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第六十四部 山道では、通すものから決める話 ③ 山腹中継所と、黙って食べる黒パン

 昼を少し過ぎた頃、四人は山腹中継所へ戻った。


 中継所の庇の下では、薬箱を背負った人足が、山側へ向かう順番を待っている。


 新しく張られた縄の内側には、上りと下りを分ける札が掛けられ、荷を一時的に置く木台の上には、リヴィアが回すよう手配した防水布が広げられ始めていた。


 朝にはなかったものが、少しずつ増えている。


 大げさな仕組みではない。


 だが、それで、誰かの足元が守られる。


 誰かの荷が、濡れずに済む。


 誰かの薬が、遅れずに届く。


 中継所の管理人が、温かい汁物を用意してくれた。


 山羊乳を使った薄い煮込みへ、刻んだ香草と、乾燥させた茸が入っている。黒パンは少し固かったが、煮込みへ浸せば、歩いたあとの身体には十分に美味かった。


 レオンが木椀を受け取ろうとすると、管理人は、別の小さな杯も差し出した。


「冷えたでしょう。薬草酒です。少し飲めば、身体が温まります」


 レオンの手が、迷いなく伸びた。


 その手前で、カミラの左手が杯を取った。


「待て」


「酒は、まだ禁止だ」


「薬草酒だ」


「酒だ」


「身体を温めるための薬だと、いま説明があった」


「酒場でも、似た言い訳をするつもりだろう」


「土地の者が勧めてくれたものを断るのは、礼を欠くと思う」


「礼なら、私が受け取る」


 カミラは、杯を管理人へ戻した。


「申し訳ない。こいつは、医師から止められている」


「ああ。それなら、仕方がない」


 管理人は、すぐに頷いた。


「代わりに、茶を入れます」


「待ってくれ。交渉の余地が――」


「ない」


 カミラの返答は早かった。


 リヴィアが、木椀を両手で持ちながら、楽しそうに笑っている。


「本当に、禁酒中なのね」


「不当な制限が続いている」


「女医の判断でしょう?」


「医療が、時に人間の幸福を損なうこともある」


「完全に回復したら、飲めばいいではありませんか」


 アーデルハイトが、穏やかに言う。


「その日まで、待てますよね」


 言葉だけを聞けば、優しい。


 しかし、答えは最初から一つしか認められていない。


「待てる」


 レオンは答えた。


「成人した男として、当然だ」


「顔が、まったく納得していない」


 カミラが言った。


「顔は、心より正直なことがある」


「自分で言うな」


 茶が届いた。


 薬草酒ではない。


 温かくはある。


 レオンは、少しだけ不満を残しながら、木椀へ口を付けた。


 向かい側では、カミラが、新しい革手袋を外している。


 右手の指を、ゆっくりと開く。


 崩落箇所で荷を動かしたわけではない。


 無理に縄を引いたわけでもない。


 それでも、緊張したまま長く立ち続けたことで、傷跡の周囲へ、少しだけ疲れが残ったのだろう。


 リヴィアも気付いたらしい。


 ただし、すぐに大げさな声を掛けることはしなかった。


 自分の側へ置かれていた茶の小さな器を、カミラの前へ押し出す。


「こちらの方が、少し温かいわ」


 カミラは、リヴィアの顔を見た。


「私は、大丈夫だ」


「そうでしょうね」


 リヴィアは、穏やかに答えた。


「でも、温かい方を飲んでも困らないでしょう?」


 カミラは、少しだけ黙った。


 拒む理由を探したらしい。


 けれど、見つからなかった。


「……借りる」


「どうぞ」


 短いやり取りだった。


 気遣いを押し付けない。


 問題があると決め付けない。


 ただ、受け取りやすい形で渡す。


 カミラは、器へ指を添えた。


 包帯の外れた右手を、温かな湯気が包む。


「カミラさん」


 アーデルハイトが、帳面を閉じながら言った。


「先ほどの優先順位について、もう少し聞いてもよいですか」


「ああ」


「鉱山道を完全に止めず、通す荷を減らす判断は、イタリカでも行っていましたか」


「行っていた。だが、うまくいかなかった場所も多い」


 カミラは、温かい茶へ口を付けたあと、ゆっくりと答えた。


「鉱山側は、鉱石を止めたくない。役人は、税が減ることを恐れる。商人は、契約を守れと言う。だが、無理に通して道が落ちれば、結局、すべて止まる」


「今日と同じですね」


「そうだ。ただし、正しいことを言えば、正しい判断が通るわけではない」


 カミラの灰色の目が、中継所の外へ向く。


 山側へ続く細い道。


 荷を背負って登っていく人足。


 下ろせない炭と木材。


 今日の利益だけを考えれば、無理をしてでも通したい者はいる。


「誰かが損をする」


 カミラは言った。


「今日、炭を下ろせない者がいる。木材を待っている者もいる。道を閉じれば安全だと言うだけでは、納得できない人間もいる」


「では、どうするのですか」


「説明する。期限を決める。優先順位を公開する。誰かだけが得をしているように見せない。約束した期限を守れないならば、理由を伝える」


「簡単ではありませんね」


「簡単ならば、監察官は要らない」


 カミラは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 アーデルハイトも、わずかに笑う。


「では、辺境伯家の仕事も、必要なようです」


「そうだな」


 声の響きは、以前より柔らかかった。


 まだ、呼び捨てで名前を呼び合うほど近くはない。


 リヴィアがアーデルハイトへ向けるような、長い時間を積み重ねた気安さもない。


 それでも、同じ道を歩き、同じ事故を見て、同じ食卓ではなく、山腹の中継所で同じ煮込みを食べている。


 仕事の話だけではある。


 だが、カミラにとっては、仕事の話から始まる関係の方が、受け取りやすいのかもしれない。


「冷める前に食べた方がいいわ」


 リヴィアが言った。


「二人とも、話を始めると、食事を忘れるのね」


「私は、食べている」


 アーデルハイトが答える。


「黒パンを一口だけでしょう」


「見ていたの?」


「見れば分かるわ」


「また子ども扱いして」


「では、友人として言う」


 リヴィアは笑った。


「食べて。午後も歩くのでしょう」


 アーデルハイトは、少しだけ目を伏せた。


「……分かった」


 今度は、反論を重ねなかった。


 黒パンをちぎり、煮込みへ浸す。


 リヴィアも、自分の器へ口を付ける。


 カミラは、その二人を見ていた。


 ほんの少しだけ眩しそうに。


 けれど、以前のように、一歩離れた場所から見るだけではなかった。


 レオンは、何も言わなかった。


 言葉にすれば、カミラはすぐに表情を隠すだろう。


 だから、黙って黒パンを食べた。


 その方がよいことも、少しずつ覚えている。



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