚籠を運ぶ仕事が残ってるから」


 ローヴィク港の岸壁で、追跡者の目を避けるために持たされた魚籠。


 少年ニルが海へ落ちた時、思わず手放した魚籠。


 散らばった魚を拾おうとして、エッダから呆れられた。


 六日間の海路を終え、港を出たあとまで、まだ仕事が残っているらしい。


「分かった」


 レイラは、布袋を受け取った。


「戻れたら、働く」


「戻れたら、ではなく」


 エッダは言葉を切った。


 ほんの少しだけ迷ったあと、続ける。


「戻ってきて」


 海風が、入り江へ吹き込む。


 レイラは、すぐには答えられなかった。


 追われている。


 森へ入れるかも分からない。


 古い誓約が、自分を守るものなのか。


 あるいは、さらに大きな問題へ巻き込むものなのか。


 何一つ、確かではない。


 それでも、戻ってきてほしいと言われた。


 王女としてではない。


 リュカリオンの名を持つ者としてでもない。


 六日間、同じ舟へ揺られたマリアとして。


「うん」


 レイラは答えた。


 ありがとうございます、ではない。


 深く頭を下げることもしない。


 エッダが望んでいる言葉は、きっと、もっと簡単なものだった。


「戻ってくる」


「よし」


 エッダは頷いた。


 それだけだった。


 ヨルンは、二人のやり取りが終わるのを待っていた。


「日が落ちる前に戻る」


 エッダへ言う。


「分かってる」


「潮は待たん」


「分かってるって」


「西へ風が変われば、遠回りする」


「お父さん」


「何だ」


「私も、六日間ずっと乗ってた」


「確認だ」


 エッダは、少しだけ眉を上げる。


 次に、レイラを見る。


「膝より先に、娘へ訊くことを覚えてほしい」


「膝は、訊かなくても答える」


 ヨルンの返答は変わらない。


 レイラは、思わず口元を緩めた。


 六日前なら、遠慮して笑わなかったかもしれない。


 いまは、少しだけ違う。


「マリア」


 エッダが呼ぶ。


 人のいない入り江である。


 追跡者もいない。


 それでも、港を離れるまでは、マリアでよいのだろう。


「何?」


「気を付けて」


「エッダも」


「うん」


 ヨルンが、ルーウェンを見る。


「戻るのか」


「森へか」


「ああ」


「そのつもりだ」


「そうか」


 ヨルンは、百年ぶりの帰郷へ向かう者に対しても、それ以上の言葉を重ねなかった。


 ただ、舟の底へ置いていた小さな樹脂壺を取り、ルーウェンへ投げる。


 ルーウェンが片手で受け止めた。


「舟板の残りだ」


「岸へ戻ったら、改めて直せ」


「お前が戻ったら、頼む」


 ルーウェンの指が、樹脂壺の表面で止まる。


「戻らない可能性もある」


「なら、別の職人を探す」


「そうしろ」


 ヨルンの口元が、ほんの少しだけ動いた。


「だが、戻った方が早い」


 ルーウェンは、しばらくヨルンを見た。


 やがて、小さく息を吐く。


「善処する」


「守れ」


「人間は、細かい」


「百年戻らない奴へ言われたくない」


 今度は、エッダが声を上げて笑った。


 ルーウェンは、少しだけ面倒そうな顔をした。


 けれど、樹脂壺を返さなかった。



 ◇


 ヨルンの小舟が入り江を離れたあと、海の音だけが残った。


 舟は、来た時と同じ岩礁の間へ入っていく。


 先頭にはエッダ。


 船尾にはヨルン。


 赤茶色の髪が、風へ揺れる。


 やがて、帆の上端だけが岩の向こうへ見え、最後には、それも消えた。


 レイラは、しばらく同じ場所へ立っていた。


「行くぞ」


 ルーウェンが言った。


「はい」


「荷は」


「持てます」


「訊いていない」


 レイラは、布袋の位置を直した。


「では、何を」


「重すぎるなら、先に言え」


「大丈夫です」


「少しだけ、とは言わないのか」


「言いません」


「学んだな」


 褒められたようには聞こえなかった。


 それでも、レイラは少しだけ笑った。


 海沿いの道は、道と呼ぶには細かった。


 岩場。


 低い草。


 海風に曲げられた木々。


 崖の間へ残る、わずかな平地。


 人が頻繁に使っている形跡はない。


 ただし、完全に消えているわけでもない。


 ところどころへ、古い石が並べられている。


 自然に転がったものではない。


 同じ大きさ。


 同じ間隔。


 崖へ沿って、西へ続いている。


「昔の道?」


 レイラが尋ねる。


「ああ」


「シルヴァスへ?」


「正確には、門の外へ」


「中へ入れるとは限らない」


「そうだ」


 ルーウェンは、淡々と答えた。


「何度も言うのですね」


「期待させすぎるよりよい」


「否定はしません」


 しばらく歩く。


 海の音は、少しずつ遠くなった。


 道が山裾へ入り込み、周囲の木々が増えていく。


 フィヨルドの低木とは違う。


 幹が細い。


 枝が長い。


