第六十六部 助ける仕組みには、入口を作る話 ③ 三種類の手袋と、笑った方が綺麗だという話
同じ頃。
辺境伯府の奥にある被服庫では、カミラが、三種類の手袋を前にして困っていた。
昨日借りた濃い灰色の革手袋は、使いやすかった。
右手の指も動かしやすい。
山道で縄を掴んだ時にも、傷跡へ強く当たらなかった。
それで十分だった。
カミラとしては、その一組を借りたまま、必要な視察を終えれば返すつもりだった。
しかし、アーデルハイトとリヴィアは、そう考えていないらしい。
「昨日の手袋は、山道を歩くには悪くありません」
アーデルハイトは、作業卓の上へ置かれた革手袋を一つずつ確かめながら言った。
「ただ、雪が残る場所まで行く場合は、内側へ薄い布を重ねた方がよいと思います」
「そこまで用意してもらう必要はない」
「視察用の備品です」
「昨日も聞いた」
「必要性は、昨日より分かりやすくなりました」
アーデルハイトは、穏やかな口調を崩さない。
だが、引くつもりもないらしい。
「傷跡が冷えて硬くなれば、右手を庇います。右手を庇えば、歩く時の姿勢も変わる。山道では、小さな変化でも転倒につながります」
「正しいわね」
リヴィアが横から言った。
今日は船団の仕事を午後からに回したらしく、濃紺の外套ではなく、少し軽い上着を着ている。
腰へ下げていた革袋も、被服庫の作業卓へ置いていた。
「手袋を借りるだけで、そこまで話が広がるとは思わなかった」
カミラは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「必要な道具を選んでいるだけよ」
「昨日借りたもので足りる」
「足りるかもしれない」
リヴィアは答えた。
「でも、もう少し使いやすいものがあるなら、試してみてもいいでしょう?」
「困ってはいない」
「困ってから替えるより、困る前に選ぶ方がいいわ」
カミラは、返事に詰まった。
昨日、道が崩れた時にも、同じことを考えた。
崩れてから直す。
道が止まってから、迂回路を探す。
薬が足りなくなってから、荷を急いで送る。
もちろん、起きたあとに対処しなければならないこともある。
けれど、困る前に選べるものがあるならば、その方がよい。
国の話であれば、すぐに理解できる。
自分のこととなると、受け入れにくい。
「こちらは?」
アーデルハイトが、内側へ薄い布を縫い付けた手袋を差し出した。
「指先が厚くなりすぎないよう、手の甲側だけを二重にしています」
カミラは、受け取った。
右手を入れる。
指を開く。
握る。
昨日のものより少し温かい。
それでも、動かしにくくはない。
「悪くない」
「よかった」
アーデルハイトの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「では、こちらを使ってください」
「借りる」
「返さなくて構いません」
「それは困る」
「なぜですか」
「借りたものを、返さない理由がない」
「使う方が決まっている備品を、倉庫へ戻しても仕方がありません」
「それでも――」
「カミラさん」
リヴィアが、静かに呼んだ。
声は柔らかい。
けれど、笑ってはいなかった。
「受け取ってもいいのよ」
カミラは、手袋へ視線を落とした。
「私は、客人だ」
「そうですね」
アーデルハイトが答える。
「ですが、客人へ必要なものを渡してはいけない理由はありません」
「私は、何も返せない」
言葉が、思ったよりも早く口から出た。
カミラ自身が、一瞬だけ目を伏せる。
返せないものは、受け取らない。
借りを作らない。
必要なものは、自分で用意する。
自分で用意できなければ、我慢する。
奴隷として生きていた時には、与えられるものには理由があった。
革命の中では、余分なものを受け取れば、誰かの分が減った。
監察官となったあとも、自分だけが多く持つことを避けてきた。
誰かから、ただ気遣われる。
そのことへ、慣れていない。
「昨日、村で意見をいただきました」
アーデルハイトは、少しだけ間を置いてから言った。
「道の使い方。荷の優先順位。共同倉庫の記録。どれも、私一人では気付けなかったことです」
「仕事として、話しただけだ」
「それでも、助かりました」
「だからといって――」
「仕事の対価として渡すのではありません」
アーデルハイトの声は、穏やかだった。
「必要な人へ、必要なものを渡す。それだけです」
カミラは、すぐには答えなかった。
リヴィアも、急かさない。
作業卓の向こうでは、被服庫を預かる年配の女が、別の外套のほつれを直しながら、会話を聞いていないふりをしている。
やがて、カミラは、新しい手袋を着けた右手を一度だけ開いた。
「……使わせてもらう」
「はい」
アーデルハイトは、静かに頷いた。
それだけだった。
大げさに喜ばない。
受け取れたことを、特別な出来事として扱わない。
その方が、カミラには楽だった。
「それから」
リヴィアが言った。
「何だ」
「薬草油は、ちゃんと使った?」
「昨夜、少し」
「少し?」
「必要な分だけだ」
「女医には、朝も塗るよう言われたのでは?」
カミラは、少しだけ黙った。
「忘れていた」
「では、いま塗りましょう」
「あとでいい」
「あとで、は信用できないわね」
「自分で塗れる」
「知っています」
リヴィアは、笑った。
「でも、ここにあるのでしょう?」
作業卓の端には、昨日ゲルダから受け取った小さな陶器の壺が置かれている。
カミラは、しばらく壺を見つめた。
そのあと、自分で蓋を開け、傷跡の周囲へ薬草油を薄く塗った。
指先へ、少し青い香りが移る。
「これでいいか」
「よいと思います」
アーデルハイトが答えた。
リヴィアも、満足そうに頷く。
「二人とも、女医のようになってきたな」
カミラが言った。
「光栄です」
アーデルハイトは、真面目に答えた。
「褒めていない」
カミラの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その変化を見て、リヴィアも笑う。
「カミラさんは、笑った方が綺麗ね」
カミラの動きが止まった。
「急に、何を言う」
「思ったことを言っただけ」
「必要のない感想だ」
「必要があることしか話してはいけないの?」
リヴィアは、少しだけ首を傾けた。
「それでは、疲れるでしょう」
カミラは、すぐには答えなかった。
作業卓の上には、手袋が並んでいる。
灰色。
茶色。
深い緑。
厚いもの。
薄いもの。
雪の残る道で使うもの。
港で使うもの。
長く物資を扱う者が、自分の仕事へ合わせて選んできた道具である。
必要なものを選ぶ。
それだけの場所だった。
けれど、必要ではない言葉まで受け取ってよいと言われると、どう答えればよいのか分からない。
「……そういうことには、慣れていない」
ようやく、カミラは答えた。
低い声だった。
拒絶ではない。
ただ、正直な言葉だった。
「では、少しずつ慣れてください」
リヴィアは、穏やかに言った。
「急がなくていいから」
カミラは、右手を一度だけ握り、開いた。
「努力する」
「仕事のように言うのね」
「ほかの言い方を知らない」
リヴィアが、声を上げずに笑う。
アーデルハイトも、ほんの少しだけ目を細めた。
まだ、三人が古くからの友人になったわけではない。
呼び方も、変わらない。
カミラは「カミラさん」であり、アーデルハイトは「アーデルハイトさん」ではなく、状況に応じて丁寧に呼ばれる。
長い時間を重ねたリヴィアとアーデルハイトの間にある気安さへ、すぐに並べるわけでもない。
それでも、昨日よりは、少し近い。
仕事の話を終えたあとに、手袋を選ぶ。
薬草油を塗る。
笑った方が綺麗だと言われ、困る。
そんな時間が、カミラの人生には、あまりなかった。




