第六十四部 山道では、通すものから決める話 ② 崩れた道と、決めた通し方
崩れたのは、中継所から山側へ半刻も進まない場所だった。
道は、そこで大きく折り返している。
山側には、岩肌から流れ出した水を逃がすための溝が掘られ、谷側には、大小の石を組んだ擁壁が続いていた。
崩落そのものは、大きくない。
路肩の一部が削られ、土と石が谷側へ滑り落ちている。
だが、荷を載せた驢馬が通るには、十分に危険だった。
道の中央では、一頭の驢馬が、身体を斜めに傾けたまま動けなくなっている。
谷側の後ろ脚が、崩れ掛けた土へ沈み込んでいた。
背へ載せた荷の重みが、さらに身体を谷側へ引いている。
若い荷運び人が、山側から手綱を握っていた。
別の男は、荷を外そうとしている。
だが、谷側へ回れば、驢馬ごと足元を崩す可能性がある。
「動くな!」
レオンは、少し離れた場所から声を上げた。
荷運び人が、顔を向ける。
「荷を拾おうとするな。外側へ回るな。人間が落ちたら、荷より面倒だ」
「ですが、このままでは――」
「分かっている」
レオンは、道の状態を見た。
驢馬の谷側に載せられているのは、大きな炭袋である。
山側には、木箱が二つ。
荷を固定する革紐は、驢馬の腹の下を回り、両側の荷を支えている。
谷側の袋が重い。
その重みが、驢馬を外へ引いている。
「炭袋は捨てろ」
レオンが言った。
荷運び人の顔が、わずかに固まる。
「切って、谷へ落とせ。取り戻そうとするな」
「でも――」
「驢馬と人間より高い炭か?」
返事はなかった。
「小刀はあるか」
「あります」
「山側から手を伸ばせる位置で、外側の紐だけ切れ。全部を一度に切るな。荷が急に動けば、驢馬が暴れる」
レオンが言うと、カミラが谷側の斜面を見た。
「その前に、驢馬の胸へ縄を回した方がいい」
「そうだな」
「後ろから引けば、脚がさらに沈む。頭を山側へ向ける」
リヴィアは、すでに腰へ巻いていた細い縄を外している。
「上の木へ回します。船で荷を引き上げる時と同じように、直接引かず、一度幹へ回した方が力を調整できます」
「護衛兵を二人、上へ」
アーデルハイトが指示を出した。
「下側には立たないでください。石が落ちる可能性があります。後ろの荷は、中継所まで戻します。人が集まりすぎると、道が塞がります」
声は、穏やかだった。
だが、迷いがない。
護衛兵が縄を受け取り、山側の太い木へ回す。
リヴィアが、結び目を確かめる。
カミラは、驢馬の身体と、足元の土を見ながら、荷運び人へ声を掛けた。
「急に引くな。驢馬へ声を掛け続けろ。暴れたら、止める」
「はい」
「炭袋を切る」
レオンが言った。
若い男が、小刀を抜く。
山側から身体を伸ばし、革紐へ刃を当てる。
一度。
切れない。
もう一度、力を込める。
革紐が切れた。
炭袋が、谷側へ滑り落ちる。
袋の端が路肩へ引っ掛かり、一瞬だけ止まる。
次の瞬間、布が裂けた。
黒い炭が、斜面へ散らばりながら落ちていく。
驢馬の身体が、軽くなった。
だが、足はまだ抜けない。
「引け」
リヴィアが言った。
「ゆっくり。止めて。もう少し」
護衛兵が、木へ回した縄を少しずつ引く。
驢馬の首が、山側へ向く。
若い荷運び人が、手綱を短く持ち直す。
驢馬が、前脚へ力を入れた。
土が崩れる。
谷側へ、小さな石が落ちていく。
「止めろ」
カミラの声が飛ぶ。
縄が止まる。
「右の後ろ脚が、石へ当たっている」
レオンも見えた。
足元へ、拳ほどの石が挟まっている。
引き続ければ、驢馬の脚を傷める。
だが、谷側へ近づくことはできない。
「山側の箱を一つ外す」
レオンが言った。
「軽くしすぎれば、反対へ倒れないか」
カミラが尋ねる。
「箱を外したあと、人が山側から肩を押さえる。動かすのではなく、姿勢を保つだけでいい」
「私がやる」
レオンは、前へ出ようとした。
カミラの左手が、外衣の袖を掴む。
「護衛に任せろ」
「届く位置だ」
「あんたがやる理由ではない」
一瞬だけ、言葉に詰まった。
自分ならば、できる。
それは、理由になると思っていた。
だが、いま必要なのは、自分が動くことではない。
驢馬と、荷運び人を助けることだ。
「……そうだな」
レオンは、護衛兵へ顔を向けた。
「山側の箱を外す。外したら、驢馬の肩へ手を添えろ。押し込むな。身体が谷側へ傾かないよう、支えるだけだ」
