第六十五部 山の村では、冬の塩を先に数える話 ② 山の村と、次の冬まで持つ塩
村が見えたのは、山腹中継所を出てから一刻ほど歩いた頃だった。
斜面へ沿うように、石壁と深い屋根を持つ家々が並んでいる。
平坦な土地は少ない。
家と家の間には細い水路が走り、雪解け水を集めながら、段状の畑へ分けられていた。畑では、まだ背の低い春野菜が風に揺れ、その上側には、山羊を放すための小さな牧草地が続いている。
家々の屋根からは、白い煙が上がっていた。
薪。
乾燥させた香草。
燻した肉。
煮込み料理。
冷たい山の空気へ、暮らしの匂いが重なっている。
村の入口には、石造りの小さな建物があった。
診療所と、共同倉庫を兼ねているらしい。
軒下には、雨に濡れないよう木台が置かれ、先に到着した薬箱と塩袋が並べられていた。
若い女が一人、薬箱の札を確認している。
濃い茶色の髪を後ろで束ね、厚手の前掛けを着けていた。指先には薬草の色が染み付き、腕には、作業の邪魔にならないよう袖を捲った跡が残っている。
「アーデルハイト様」
女は顔を上げ、安堵したように笑った。
「お越しいただき、ありがとうございます」
「薬箱は、すべて届きましたか」
「はい。先ほど、最後の二箱も」
アーデルハイトが、箱へ結び付けられた札を見る。
「使いにくい点は?」
「以前より、分かりやすいです」
女は答えた。
「誰が、どこで箱を開けたのか。中に幾つ小箱が入っていたのか。こちらで受け取ったあと、診療所へ置くものと、上の集落へ回すものを、札へ残せます」
「書く量が多すぎませんか」
「いまのところは。ただ、急いでいる時には、全部を書けないこともあると思います」
女は、札の端へ刻まれた小さな印を指先でなぞった。
「この刻み目は、助かります。文字を書けない時にも、開けた箱の数だけ残せる」
「使わない方がよい項目があれば、遠慮なく言ってください」
アーデルハイトが答える。
「仕組みを守るために、仕事を増やしすぎてはいけませんから」
女は、少しだけ驚いたように目を瞬いた。
それから、素直に頷く。
「分かりました」
カミラは、二人の会話を聞きながら、木台へ並べられた薬箱へ近づいた。
「診療所へ残す量は?」
「小箱で四つです。上の集落へ二つ。あとは、予備として共同倉庫へ置きます」
「予備は、どの程度まで持たせる」
「通常なら、十日ほどです。ただ、冬の終わりと雪解けの頃は、少し多めに残します」
「道が止まるからか」
「はい。薬だけではありません。塩も、麦も、灯火用の油も」
女は、診療所の隣へ続く戸を開いた。
内部には、薬箱だけでなく、塩袋、穀物、乾燥肉、油を入れた壺、燻製魚、乾燥させた薬草が棚ごとに分けられている。
海から遠い山村である。
それでも、棚には干し魚と海藻が置かれていた。
港から入り、川沿いの道を上がり、途中で荷車から驢馬へ積み替え、人の背へ渡り、ようやくここまで届く。
レオンは、塩袋へ目を向けた。
数が多い。
「塩を、ずいぶん残している」
「山では、塩が切れると困ります」
答えたのは、診療所の奥から出てきた年配の女だった。
背は高くない。
けれど、腰は曲がっておらず、灰色の髪を厚い布で覆い、袖を捲った腕には、長く働いてきた者らしい細い筋が浮かんでいる。
「山羊乳を乳酪にする。肉を燻す。野菜を漬ける。雪が残れば、毎日港へ買いに行くわけにはいかない。銀貨があっても、塩が届かなければ役には立たない」
女は、レオンたちを順番に見たあと、アーデルハイトへ向かって頭を下げた。
「共同倉庫を預かっております、ゲルダ・ホフマンです」
「昨日の崩落で、ご迷惑をお掛けしました」
アーデルハイトが言う。
「道は、山に住んでいれば崩れます」
ゲルダは、あっさりと答えた。
「崩れないと思って暮らしている者は、ここにはいません。薬と塩を先に通していただけたなら、十分です」
「不足しているものはありませんか」
「いまのところは」
返答は早かった。
だが、そこで終わらなかった。
「ただし、塩は、少し早めに減っています」
アーデルハイトの表情が変わる。
「道が止まった影響ですか」
「それもあります」
ゲルダは、棚の端へ置かれた薄い帳面を手に取った。
「先月から、塩を運んでくる商人が、以前と同じ値段では売らなくなりました」
「値上がりした?」
リヴィアが尋ねる。
「そう言われました。港から上げる人足代も、驢馬の飼葉も高くなったと」
「それだけではない顔ですね」
アーデルハイトが言う。
ゲルダは、ほんの少しだけ口元を引き結んだ。
「村で出した銀貨の中に、受け取れないものがあると言われました」
共同倉庫の奥へ、短い沈黙が落ちた。
レオンは、灰岩関を越えた先の市場で見た秤を思い出した。
同じ額面。
同じ意匠。
見た目だけでは分からないほどの、わずかな差。
軽い銀貨。
「全部ではない?」
カミラが尋ねた。
「全部ではありません」
ゲルダは答えた。
「村で使っていた古い銀貨なら、受け取る。新しく入ってきたものの中には、駄目なものがある。そう言われました」
「量ったのか」
「商人は、手で見ただけでした」
ゲルダの声音には、怒りよりも困惑が滲んでいる。
