第六十七部 助けるための札で、恥をかかせない話 ⑤ 医務室の診察と、途中からは使えた札
辺境伯府へ戻った頃には、谷へ夕方の影が落ち始めていた。
馬車を使ったため、身体の疲れは前回ほど強くない。
それでも、レオンは客棟へ戻る前に医務室へ寄るよう命じられ、カミラも右手を診てもらうことになった。
年配の女医は、二人の状態を確かめたあと、記録へ短く書き込んだ。
「無理をしなかったようですね」
「俺も、成長している」
「明日も、同じようにしてください」
「酒は?」
「まだ駄目です」
「確認しただけだ」
「何度訊いても、答えは変わりません」
「完全に治ったら、許可する?」
「傷の引きつれが消え、連日歩いても痛みが戻らず、身体を捻っても問題がなければ」
レオンは、少しだけ目を細めた。
「言ったな」
「何を?」
「完全に回復すれば、酒を飲んでよいと」
「適量です」
「もちろんだ」
即答した。
女医は、信用していない顔をした。
カミラも、隣で同じ顔をしている。
「何だ」
「適量という言葉の意味を、晩餐会の前に確認した方がよさそうだな」
「俺は、自分の限界を理解している」
「あんたの限界は、いつも、倒れたあとに見つかる」
「過去の失敗を、未来へ持ち込まないでほしい」
「過去の行動に基づいている」
女医と同じ言葉だった。
レオンは、味方がいないことを再び理解した。
◇
夕食の席で、コンラートは、札を試した結果について短く尋ねた。
「使えたか」
「途中からは」
レオンは答えた。
「最初は、誰も使わなかった」
「なぜだ」
「卓を分けたからだ」
コンラートの青灰色の目が、わずかに細くなる。
「軽い銀貨を持っている者だけが、別の卓へ行く形になった。札を受け取る前に、自分は怪しい銀貨を持っていると、周囲へ知らせなければならなかった」
「それで?」
「塩を買わずに帰ろうとした人がいた」
「変えたのか」
「ああ。普通の取引へ混ぜた。全部の銀貨を量る。軽いものが出た時だけ、静かに札を渡す。詳しいことは、人目のない場所で聞く」
「誰が気付いた」
「全員だ」
レオンは、正直に答えた。
「最初に、俺が失敗したと思った。アーデルハイトが謝った。リヴィアが、本人の言いにくいことを先に言った。カミラが、取り調べを始めるなと言った」
コンラートは、しばらく黙っていた。
食卓の端へ置かれた報告書へ目を落とす。
「王子殿」
「何だ」
「仕組みは、誰のために作る」
「使う人間のために」
「正しい仕組みならば、使われるか」
「使われないこともある」
「なぜだ」
「正しいだけでは、足りないからだ」
レオンは、少しだけ考えた。
「使う人間が、恥をかく。疑われる。面倒だと思う。分かりにくい。怖い。そう感じれば、必要でも来なくなる」
「それで?」
「入口を見る」
「悪用する者だけではなく?」
「助けたい者が、入れる形になっているかを見る」
コンラートは、黒パンをゆっくりとちぎった。
「少しは、学び方を覚えたな」
「褒められた?」
「少しは」
昨日と、同じ返事だった。
それでも、以前より少しだけ素直に受け取れた。
「もう一つ」
コンラートが言う。
「何だ」
「明日は、海側へ行け」
「港なら、すでに見た」
「港ではない」
コンラートは、卓の端へ置かれていた地図を開いた。
海岸線。
河口。
岩岬。
河川港から少し離れた沿岸部。
山裾と海岸の間へ、細く伸びる道。
幾つかの小さな集落。
「漁村か」
レオンが尋ねる。
「山だけを見て、アルムロイトを知ったつもりになるな」
コンラートは答えた。
「海へ出る者も、同じ領地で暮らしている」
「何を見る」
「自分で決めろ」
「また、それか」
「見る前に答えを教えて、何を学ぶ」
コンラートの返答は、短かった。
リヴィアが、地図の沿岸部へ視線を落とす。
「明日は、私も役に立てそうですね」
「海の姫として?」
レオンが尋ねる。
「その呼び方を、まだ続けるつもりですか」
「定着している」
「広めないでください」
「事実を止めないだけだ」
アーデルハイトが、ほんの少しだけ口元を緩める。
「誰かと似た言い方ですね」
「アーデル」
リヴィアが、困ったように名前を呼ぶ。
その横で、カミラもわずかに笑った。
まだ、完全に同じ輪の中へ入ったわけではない。
けれど、以前ほど遠くもない。
レオンは、水の杯を持ち上げた。
明日は、海を見る。
山腹の道。
共同倉庫。
冬の塩。
小さな秤。
引換札。
恥をかかずに助けを受け取れる入口。
アルムロイトで学ぶことは、まだ多い。
酒を飲める日は、まだ遠い。
それだけは、少し不満だった。
──第六十七部 了