「承知しました」
護衛兵が、慎重に前へ出る。
荷運び人が、箱を固定していた紐を外す。
木箱が一つ、山側へ渡される。
護衛兵が、驢馬の肩へ身体を寄せた。
「いまだ」
レオンが言った。
縄が、再び引かれる。
驢馬が前脚を踏ん張る。
谷側の後ろ脚が、土の中から抜けた。
身体が大きく揺れる。
護衛兵が肩を支え、荷運び人が手綱を引く。
数歩。
山側へ進む。
安全な場所へ出た。
驢馬は、荒い息を吐きながら、足を止めた。
誰も、すぐには話さなかった。
谷底へ落ちていく小石の音だけが、しばらく続いた。
若い荷運び人が、驢馬の首を撫でる。
その手が、小さく震えていた。
「怪我は」
アーデルハイトが尋ねる。
「俺は、大丈夫です」
「驢馬も」
カミラが、脚を確かめるように見た。
「引きずってはいない。だが、今日は荷を載せない方がいい」
「中継所へ戻します」
荷運び人は、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。炭を――」
「炭は、数え直せる」
アーデルハイトは答えた。
「あなたと驢馬が無事ならば、それでいい」
「ですが」
「次からは、崩れた道へ無理に入らないでください。荷を止める判断も、仕事の一部です」
穏やかな声だった。
責めてはいない。
けれど、曖昧にもしていない。
若い荷運び人は、もう一度頭を下げた。
◇
崩落箇所の手前では、道をどう使うかを決めなければならなかった。
路肩が削られた範囲は、見た目以上に広い。
驢馬が一頭、荷を下ろした状態で通れる程度の幅は残っている。
だが、荷を載せたまま通すことはできない。
まして、鉱石や炭を積んだ驢馬を何頭も連ねれば、残った道まで崩れる可能性がある。
「全面的に止めますか」
山道を管理する役人が尋ねた。
アーデルハイトは、すぐには答えなかった。
道の先には、山腹の村がある。
鉱山町がある。
診療所がある。
薬を待つ者がいる。
塩を待つ者がいる。
下ろさなければ傷む食べ物もある。
すべてを止めれば、安全ではある。
だが、暮らしも止まる。
「通すものを決めます」
アーデルハイトは言った。
「上りは、薬、塩、診療所へ送る布、それから灯火用の油を優先してください。ここまでは驢馬で運び、この先は人が背負います」
「穀物は?」
「今日の分は、迂回路へ回します。半日遅れても、在庫は持ちます」
「下りは、山羊乳と乳酪から」
カミラが言った。
「時間が経てば傷む。薬草も、濡らさない方がいい。炭、木材、鉱石は止めても構わない」
「鉱石の船積みは、五日後です」
リヴィアが付け加える。
「今日と明日に下ろす量を減らしても、港側で順番を組み替えられます。荷役人には、私から伝えます」
「中継所へ、雨避けを増やします」
アーデルハイトが言った。
「下ろせない荷を、濡れたまま置かないように。板と厚い布を運んでください」
「船で使っている防水布を、少し回せるわ」
リヴィアが答える。
「古いものなら、荷へ掛けるには十分です」
レオンは、崩れた路肩と、道の先を見た。
「人がすれ違う場所も決めた方がいい」
三人の視線が向く。
「このままでは、上る人間と、下りる人間が、狭いところでぶつかる。荷を持ったまま譲ろうとすれば、また足を滑らせる」
「時間を分ける?」
アーデルハイトが尋ねる。
「一刻ごとに、上りと下りを切り替える。急ぐ薬だけは、先に通す。崩れた場所の両側へ人を置いて、勝手に入らないようにする」
「それがいい」
カミラが頷いた。
「急いでいる者ほど、自分だけなら通れると思う。止める者が必要だ」
昨日までのレオンならば、耳に痛い言葉だったかもしれない。
今日も、少しだけ痛い。
けれど、否定する気にはなれなかった。
「俺のことを見て言ったか」
「心当たりがあるのか」
「少し」
「少しではない」
カミラは淡々と答えた。
アーデルハイトは、二人のやり取りへほんの少しだけ目を細めたあと、管理人と役人へ必要な指示を出していった。
人足を増やす。
荷を小分けにする。
雨避けを張る。
崩れた道へ入る者を管理する。
修繕に必要な石と木材は、別の迂回路から回す。
すべてを元どおりへ戻すには、数日掛かる。
だが、今日を止めずに済ませる方法はある。
その場で完璧な道を作ることはできない。
だからこそ、通すものから決める。