 葉は深い緑色で、春先だというのに、冬を越した疲れが見えない。


 風が吹いている。


 それでも、枝葉の揺れる音が少ない。


 海鳥の声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。


 静かだった。


 何もいない静けさではない。


 何かが、こちらを見ている。


 レイラは、胸元の革袋へ手を置いた。


「ここから?」


「ああ」


 ルーウェンは、足を止めた。


 目の前には、木々しか見えない。


 道は、まだ続いているようにも見える。


 ただし、よく見れば、奇妙だった。


 同じ形の白い石を、先ほどから三度見ている。


 苔の付き方。


 端へ走る細い亀裂。


 根元へ落ちた、小さな枝。


 少し前にも通った。


 違う道を歩いているつもりで、同じ場所へ戻されている。


「閉じている」


 ルーウェンが言った。


「森が?」


「門が」


「どうしますか」


「待つ」


 簡潔だった。


「叩かないのですか」


「叩く」


「どちらですか」


「叩いてから、待つ」


 ルーウェンは、腰の杖を抜いた。


 百年近く使わなかった旅道具。


 白金色の徽章を、胸元の革袋から取り出す。


 葉を重ねた古い紋様。


 森を離れた日から、一度も使っていない印。


 白い石の前へ立つ。


 杖の先を、土へ置く。


 ルーウェンは、人間の言葉ではない短い音を口にした。


 舟板を直した時と、少し似ている。


 ただし、同じではない。


 木へ、自分の形を思い出させる声ではなかった。


 長く閉ざされた扉の向こうへ、自分の名を渡す声だった。


 森の中へ、淡い緑色の光が広がる。


 幹。


 枝。


 葉。


 苔。


 根。


 呼吸をするように、一度だけ明るくなる。


 すぐに、消えた。


 何も起きない。


 鳥の声も戻らない。


 道も開かない。


 ルーウェンは、杖を土へ置いたまま待った。


「届いたのですか」


 レイラが尋ねる。


「届いていれば、誰かが来る」


「どのくらいで?」


「分からん」


「百年前と、同じなら?」


「日が暮れる前には」


「百年前と、違えば?」


「分からん」


 ルーウェンの返答は、一貫している。


 嘘は言わない。


 安心させるためだけの言葉も使わない。


 レイラは、近くの石へ腰を下ろした。


 布袋を膝へ置く。


 革袋へ触れる。


 白い羽根は、まだ中にある。


 森へ見せる時を、自分で選ばなければならない。


 名前を渡す時も。


 助けを求める時も。


 追われている。


 急ぐ必要がある。


 ただし、急ぐことと、焦ることは違う。


 六日間の海路で覚えたことだった。


 少しだけ待つ。


 風が枝の間を抜ける。


 音は、ほとんどない。


 レイラは、胸元から革袋を取り出した。


「まだ出すな」


 ルーウェンが言った。


「分かっています」


「では、なぜ触る」


「あることを、確かめています」


「羽根は逃げない」


「知っています」


「なら、休め」


 レイラは、少しだけ口元を緩めた。


「ルーウェンさんも、エッダに似ていますね」


「どこが」


「休ませようとするところが」


「倒れられると、荷物が増える」


 最初に小舟へ乗った時、エッダが言った言葉と似ている。


「私は、荷物ですか」


「少なくとも、いまは俺が運ぶ側だ」


 レイラは、少しだけ笑った。


 その時だった。


 革袋の内側で、何かが触れた。


 風ではない。


 指先でもない。


 白い羽根が、ほんの少しだけ動いた。


 レイラは、呼吸を止める。


「ルーウェンさん」


「ああ」


 ルーウェンも、森を見ていた。


 枝の間から、一枚の葉が落ちる。


 深い緑色。


 春先の若葉ではない。


 長い冬を越した、厚い葉。


 地面へ届く前に、風もないのに向きを変えた。


 レイラの前へ落ちる。


 次に、白い石の向こうで、木々がわずかに動いた。


 道が開いたわけではない。


 誰かが現れたわけでもない。


 ただし、先ほどまで完全に閉じていた森が、一度だけ呼吸をした。


 ルーウェンの深い緑色の目が、わずかに細くなる。


「森が、気付いた」


 レイラは、膝の上へ落ちた葉を見た。


 胸元の革袋へ戻した白い羽根は、まだ見せていない。


 それでも、森は、こちらを見ている。


 自分が何者なのか。


 何を求めて来たのか。


 すぐに答えを出すつもりはないのだろう。


 それでよかった。


 レイラもまた、自分の答えを、まだすべて持っているわけではない。


 門は、開いていない。


 ただし、閉じたままでもなかった。


 森の奥から、何かが近づいてくる音がした。



 ──Another Side 了


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