第六十六部 助ける仕組みには、入口を作る話 ① 廊下で捕まる朝と、続く注意
翌朝、レオンは、アルムロイト辺境伯府の客棟から外へ出ようとして、廊下の角で年配の女医に捕まった。
正確に言えば、捕まるようなことはしていない。
朝食を終えたあと、よく晴れた窓の外を眺め、昨日歩いた山道の状況が気になり、少しだけ河川港側へ降りてみようと考えただけである。
厚手の外衣を羽織った。
靴紐を結んだ。
戸を開けた。
その先に、診療記録を抱えた女医が立っていた。
「どちらへ?」
「散歩だ」
「今日は、辺境伯府の中で休むように言われているはずですが」
「歩けるようになった人間へ、歩くなと言うのは矛盾していると思う」
「昨日、山道を往復しましたね」
「無事に戻った」
「脇腹は?」
「問題ない」
「診ます」
「いま?」
「いまです」
女医は、レオンの返事を待たず、診療室を指差した。
アルムロイトでは、橋を閉じる判断も、荷車を止める判断も、怪我人を客棟へ戻す判断も早い。
止めるべき時には止める。
この土地へ到着した日に抱いた印象は、いまも変わっていなかった。
診療室の椅子へ座り、外衣の前を緩める。
脇腹の傷そのものは、悪化していない。
ただし、昨日の山歩きで身体へ負担が掛かったことは、隠しようがなかった。女医が傷跡の周囲へ指を当てると、鈍い痛みが身体の奥へ走る。
「問題がありますね」
「歩けないほどではない」
「歩けない状態になる前に休むのです」
「まだ、筋肉が昨日の仕事を覚えているだけだと思う」
「身体の声を、都合よく翻訳しないでください」
女医は、診療記録へ何かを書き込み、次に窓辺の椅子へ座っていたカミラへ顔を向けた。
「カミラさんも、右手を」
カミラは、不満を言わず、昨日アーデルハイトから借りた革手袋を外した。
村で受け取った小さな陶器の壺も、机の端へ置く。
ゲルダが渡してくれた薬草油である。
昨夜、医務室で成分を確かめてもらい、傷跡が冷えて硬くなる時に塗って構わないと言われたらしい。
「使いましたか」
女医が尋ねる。
「昨夜、少しだけ」
「痛みは」
「ほとんどない。ただ、朝は少し硬い」
「今日は、無理に握り込まないこと。書類を書く程度ならば構いませんが、長く続けないでください」
「分かった」
「山道へ行く予定は?」
「ない」
カミラは、即答した。
女医は、次にレオンを見る。
「聞きましたか」
「俺も、山道へ行くとは言っていない」
「外へ出ようとしていましたね」
「散歩だ」
「辺境伯府の敷地内で」
「自由に歩けるようになったばかりの人間へ、行動範囲を狭く指定しすぎではないか」
「昨日、自分の足で山へ登れたでしょう」
「今日も、確認したい」
「確認しなくて結構です」
女医の声には、交渉の余地がなかった。
「二人とも、今日は休息日です。辺境伯府の周囲を歩く程度ならば構いませんが、坂道を下りすぎない。荷物を持たない。長く立ち続けない。酒も飲まない」
「最後だけ、怪我の状態と無関係に残り続けている気がする」
「関係があります」
「昨日、山道で薬草酒を勧められた」
「飲みましたか」
「飲んでいない」
「ならば、今日も同じようにしてください」
「身体を温める薬だった」
「茶でも温まります」
「文化を理解する機会でもあった」
「文化は、傷が治ってから理解してください」
レオンは、深く息を吐いた。
歩く自由は戻った。
しかし、酒を飲む自由は、まだ遠い。
カミラは、革手袋を着け直しながら、ほんの少しだけ口元を緩めている。
「楽しそうだな」
「気のせいだ」
「口元が」
「休息日なのだろう。静かに休め」
「おまえまで、女医と同じことを言う」
「あんたが、同じ注意を受け続けるからだ」
レオンは、反論できなかった。




