第六十六部 助ける仕組みには、入口を作る話 ② 山へ行けない自由と、木札の考え
辺境伯府の外へ出られないわけではない。
山へ行けないだけである。
そう理解して、午前中は中庭と執務棟の周囲を歩くことにした。
アルムロイト辺境伯府には、止まっている場所が少ない。
客人を迎える館。
役人が働く執務棟。
交易記録を保管する文書庫。
医務室。
厩舎。
石造倉庫。
荷を一時的に置くための広場。
どの建物にも、人が出入りしている。
昨日、山腹の村で話に上がった小さな秤と引換札についても、すでに準備が始まっていた。
中庭の一角では、木工職人が、銀貨を量るための小さな天秤を卓へ並べている。その隣では、役人が市場で使っている基準の重りを持ち込み、誤差が出ないか一つずつ確かめていた。
別の卓では、油を引いた薄い木札へ、日付、場所、額面を示す印が刻まれている。
長い文章は書かない。
赤い線。
青い点。
短い刻み目。
中継所の印。
役人の印。
村の共同倉庫で受け取れる札。
診療所で使える札。
指定した商人だけが受け取る札。
最初から広げすぎない。
山腹中継所だけで試す。
村の塩を守るために始めた仕組みが、別の混乱を生まないよう、入口を狭くする。
卓を覗き込んでいたレオンへ、一人の若い役人が頭を下げた。
「レオン殿。ちょうどよいところへ」
「俺へ、何か頼みたいことがある?」
「札の大きさについて、意見をいただけますか」
若い役人は、二種類の木札を差し出した。
一つは、掌の半分ほどの大きさ。
もう一つは、さらに細い。
「小さい方が持ち運びやすいのですが、刻み目を増やすと分かりにくくなります。大きい方は、袋へ入れるとかさばるという意見がありまして」
レオンは、二枚を見比べた。
奴隷施設で働かされていた頃、文字を読む余裕などなかった。
傭兵となったあとも、雨の中で荷を運びながら長い指示書を読む者はいなかった。
仕組みを作る側は、必要な情報を残したくなる。
情報は、増える。
正しさも、増える。
だが、現場で使えなければ、何も残らない。
「札を、一種類にしなければならない?」
レオンが尋ねると、若い役人は少しだけ考えた。
「どういう意味でしょうか」
「銀貨を保留した者へ渡す札と、共同倉庫へ残す札は、同じ情報が必要なのか」
「……完全には、同じではありません」
「村の者が持つ札には、どこで使えるかと、いくら分かが分かればいい。役人が残す札には、誰が、いつ、どこで受け取ったかを残す。全部を一枚へ詰めれば、大きくなる」
「二枚に分ける?」
「切り離せるようにする」
レオンは、細長い札を二枚並べた。
「最初は、一枚。真ん中へ切れ目を入れる。片方は、受け取った人間へ渡す。もう片方は、役人が保管する。最初に同じ印を入れておけば、あとで照合できる」
若い役人は、すぐに卓の上へ札を置き、木工職人へ声を掛けた。
「試してみます」
「折れない程度に、薄くしてくれ」
「承知しました」
返答は早かった。
昨夜、村で話したばかりの仕組みが、朝には木札へ変わっている。
しかも、それで終わらない。
使いやすいよう、直す。
入口を狭くする。
役割ごとに、残す情報を分ける。
「暇そうだな」
背後から、低い声がした。
振り向くと、コンラートが立っていた。
今日も深い緑色の上着を着ている。手には、数枚の報告書がある。指先には、薄いインク染みが残っていた。
「休めと言われた」
「休んでいないな」
「辺境伯府の中で、静かに札を見ているだけだ」
「口を出している」
「意見を求められた」
「そうか」
コンラートは、卓上へ並べられた木札を見た。
「悪くない」
「褒められた?」
「札がだ」
「俺の意見で変わった」
「調子へ乗るな」
レオンは、少しだけ肩を落とした。
コンラートは、若い役人から試作品を受け取ると、指先で切れ目の位置を確かめた。
「王子殿」
「何だ」
「この札は、誰を助ける」
「軽い銀貨を受け取った村の者」
「それだけか」
すぐには答えられなかった。
レオンは、中庭の卓へ並べられた秤と木札を見た。
村の者が損をしないようにする。
塩を買えるようにする。
共同倉庫の在庫を減らしすぎないようにする。
だが、引換札を出すということは、辺境伯府が、保留された銀貨の価値を一時的に背負うということでもある。
「指定された商人も助ける」
レオンは答えた。
「村の者から札を受け取っても、あとで辺境伯府と精算できる。だから、塩や薬を売れる」
「それだけか」
コンラートは、同じ問いを繰り返した。
まだ、足りない。
「軽い銀貨を持ち込んだ者も?」
「なぜだ」
「受け取った側が、すぐに偽貨を使った人間として扱われずに済む。市場でも、没収ではなく、保留だった」
「そうだ」
コンラートは、短く答えた。
「では、誰を助けてはいけない」
問いの向きが、変わった。
レオンは、黙った。
人を助けるための仕組み。
だが、助ける範囲を決めなければならない。
引換札が、辺境伯領の中で使える。
保留された銀貨へ、一定の価値を与える。
それを知れば、何が起きる。
「軽い銀貨を、わざと持ち込む商人」
レオンは答えた。
「そうだ」
「辺境伯府が引き取ると分かれば、外から持ち込む。価値の低い銀貨を、まともな札へ替えるために」
「村を守るための仕組みが、軽い銀貨を集める仕組みへ変わる」
コンラートは、卓の上へ試作品を戻した。
「善意だけで国は守れん」
「入口を狭くする」
「どうやって」
レオンは、札を見た。
「山腹中継所だけで試す。誰から受け取った銀貨かを残す。村で以前から使われていたものか、賃金として入ったものか、商人がまとめて持ち込んだものかを分ける」
「ほかには」
「一度に替えられる枚数を決める」
「ほかには」
「期間を決める。永久に替えられると思わせない」
「ほかには」
「指定した塩と薬に使える札から始める。何にでも使える貨幣のように扱わない」
コンラートの青灰色の目が、少しだけ細くなる。
「悪くない」
「今度こそ、俺の答えが?」
「入口くらいには立った」
「また入口か」
「一歩で国を理解できると思うな」
「思っていない。ただ、少しくらい褒めてもよいと思う」
「褒めれば、山へ行くだろう」
「行かない」
「酒場は」
「所在を確認するだけならば」
「行くつもりだな」
レオンは、黙った。
コンラートは、ほんの少しだけ口元を緩める。
「昼までに、札の使い方を一枚へまとめろ」
「休息日では?」
「座ってできる」
「扱いが変わるのが早い」
「暇そうだからな」
レオンは、卓上へ並べられた木札と、若い役人が差し出してきた紙を見た。
歩かなくてよい。
重いものも持たない。
酒も飲めない。
その代わり、木札の使い方を考える。
療養明けの自由とは、想像していたほど華やかなものではなかった。




