第六十五部 山の村では、冬の塩を先に数える話 ③ 集会所の昼食と、続く学習
昼食は、共同倉庫の隣にある小さな集会所で取ることになった。
石造りの壁。
低い天井。
中央に置かれた長い卓。
壁際の炉では、根菜と山羊肉を煮込んだ鍋から、白い湯気が立ち上っている。
焼いた黒パン。
乳酪。
山菜の酢漬け。
燻製肉。
刻んだ香草。
村で作られた食べ物が、木皿へ並べられていた。
豪華ではない。
だが、山道を歩いたあとには、十分すぎるほど魅力的だった。
レオンは、席へ着く前に、鍋の前で足を止めた。
「よい匂いだ」
「そうでしょう」
鍋を見ていたゲルダが答える。
「山羊肉は、朝から煮ています」
「味を確かめる必要がある」
「食事の時間まで待ちなさい」
「煮込み料理は、火加減を確かめることも重要だ」
「料理人かい?」
「食べる側の専門家だ」
ゲルダは、しばらくレオンの顔を見た。
「なら、黒パンを切っておくれ」
「なぜ、そうなる」
「食べる側の専門家なら、食べる前に働けるだろう」
断る理由を探している間に、木製の大きな包丁と、黒パンの塊を渡された。
カミラは、すでに卓へ腰掛けている。
「よかったな。専門性を評価された」
「俺の想定していた評価とは、少し違う」
「働け」
アーデルハイトが、口元をわずかに緩める。
「レオン殿。村の方々が用意してくださったのですから」
「分かっている」
レオンは、黒パンを切り始めた。
硬い。
想像以上に硬い。
刃を入れようとすると、パンの表面が抵抗する。
「脇腹へ力を入れないでください」
アーデルハイトが言った。
「分かっている」
「包丁へ体重を掛けすぎないように」
「分かっている」
「無理ならば、代わります」
「パンくらい切れる」
少しだけ意地になった。
しかし、力を込めすぎれば、女医へ止められた重い荷物を持つことと大きく変わらない。
レオンは、包丁の角度を変えた。
押すのではなく、少しずつ刃を動かす。
時間は掛かる。
けれど、切れる。
「道と同じですね」
アーデルハイトが言った。
「何が?」
「力任せに広げればよいわけではない」
「黒パンを切る男から、政治の教訓を引き出さないでくれ」
「学びは、どこにでもあります」
リヴィアが楽しそうに笑った。
カミラも、口元をほんの少しだけ緩めている。
「手伝ってくれてもいいと思う」
レオンが言うと、カミラは右手を持ち上げた。
「重いものは、まだ持つなと言われている」
「左手がある」
「あんたが切れ」
救いはなかった。
ようやくパンを切り終えると、ゲルダが煮込みを木椀へ注いだ。
山羊肉は、柔らかい。
根菜には、肉と香草の味が染み込んでいる。
黒パンを浸せば、硬さも気にならない。
レオンは、一口食べたあと、真剣に頷いた。
「もう一杯、必要だと思う」
「まだ、一杯目だよ」
ゲルダが呆れたように答える。
「将来の予定を、早めに伝えておくことは大切だ」
「食べ終わってから言いなさい」
「村では、食事についても計画的なのだな」
「山では、冬を越す前に全部食べる男から、先に止める必要がある」
レオンは、何かを言い返そうとした。
だが、カミラが横で小さく笑っていることに気付き、やめた。
追及すれば、すぐに隠す。
それよりも、見ていないふりをした方がいい。
少しずつ、そのことも覚え始めている。
食事の途中で、ゲルダがカミラの右手へ目を向けた。
「怪我をされたのかい」
「ああ。もう、ほとんど問題はない」
「ほとんど、という言葉は、あまり信用できないね」
ゲルダは、棚の上から小さな陶器の壺を取った。
蓋を開けると、薬草と油を混ぜた、少し青い匂いが漂う。
「指が冷える時には、これを塗るといい。山側の薬草で作ったものだよ」
「必要ない」
カミラは、反射的に答えた。
「動く。痛みも、それほど残っていない」
「そうかい」
ゲルダは、無理に渡そうとはしなかった。
壺を自分の側へ戻そうとする。
その時、リヴィアが静かに口を開いた。
「使わないと決めるのは、持って帰ってからでも遅くないのでは?」
カミラは、リヴィアを見る。
「荷物になる」
「小さな壺です」
アーデルハイトも言った。
「視察中に指が冷えるようならば、役に立つかもしれません。辺境伯府の医務室でも、成分を確認してもらえます」
「私は――」
カミラは、言い掛けて、止まった。
目の前には、ゲルダが置いた小さな壺がある。
誰かから物を受け取る。
自分のために使う。
必要があるかどうかを、あとで考える。
それだけのことが、カミラには難しいらしい。
奴隷として生きた時間。
革命の中で、必要なものを必要な場所へ回し続けた時間。
監察官として、誰かの不足を数え続けた時間。
自分のために少し多く受け取ることを、当然だと思える人生ではなかった。
「借りる」
やがて、カミラは答えた。
「必要ならば、使う」
「返さなくていいよ」
ゲルダは、あっさりと笑った。
「なくなったら、また作る」
カミラは、壺を受け取った。
包帯の外れた右手ではなく、左手で。
「ありがとう」
低い声だった。
けれど、はっきりと聞こえた。
リヴィアは、それ以上何も言わなかった。
アーデルハイトも、煮込みへ口を付ける。
気遣いを受け取ったことを、大げさに喜ばない。
受け取れたこと自体を、特別な出来事として扱わない。
その方が、カミラには楽なのだろう。
レオンは、黙って黒パンを煮込みへ浸した。
何か言えば、壺を投げ付けられる可能性がある。
学習は、継続している。




