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第六十五部 山の村では、冬の塩を先に数える話 ④ 戻る道の痛みと、剣ではないもの

辺境伯府へ戻ったのは、夕方だった。


 山側から下りてくる道では、行きよりも歩幅を落とした。


 レオンの脇腹には、薄い痛みが戻っている。


 カミラの右手にも、少し疲れが残ったらしい。


 それでも、途中で無理をする者はいなかった。


 待避所で一度休む。


 荷車へ乗れる場所まで下りたあとは、馬車を使う。


 以前ならば、歩けると言い張ったかもしれない。


 今日は、そうしなかった。


 辺境伯府の小さな食事室では、コンラートが、いつものように帳面を卓の端へ置いて待っていた。


 川魚の香草焼き。


 根菜の煮込み。


 黒パン。


 薄い葡萄酒。


 レオンの前にだけ、水。


 昼に薬草酒を奪われた記憶が、胸へ蘇る。


 しかし、異議を申し立てても、結果は変わらない。


 レオンは、大人しく水の杯を持ち上げた。


「王子殿」


 コンラートが呼んだ。


「何だ」


「村で、何を見た」


 レオンは、少しだけ考えた。


「塩」


「道ではなく?」


「道も見た。薬箱も、記録札も見た。だが、村で減っていたのは、塩だった」


「なぜだ」


「銀貨を信用できないから」


「銀貨が軽ければ、塩が減るのか」


 問いは、短かった。


 だが、単純な答えを求めているわけではない。


「商人が、以前と同じ値段で売らない。村の者は、正確な秤を持っていない。軽いと言われても、確かめられない。払えなければ、共同倉庫から出す」


「それで?」


「すぐには困らない」


 レオンは答えた。


「今日、食べる塩はある。乳酪も作れる。肉も燻せる。だが、次の冬へ戻す分が減る」


「誰が困る」


「いま、塩を受け取った者だけではない。次の冬に、村へいる全員だ」


 コンラートは、黒パンをちぎり、ゆっくりと煮込みへ浸した。


「では、どうする」


「中継所へ、小さな秤を置く」


 レオンは答えた。


「軽い銀貨を保留する。その代わり、辺境伯領の中で一時的に使える札を渡す。受け取った人間だけへ、損を背負わせない」


「誰が言った」


「アーデルハイト」


 レオンは、正直に答えた。


「俺は、秤を置けばいいと思った。だが、軽いと分かったあとのことまで考えていなかった」


 コンラートの視線が、娘へ向く。


 アーデルハイトは、姿勢を崩さずに答えた。


「最初は、山腹中継所だけで試したいと思います。共同倉庫、診療所、指定した商人だけで扱います。札が増えすぎれば、かえって混乱します」


「印は」


「中継所、日付、担当者、額面。文字だけではなく、色と刻み目を使います」


「誰が数える」


「中継所の管理人と、辺境伯府側の役人。週に一度、記録を照合します」


「商人が、受け取らなければ」


「辺境伯領から出る荷との取引条件も含め、交渉します」


 アーデルハイトは答えた。


「ただし、命令だけでは続きません。軽い銀貨を受け取らせるのではなく、由来を確かめ、保留分をどこで処理するかまで決める必要があります」


 コンラートは、すぐには答えなかった。


 しばらく、卓上の帳面へ目を落とす。


「試せ」


 やがて、短く言った。


「ただし、広げるな」


「はい」


「山腹中継所だけだ。札を増やしすぎるな。正しい仕組みを作ったつもりで、新しい混乱を増やすな」


「承知しました」


 コンラートは、次にレオンへ視線を戻した。


「王子殿」


「何だ」


「銀貨が軽ければ、国は滅びるか」


 レオンは、少しだけ黙った。


 十年前。


 リュカリオンが滅びた時、目の前にいたのは兵士だった。


 剣。


 槍。


 矢。


 火。


 城壁。


 死体。


 国が滅びるとは、そういう光景だと思っていた。


 だが、今日見たのは、共同倉庫の棚だった。


 少し早く減っている塩袋。


 すぐには困らない。


 今日、誰かが死ぬわけでもない。


 けれど、気付かないうちに、次の冬を越す力が減っている。


「すぐには、滅びない」


 レオンは答えた。


「だから、怖い」


 コンラートの青灰色の目が、わずかに細くなる。


「続けろ」


「戦争ならば、敵が見える。橋が落ちれば、直すべき場所も分かる。だが、銀貨が少し軽くなり、塩袋が少し早く減るだけなら、誰も国が弱っているとは思わない」


 レオンは、水の杯へ指を添えた。


「次の冬に困る。その次には、乳酪を売れない。肉を残せない。商人が来なくなる。働いても、暮らせなくなる」


「それで?」


「剣を抜かなくても、国は弱る」


 言葉にすると、胸の奥へ重く残った。


 国を守るということを、自分は知らなかった。


 戦う方法だけではない。


 橋を閉じること。


 秤を置くこと。


 札を残すこと。


 道を広げないこと。


 冬の塩を数えること。


 どれも、同じ場所へつながっている。


「悪くない」


 コンラートは言った。


「入口くらいには、立った」


「まだ入口なのか」


「昨日よりは、少し奥だ」


「褒め方が、分かりにくい」


「調子へ乗らせないためだ」


 レオンは、ほんの少しだけ肩を落とした。


 隣で、カミラが口元を緩める。


「王子殿」


 コンラートが、もう一度呼んだ。


「何だ」


「明日は休め」


「待ってくれ」


「医師が、連日の山歩きを許可したか」


「聞いていない」


「なら、休め」


「歩けるようになったばかりだ」


「だからだ」


 レオンは、何かを言い返そうとした。


 けれど、向かい側に座るアーデルハイトも、リヴィアも、隣のカミラも、反論へ加わってくれる顔をしていない。


「明日は、辺境伯府で記録を見る」


 コンラートは続けた。


「歩くだけが、学びではない」


「酒は?」


「医師が決める」


「聞くだけ聞いた」


「答えは変わらん」


 レオンは、大人しく水を飲んだ。


 窓の外では、山側から戻ってきた驢馬の鈴が、谷へ小さく響いている。


 一本の道。


 一枚の札。


 一枚の銀貨。


 一袋の塩。


 どれも、剣ほど目立たない。


 それでも、国を守るために必要なものだった。



 ──第六十五部 了


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