第六十四部 山道では、通すものから決める話 ④ 炭袋を捨てる意味と、初めて知ったこと
辺境伯府へ戻った頃には、谷へ夕方の影が落ち始めていた。
行きよりも、帰りの方が脚へ疲れを感じる。
脇腹にも、薄い引きつれが戻っている。
だが、痛みを隠して歩き続ける必要はなかった。
途中の待避所で一度休み、荷車へ乗れる場所からは、無理をせず馬車へ乗った。
以前ならば、歩けると言い張ったかもしれない。
今日は、そうしなかった。
辺境伯府の小さな食事室では、コンラートが、いつものように帳面を机の端へ置き、五人が揃うのを待っていた。
川魚の香草焼き。
山羊肉と根菜の煮込み。
黒パン。
薄い葡萄酒。
レオンの前にだけ、水。
不公平である。
しかし、異議を申し立てても、味方は増えない。
レオンは、大人しく水の杯を手へ取った。
「王子殿」
コンラートが呼んだ。
「何だ」
「何を通した」
問いは、短かった。
レオンは、水の杯へ指を添えたまま答えた。
「薬。塩。診療所へ送る布。灯火用の油。それから、傷みやすい乳酪と、濡らしたくない薬草」
「何を止めた」
「炭。木材。鉱石。今日と明日に下ろさなくても、暮らしが止まらないもの」
「道は、直したか」
「まだだ。修繕には数日掛かる」
「では、何をした」
レオンは、少しだけ考えた。
「道が元へ戻るまで、暮らしが止まらないようにした」
コンラートの青灰色の目が、わずかに細くなる。
「悪くない」
「褒められた?」
「まだ、入口だ」
「昨日も聞いた」
「今日も変わらん」
レオンは、少しだけ肩を落とした。
隣で、カミラが口元をわずかに緩める。
「もう一つ」
コンラートは続けた。
「峠道は、広げるか」
東側。
カラドリン方面へ続く古い交易路。
商人たちは、荷車を増やしたい。
税も増える。
交易も広がる。
だが、荷車が通れる道には、兵も通れる。
レオンは、昼に見た山道を思い出した。
崩れた路肩。
足を取られた驢馬。
炭袋を捨てる判断。
薬を背負って歩く人足。
道は、広ければよいわけではない。
「すぐには広げない」
レオンは答えた。
「理由は」
「広げる前に、何を通したいのかを決める。交易量だけを増やすならば、峠そのものを大きくするより、中継所を増やし、荷を積み替えられる場所を整えた方がいい」
「兵は」
「一度に通しにくいまま残せる」
レオンは言った。
「商人には不便が残る。だが、不便を全部なくせば、安全までなくなる可能性がある」
コンラートは、すぐには答えなかった。
黒パンをちぎり、煮込みへ浸す。
ゆっくりと食べたあと、ようやく口を開いた。
「少しは、道の見方を覚えたな」
「今度こそ、褒められた?」
「調子へ乗るな」
「短い時間だった」
アーデルハイトが、ほんの少しだけ笑った。
リヴィアも、葡萄酒の杯へ口を付けながら目を細めている。
カミラは、レオンの前に置かれた水の杯を見た。
「今日のところは、水で我慢しろ」
「見れば分かる」
「顔が、分かっていない」
「俺は、完全に理解している。ただし、納得していないだけだ」
「面倒な男だな」
「そこまで含めて、理解してほしい」
カミラは、静かに息を吐いた。
だが、その顔には、呆れだけではないものが残っていた。
窓の外では、山側から戻ってきた驢馬の鈴が、谷へ小さく響いている。
一本の道が崩れた。
それでも、薬は届く。
塩も届く。
山羊乳も、薬草も、必要な順番で下りてくる。
止めるものを決めたからこそ、通せるものがある。
国を守るという言葉の中には、剣を抜くことだけではなく、炭袋を谷へ捨てることも含まれている。
そのことを、レオンは今日、初めて知った。
──第六十四部 了