「こちらには、正確な秤がありません。少し軽いと言われても、村の者には分からない。払えないなら、塩を減らすしかありません」
「共同倉庫から出した?」
アーデルハイトが尋ねる。
「はい」
「いつから」
「先月の終わりからです」
「量は?」
「記録してあります」
ゲルダは帳面を開いた。
字は、大きい。
けれど、丁寧だった。
日付。
塩を出した家。
量。
理由。
後日、戻す予定の量。
村の共同倉庫から塩を受け取った者は、収穫や乳酪の売却後に、可能な範囲で補充することになっているらしい。
アーデルハイトは、帳面を見ながら尋ねた。
「冬の終わりとしては、多いですか」
「少し」
ゲルダは答えた。
「すぐに困るほどではありません。ただ、雪が解けたあとに戻すはずの塩が、同じ値段で買えないままなら、次の冬支度へ響きます」
目の前にあるのは、事件ではない。
誰かが塩袋を盗んだわけでもない。
村の者が怠けたわけでもない。
商人が、すべて悪いとも限らない。
銀貨を信用できない。
それだけで、棚から塩が少し早く減る。
山羊乳を乳酪へ変えられる量が減る。
肉を冬まで残せなくなる。
野菜を漬けられなくなる。
遠い土地で起きているように見えた貨幣の問題が、山腹の小さな村で、静かに暮らしを削っている。
「市場の秤を、ここでも使えるようにした方がいい」
レオンは言った。
アーデルハイトが顔を上げる。
「持ってくるのですか」
「大きな秤を運ぶ必要はない。銀貨だけ量れる、小さなものがあればいい。村ごとに置けないなら、中継所へ置く」
「誰が管理する」
カミラが尋ねる。
「村と、中継所の管理人。どちらか一人だけへ任せない」
「重りは?」
「辺境伯府で基準を決める。定期的に確かめる。市場の秤と同じだ」
言いながら、自分でも気付く。
灰岩関を越えた宿駅の市場で見たものが、少しずつつながっている。
誰でも見える場所へ置かれた秤。
一人の正しさだけへ頼らない仕組み。
銀貨を没収せず、保留して由来を残す方法。
国を守るということは、大きな命令を出すことだけではない。
村の共同倉庫から、冬の塩が早く減りすぎないようにすることでもある。
「小さな秤ならば、船でも使っています」
リヴィアが言った。
「銀貨だけでなく、薬や香辛料を量るために。港へ戻れば、幾つか回せるか確認します」
「待ってください」
アーデルハイトは、すぐに決めなかった。
「秤を置くだけでは、不十分です」
「なぜだ」
レオンが尋ねる。
「軽い銀貨だと分かったあと、どう扱うかを決めなければなりません。村の者が受け取った時点で、すべて損をするのであれば、秤を置くことで不安だけを増やす可能性があります」
「では、置かない?」
レオンが訊き返す。
「そうではありません」
アーデルハイトは、帳面の端へ指を添えた。
「市場と同じように、保留した銀貨を、何らかの引換証へ替える仕組みが必要です。少なくとも、辺境伯領の中では、受け取った者だけへ損を押し付けない形にしなければ」
カミラが、わずかに目を細める。
「保留した銀貨の由来も残す」
「はい。いつ、どこから入ったのか。商人から受け取ったのか。賃金として支払われたのか。港から上がってきたのか」
「記録を増やしすぎれば、使われない」
「だから、まずは中継所で試します」
アーデルハイトは答えた。
「銀貨を量る場所を、一度に増やしすぎない。山側の道が集まる中継所へ、小さな秤と基準の重りを置く。保留した銀貨は、その場で札と交換する。札を持っている者が、次に塩や薬を受け取る時、額面の範囲で使えるようにする」
「札を、誰が受け取る」
カミラが尋ねる。
「共同倉庫。診療所。辺境伯府が指定した商人。最初は、それだけに絞ります」
「銀貨の代わりを、増やしすぎない方がいい」
「分かっています」
アーデルハイトの声には、慎重さがあった。
「貨幣を新しく作るつもりではありません。調べ終わるまで、損失を一人へ背負わせないための一時的な札です」
リヴィアは、少し考え込むように帳面を見た。
「港で、同じ仕組みを広げる前に、山側で試すのね」
「市場より、扱う量が少ない。顔の分かる範囲で使える。問題があれば、止めやすい」
「悪くない」
カミラが言った。
「だが、誰かが札を作り始めた時のことも考えた方がいい」
「印を入れます」
アーデルハイトは、すぐに答えた。
「中継所。日付。担当者。額面。受け取った共同倉庫。すべてを長く書けば使われないので、色と刻み目も使います」
「昨日の薬箱と同じか」
レオンが言う。
「はい」
アーデルハイトは頷いた。
「まず、小さく試します」
ゲルダは、黙って話を聞いていた。
すぐには理解しきれない部分もあるのだろう。
それでも、棚へ残る塩袋を見ながら、ゆっくりと頭を下げた。
「村で、試せることがあるならば」
「すべてを、すぐに解決できるわけではありません」
アーデルハイトは言った。
「秤を置いても、銀貨が軽い理由は分かりません。塩の値段が、以前へ戻るとも約束できません」
「分かっています」
ゲルダは、静かに答えた。
「冬の塩が、次の冬まで持つように考えていただけるなら、それで十分です」




